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半導体量子メモリーで世界最長のコヒーレンス時間を達成

~ 量子中継技術の実現への一里塚 ~

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2009年6月26日

情報・システム研究機構国立情報学研究所(以下「NII」という。所長:坂内 正夫)の山本 喜久教授とそのグループは、独立行政法人情報通信研究機構(理事長:宮原 秀夫)の委託を受け、量子中継技術の中核となる半導体量子メモリー(電子スピン)で世界最長のコヒーレンス時間を達成することに成功しました。本技術の開発により、量子メモリーに必要なゲート動作(従来比7000倍)を行うことができるようになりました。これにより、更に長寿命の半導体原子核スピンへの量子情報の転写が可能となります。

量子中継技術が実用化されれば、地球規模の量子暗号網が実現されるものと期待されており、今回の成果は、量子中継システムの実現に向けた重要な一里塚となるものです。

背景

量子暗号通信は、量子コンピューターをはじめ、高性能なコンピューターが将来開発されたとしても、絶対に盗聴を許さないとされます。しかし、現状では、最大でも200km程度の伝送距離しかカバーできません。より長距離で、さらに地球規模の1,000km~10,000kmの量子暗号通信網を実現するためには、量子中継という技術を用いることが不可欠です。

そのような量子中継システムを構築するためには、長いコヒーレンス時間を持って、量子情報を保存できる量子メモリーの開発が不可欠ですが、既に、NII研究グループは、量子メモリーとして十分な性能を有する半導体原子核スピン(29Si同位体)を開発しています(室温でも1秒から30秒という極めて長いコヒーレンス時間を持ちます)。半導体原子核スピンは、光と直接結合せず、光ファイバー通信網に接続しないため、量子メモリーと光信号間の量子情報の転写は、29Si同位体にトラップされた電子を介して行いますが、そのためには、電子スピン自体のコヒーレンス時間が少なくとも1マイクロ秒よりも十分に長いことが要求されます。しかしながら、従来の電子スピンのコヒーレンス時間は、この期待値よりも3桁余りも短い1ナノ秒のオーダーでした。

今回の成果

1ナノ秒という極めて短い電子スピンのコヒーレンス時間は、半導体を組成するGaAs結晶のGaとAsの原子核スピンが時間的にゆらぎ、そのために発生する結晶内の磁場ゆらぎにその原因があることが最近の理論研究の結果、分かってきました。このような磁場ゆらぎによる電子スピンの高速デコヒーレンスを克服する手段として、NII研究グループは、今回光パルススピンエコーという新しい手法を開発し、電子スピンのコヒーレンス時間を7000倍も延ばし、7マイクロ秒という世界最長のコヒーレンス時間を達成することに成功しました。

また、光パルスを用いた電子スピンの任意の1量子ビット操作は、10ピコ秒の時間で完了することがすでにNII研究グループにより実証されているので[Nature Physics 4,780.(2008)]、今回の成果を合わせると、電子スピンのコヒーレンス時間内に約7×105回もの量子ビット演算を施すことが可能です。これにより、量子中継システムで、量子メモリーとして十分なコヒーレンス時間とゲート操作時間を持つことが実証され、量子中継技術を実現する上での最大の障害(光通信網とインターフェースの取れる長寿命の量子メモリーの開発)が克服されたことになります。

■この成果は6月26日(電子版6月19日)発刊の「Physical Review Letters」誌に掲載されます。
掲載論文名:Ultrafast optical spin echo for electron spins in semiconductors, Phys. Rev. Lett.(June 26,2009)   
http://prl.aps.org/
 

今後の展望

今後は、離れた2つの電子スピン量子メモリーから単一光子を同時発生し、量子メモリー間にエンタングル状態を形成する量子中継のシステム実験へ繋げていく予定です。

補足説明

背景の補足

量子中継システムを構築するためには、長いコヒーレンス時間を持って量子情報を保存できる量子メモリーの開発が不可欠です。シリコン結晶中に4.7%の割合で含まれる29Siアイソトープは、最も単純な核スピン1/2を持ち、室温でも1秒から30秒という極めて長いコヒーレンス時間を持つことをNII研究グループは、最近確認しました。この値は、超長距離の量子中継システムに不可欠な量子メモリーとして十分な性能であると言えます。しかし29Si原子核スピン自体は、光と直接結合しないため、光ファイバー通信網とのインターフェースをどう実現するかが大きな課題でした。

29Siアイソトープは、GaAs結晶中でGa原子を置換してドナー不純物となりますが、低温では電子1つをトラップして、中性ドナー不純物となります。この29Si原子にトラップされた不対電子のスピンは、29Si原子核スピンとハイパーファイン相互作用を介して結合することが知られています。その結合の強さは、約1MHzのオーダーです。この事実は、29Si原子核スピンの情報を電子スピンへ約1マイクロ秒のオーダーで転写できることを示しています。ただ、このような量子情報の転写を行うためには、電子スピン自体のコヒーレンス時間が1マイクロ秒よりも十分に長いことが要求されます。しかしながら、NII研究グループが様々な方法で測定した29Siドナー不純物に、トラップされた電子スピンのコヒーレンス時間は、この期待値よりも3桁余りも短い1ナノ秒のオーダーでした。

成果の補足

図1には、今回の実験で開発した半導体量子メモリーと光パルス実験系が示されています。不対電子一つをトラップした中性29Siドナー不純物は、共鳴光を照射すると新たにエキシトンと呼ばれる電子—ホール対をトラップします。この束縛エキシトン状態は、有限の寿命で光子を放出して崩壊し、再び中性29Siドナー状態へ戻ります(図1(a))。実験では、まずSiをドープしたGaAs結晶を10テスラの直流磁場中に置いて、ゼーマン効果により束縛電子スピンのエネルギー状態をエネルギー差50GHzの基底状態と励起状態に分裂させました。さらに、電子スピンの基底状態からおよそ300THzだけ高エネルギー側に、束縛エキシトン状態が存在します。このような系に対して、初めに電子スピンの励起状態と束縛エキシトン状態に共鳴した光パルスを照射し、電子スピンを基底状態に初期化しました(図2(a))。次に、電子スピンの基底状態と束縛エキシトン状態の周波数差よりも1THzほど低い中心周波数の2ピコ秒程度の時間幅を持つ光パルスを照射して、電子スピンを基底状態と励起状態の線形重ね合わせ状態に準備します(図1(b))。時間τの間、電子スピンを自由に回転させておいた後、第2の光パルスを照射し、電子スピンの向きを測定したところ、図2(b)に示すようなラムゼー干渉稿が観測されました。振動の周期はゼーマン周波数50GHzの逆数の20ピコ秒です。このラムゼー干渉稿は、2つの光パルスの間隔が約1ナノ秒を超えると消滅します。この時間が電子スピンのコヒーレンス時間に相当します。

新しい光パルススピンエコーの実験では、2つの光パルスの間(ちょうど中間点)に第3の光パルスを挿入します(図3(a))。このようにすると、第1パルスと第2パルスの間(τ1)にスピンへ作用した磁場ゆらぎと第2パルスと第3パルスの間(τ2)にスピンへ作用した磁場ゆらぎが互いに相殺してデコヒーレンスの要因を取り除くことができます。このようにした場合のラムゼー干渉稿は、図3(b)に示すように数マイクロ秒のオーダーまで存在することが確かめられました。ラムゼー干渉稿の減衰カーブから、コヒーレンス時間は7マイクロ秒と見積られました。この値は、これまでに観測されたGaAs中の電子スピンでは、最長のコヒーレンス時間であり、また29Si原子核スピンへの量子情報転写に必要な1マイクロ秒よりも十分に長い値です。更に、光パルスを用いた電子スピンの1ビット制御に必要な時間は約10ピコ秒であるので、そのコヒーレンス時間内に行える1ビット操作の回数は~7×105となり、この値は固体素子量子ビットのこれまでの記録を1000倍以上も改善するものです。

図1(a): 半導体量子メモリーの構成:29Si原子核スピンはハイパーファイン相互作用で束縛電子スピンへ結合している。電子スピンは光遷移で束縛エキシトン状態へ結合している。
図1(a):半導体量子メモリーの構成:29Si原子核スピンはハイパーファイン相互作用で束縛電子スピンへ結合している。電子スピンは光遷移で束縛エキシトン状態へ結合している。

図1(b):光パルスは入射(x)軸に100テスラ以上の大きな有効磁場を誘起し、2ピコ秒という短時間で電子スピンを回転させる。
図1(b):光パルスは入射(x)軸に100テスラ以上の大きな有効磁場を誘起し、2ピコ秒という短時間で電子スピンを回転させる。

図2(a):光ポンピングによる電子スピンの初期化
図2(a):光ポンピングによる電子スピンの初期化

図2(b): 2つの光パルスを用いて観測された電子スピンのラムゼー干渉稿
図2(b):2つの光パルスを用いて観測された電子スピンのラムゼー干渉稿

図3(a):  光パルススピンエコー実験に使用された光パルス列
図3(a):光パルススピンエコー実験に使用された光パルス列

図3(b):遅延時間τ1=26nsecとτ1s=1
図3(b):遅延時間τ;1;=26nsecとτ;1;s=1μsecにおけるスピンエコー信号。第2パルスを入れない場合、τ;1;=26nsecでラムゼー干渉稿は完全に消えている。ビジビリティー対遅延時間2τ;1;の観測値。

用語解説

コヒーレンス時間

スピンに保存された量子情報が消失してしまう時間のスケールです。基底状態と励起状態の間の位相関係が外部からの撹乱により乱されることにより起こります。GaAs電子スピンの場合には、半導体結晶を構成しているGaとAsの原子核スピンのゆらぎによりデコヒーレンス時間(~1ナノ秒)が決まります。

量子中継

全伝送路を複数のノードで分割し、近接する2つのノード間(量子メモリー間)に、まずエンタングル状態を形成しておきます。その後、エンタングルメントスワッピングという操作により、より遠く離れた量子メモリー間にエンタングル状態を形成する技術を言います。

電子スピン、原子核スピン

電子や原子核は右回りか左回りに自転しており、これにより上向きか下向きに磁場が発生します。前者をアップスピン、後者をダウンスピンと言います。

エンタングル状態

2つのスピンがそれぞれ上向きと下向きの線形重ね合わせ状態にあって、しかも2つのスピン間に量子相関がある時(例えば、スピン1が上向きならばスピン2は下向き、スピン1が下向きならばスピン2は上向きである時)、そのような2つのスピンはエンタングル状態にあると言います。

ゼーマン効果

電子スピンや核スピンを直流磁場中に置くと、アップスピンとダウンスピンは異なった磁気エネルギーを獲得し、エネルギー差が生じます。これをゼーマン効果と言います。

電子スピン共鳴

電子のゼーマン分裂周波数(基底状態と励起状態のエネルギー差に相当する電磁波の周波数)に共鳴したマイクロ波を照射すると、電子スピンはマイクロ波の振動(磁場)の方向を回転軸として回転を始めます。この現象を利用して電子スピンの状態を制御する方法を言います。今回の研究では、ゼーマン周波数に共鳴したマイクロ波の代わりに、極短光パルスを用いて電子スピンを高速に回転しているのが特徴です。

ラムゼー干渉、スピンエコー

2準位原子やゼーマン分裂した電子スピンを、第1のπ/2パルスで基底状態と励起状態の線形重ね合わせ状態に準備します。基底状態と励起状態は異なったエネルギーを持つため、2つの状態間の位相は、その後、時間の経過と共に周期的に回転します。そのため、第2のπ/2パルスを照射する時刻を変化させると、最終状態は基底状態と励起状態の間を周期的に変動します。この現象をラムゼー干渉と言います。2つのπ/2パルスの中間点に第3のπ‐パルスを挿入すると、不均一磁場による電子スピンのデコヒーレンスを取り除くことができます。これをスピンエコーと言います。

研究に関する 問い合わせ先

山本 喜久(ヤモモト ヨシヒサ)
情報・システム研究機構 国立情報学研究所
情報学プリンシプル研究系
Tel:03-4212-2506
Fax:03-4212-2641  
E-mail:

広報 問い合わせ先

国立情報学研究所 企画推進本部 広報普及チーム
佐久間 千里
Tel:03-4212-2131
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総合企画部 広報室
報道担当 廣田 幸子
Tel:042-327-6923
Fax:042-327-7587
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