・・・・ 研究管理者の心構え


横山 光雄 ・・・


 科学技術の進歩で、幸か不幸か、長寿社会になりました。昔は人生50年といい、退職後は余生で、悠々自適の生活で天寿を全う出来ました。しかし、現在は人生80年時代。退職後も生計をたてなければ路頭に迷います。逆に言えば、一生を二生に生きられる幸せな時代とも言えます。そのため、再就職の場で働くことが必要になります。しかし、私達の先輩の中には、必ずしも幸せな人生を歩んでいるとは言い難い人がいます。それは、研究所の現役時代の生き方に少し問題があったからと思います。これは私達管埋者の責任でもあります。研究の在り方については普段議論されているので、ここではだれも取り上げない、むしろタブーとして避けている話題を扱います。



水位を高くする生き方の勧め

 植物の生育は、それに必要な養分のうち最小のものに制約されるという「最小律の法則」があります。樽に水を入れるときは、一番低い側板がその役割を演じます。日経の春秋欄(H7.8.7)に、連立三党が思いきった政策を実行出来ないのはコンセンサスを求めるが故に、最も消極的な政党が一番低い側板になり政策の水位を低くする−−とありました。これに対し英国のサッチャーさんは旧約聖書の故事を引用し、要点を述べれば「コンセンサスの追求は根本的には国民の選択を抑え付ける」、「私はビジョンを提示する」、「信じるものは私についてきなさい」という政治を行ったと紹介していました。

 組織で何か新しいことを行うときにコンセンサスを求めることがあります。この作業で一番問題となるのは、革新的な作業に、最も消極的な職員あるいはグループが一番低い側板になり水位を低くすることです。そのとき最終的な決断を下すのは、研究室では室長であり、部単位では部長です。また、全体に関わることは、所長です。このようなときに、サッチヤ−さんのように、ビジョンを示し水位を高くするリーダーの存在が望まれます。コンセンサスは大事ですが、時として安易な妥協になりかねません。しかし、ここで扱うテーマは、組織のリーダーを誕生させる議論ではなく、水位を高める個人の生き方を問題にします。

 「三つ子の魂百迄」と言います。職員が一番影響を受けるのは最初に配属された研究室の室長です。孵化した雛鳥が、一番始めに見た動く生き物を自分の親とし、その行動様式をまねる−−「刷り込み現象」と同じです。室員は、室長の研究室の運営、研究手法、身なり、応対辞令、行動様式などを、じっと見ています。いいかげんな研究室運営、生き方を見せれば、室員は「こんなものでいいんだな」と水位の低い生き方を、自分の遺伝子の中にしっかり刻み込みます。そして、その生き方を第二の人生の場まで持っていきます。これが、突き詰めれば、第二の人生での失敗の一因です。室長と室員の関わりには、非常に大きな正の相関があります。勿論、反面教師として作用し、負の相関となる例外もありますが、事例は少ないのが現実です。室長の影響力、真に恐るべしです。

 室長は中小企業の社長と同じです。しかし、彼等は、手持ちの人と金で工夫をし、大きくなることに努力します。成功例は、巷間に沢山の書があります。我々の場合は、与えられた人・金で研究成果を上げるのが仕事です。しかし、中には、人が足りない金が足りないとぼやき、成果が上がらないの はそのためだという室長がいます。現在は室長が努力さえすれば、人も金も増やせる時代です。その姿勢は、企業家精神を醸成し、室員にも、工夫や努力で目的を達成する能力を根づかせます。公務員の外の社会はダウンサイジングや不況の風が吹いています。水位が低い人生では、直ぐ風邪をひいたり、病気になったり、ひいては、人生に区切りを付けること余儀なくされます。上司は、ビジョンを示し、自ら範を垂れ、職員の水位を高くすることに手を貸して下さい。水位の低い室長には、部長が影響力を行使し、水位の高い部にして欲しいと思います。


DecencyやSophisticatedであることの勧め

 私は常々、研究や教職にある人がネタタイも締めず出勤し、サンダル履きで作業服のまま、来客に応対するのを疑間に思ってきました。外来者が、きちんとした身なりの研修生を職員と思って挨拶し、正職員を何処かの派遣者とみなした事例も起きています。第二の職場から、身なりや応対辞令が悪いという指摘も受けます。先輩の不評は、本家の「組織の躾」が悪いとして、第二の就職先の門戸が閉ざされます。ちよっとした気配りが足りないばかりに−−です。

 よい研究成果を出すには、独創性・創造性が重要で、型にはめるのは良くないとよく言われます。研究は、研究しやすい身なりで行うほうが良いし、それに異存はありません。また、研究者は中味や成果が大事で、外見は評価の対象でなく、どうでも良いという考えも聞きます。しかしそういう主張をするrudeな態度の研究者は、研究もrudeで大したことはやっていません。私は、両者の相関は大である、と見ています。

 どんな美味しいお料理でも、糞尿の色・香で出されたのでは、食べる気にはなりません。お皿への盛り付け、食欲をそそる色合いや香、これらが揃って実際以上の美味しさを演出します。人間も同じで、実力があり、それに身なり、応対辞令が出来ていれば、持ち前以上に実力が評価されます。いわゆるTPOです。研究をするには、研究をしやすいどんな服装、身なりでもよい。しかし、来客に対しては「身なりを正す」という文化(組織の躾)は大事であると思います。昔、織田信長が斎藤道三の娘婿として会見したとき、道すがらの乞食姿から威風堂々の出で立ちで現われました。道三はこれに感激し、ぞっこん惚れ込んだ話は有名です。予約での来客には5分位前にネクタイを締め、身なりを正し、不意の客には、一時隣室に待たせ、身なりを整えて応対すれば、来客は感激します。所詮、織田信長流の応対辞令の極意です。

 日経の「あすへの話題(H7.8.5)」に「口うるせえ親」という平岩弓枝さんの記事が載っていました。乗車したタクシーの運転手さんが、路上側に子供を歩かせ手を引く親を見て、「子供が飛びだし轢かれたら、親の責任を棚にあげ、轢いた側に責任を要求する」話です。そのとき、「廃品置き場の山に子供が遊びに来て、誤って落ち、死亡した」ニユースが流れ、「危険防止の柵はしていなかった」と報じました。運転手さんは、「管理者の責任より、廃品置き場は子供の遊び場じゃない。子供の頃は親がしょっちゅう叱言をいった。どこそこは危ないから近寄るな。口うるせえ親だと思いましたが、おかげで今も生きてまさあ」。K研究所では、応対が悪い職員には厳しく叱責するとのこと。N研究所では、室長レベルのポストは、組織の顔として恥ずかしくない人間を当てるとのこと。我々の所はどうでしょうか? 上司は、是非とも「口うるせえ親」を演じて欲しい。しかし、その上司自身が躾を云々されるようでは救いがありません。

 育ちの良い家柄の人は、上品な人柄がにじみ出ます。品の良さ、英話でいう”decency”や” sophisticated”を身につけています。研究所の職員のちょっとした気配りで、組織の上品さを称えられます。研究所の職員が外部の人から好かれれば、味方が増えます。それによって、予算が増えたり、第二の就職先の門戸が拡大します。こんなよい効果を是非とも期待して止みません。


 最後になりますが、ハミング窓で有名なR.W.Hamming博士がベル研での講演(1986.3.7)の中で研究にもTPOとして「服装の重要性」を指摘しておりました。また、板坂元さんが随筆*の中で、「男の服装は手足を通してボタンをかければすむものばかりである。ネタタイだけが唯一例外で、自ら苦心してそのつど形を作らねばならない。毎朝、鏡を前に小さな造形創造を行うのだ。一日中ネクタイを締めてシャンとした自分(!)でありつづけ、夜それをほどき畳の上に投げ捨てて一瞬の解放感を味わう。それが私たちの日々のリズムである。(ネクタイを嫌い、いつも頑としてノーネクタイで通している芸術家や教授の知人がいるが、かれらは一日のリズムを何でとっているのだろう。そういえば、家の中でも同じ顔をしている。)」−−という一節があります。森村稔「ネクタイのほどき方」(筑摩書房、1988)から引用したらしい。ご参考までに挙げておきます。

(*「人生後半のための優雅な生き方」,PHP文庫,1994)。




(通信総合研究所 次長)