流星レーダについて


秋田電波観測所

  はじめに
 レーダ(rader)は遠隔探査装置(remote sensor)の はしりとして約40年前に考案され,今では電波計測の代 表格として気象レーダや航空管制レーダのように我々の 日常生活の場で活躍するまでになっている。一般にレー ダというとマイクロ波レーダを想起するが,目的や用途 に応じていろいろな周波数帯のレーダが開発され利用さ れていることはいうまでもない。
 この小文で紹介する下部電離層大気の観測用に開発さ れた流星レーダは標的(target)として流星を使い,その エコー特性を解析することにより地上80-110qの大気層 の性質を調べる大気遠隔測定装置である。
 晴れた夜空の風物詩,流れ星は太陽系を運行している 固体粒子(流星体という)が地球大気圏に突入する際に 大気粒子と衝突して地上高80-110qの大気層で発光する 現象であるが,この発光と同時に大気粒子と流星体原子 が電離され,飛行した流星体の跡にできる電離部分は流 星飛跡(meteor trail)と呼ばれ周囲に較べ電離度が大き い。この飛跡は円柱状の形をし,その長さは約1q,電 子密度は線密度で表わされ10^14個/m程度ある。このい わばミニ電離層は大きな散乱断面積を有し,VHF帯電 波の散乱媒体として利用でき,ヨーロッパやカナダでは VHF帯の流星通信回線が実用化されている。
 さてこの流星飛跡による反射エコー特性が周囲大気に 依存することを利用し,これを地上からレーダで追跡す ることにより流星発生層に関するいろいろな情報を得る ことができる。すなわち,飛跡は拡散によって消滅して ゆくが(平均寿命0.2秒),その間大気によって“運ばれ る”ので飛跡による反射波のドップラー偏移周波数を測 定することにより,その移動速度,つまり風速を求める ことができ,また反射波強度の減衰時定数は大気拡散係 数に反比例するので反射エコー強度の時間変動を測定す ることにより拡散係数が決定できる。さらに拡散係数は おもに大気密度に依存するから適当な仮定をおくことに より大気密度も求められる。
 この流星レーダは周波数が低い(37.46MHz)ことから 派生する問題を除けば技術的にはマイクロ波レーダと多 くの共通点を有する。ただこの流星レーダは他のレーダ と違い標的の持続時間が非常に短かく,従って短時間に 計測しなければならず,またこの周波数帯では空電や都 市雑音等外来雑音レベルが高いため所要のS/Nを得るの に種々の困難を伴う。さらに距離分解能を2q以下にし なければならないというデータ精度上の制約がある。こ れらの問題は送信出力を大きくし,パルス幅を短かくす ることにより解決されそうであるが,日本のような電波 過密社会では出力増大は電波監理上の限界があると思わ れる。従ってこの問題は別の方法で解決しなければなら ない。我々は後述のように外来雑音の問題は相関受信に より,また距離分解能の改善はスペクトル拡散方式によ り解決した。
 当所では上記の外来雑音除去用の受信信号相関器,距 離分解能改善用のPNコード変調,復調部を含めかなりの 部分は手作りながら,国際的水準を抜く高性能の装置を アジアで初めて完成し,目下観測を実施しているので装 直の概要及び観測結果の一部を紹介したい。なおこのレ ーダは名前の示す通り流星観測用として開発されたので あるが,夏季にはスポラディックE層(以下Es層と記す)を介 しての強い海面散乱エコーが観測され,海面波浪の遠隔 探査用としても活躍が期待できるので,海面散乱エコー の特徴についても簡単に述べる。
  当所の流星レーダの概要
 大気観測用流星レーダの歴史は1950年代にさかのぼり それ以来レーダ技術はめざましい発展をとげ,これに対 応して流星レーダにも幾多の改良,改善がなされてきた。 我々は外来雑音除去及び距離分解能改善のための独特な 機能を備え,次の諸元をもつ装置を開発した。周波数: 37.46MHz,送信出力(尖頭値):6kW,パルス幅:100μS〜280μS パルス繰り返し周波数:300Hz,空中線:5素 子八木アンテナ3基,データ処理:小型電算機によるオ ンライン処理(図1)。
 本装置に必要な周波数は1MHzの標準周波数から合成 され,従って送信波と反射波との間に位相関係が保たれ, 送信波の位相を基準位相としてパルス繰り返し毎に反射 波の位相を検出することによりドップラー周波数が求めら れる。またドップラー偏移の正負を判別するために基準 周波数を40Hzだけ偏移させてある。例えば反射体が受信 点に近づけば,受信波の周波数は送信周波数より大きく なり,従って基準波とのビート周波数は40Hzより小さく なり,逆に反射体が遠ざかる場合は大きくなる。
 流星発生層における物理量は高度によって大きく変動 するので有意なデータの取得には流星の発生高度の同定 が不可欠である。パルス受信機のS/Nは送信尖頭値出力 をP,パルス幅をτとして,両者の積Pτに比例し,当 然のことながら,パルス幅τが長いほどS/Nは改善され る。他方距離分解能はτが長いほど低下する。従って高 分解能を保ち,ある一定のS/Nを得るためには大電力のな るべく幅の狭いパルスを用いる必要がある。しかしこれ を実現するには種々の困難を伴う。そこで本装置ではこ のジレンマを解決するためにコード(符号)変調方式を 採用した。すなわち平均出力の増大は送信パルス幅を大 きくすることにより実現し,他方距離分解能の改善は送 信パルスをサブパルスに分割し,このサブパルスを二相 変調することにより,サブパルス幅によって決まる分解 能を得る。このコード変調は流星エコーが観測されたと きのみ行われる。
 他に類をみない本装置のすぐれた特徴は,自動車の点 火雑音,空電のようなパルス性雑音を除去するために相 関受信を行っていることである。つまりビデオ出力をシ フトレジスタに記憶させて自己相関をとるもので,パル ス繰り返し時間間隔3.3msの間に飛跡が動く距離は無 視できるから,エコー信号の基準パルスからの遅延時間 (つまり距離)は不変であり,相関出力は高レベルにな るのに反し,パルス性雑音の場合基準パルスからの遅延 時間はランダムだから出力は低レベルになる。この相関 出力はエコーの反射距離に関する情報も与えるのでこれ をもとに各種の信号が作られ,図1で示されるようにい ろいろなところで使われている。そのうち特に重要なの はアンテナ切替制御及び受信ゲート用信号で,前者によ り,2個のアンテナ入力(幅200μs)を時間分割して1個 の受信機で処理し,また後者を用いて,エコーが到来す る時間間隔だけ,エコー強度,ドップラー測定用受信機を ONにする。その他この相関出力によりデータ処理部へ の入出力の制御も行っている。
 次にデータ処理部について簡単に述べる。この部分は メモリ16k Wのミニコン本体,8チャンネルのA/D変換 器,32ビットBCDインターフェイス,パンチャ/プリンタか らなる。処理されて出力される諸量を列記すると,(1)流 星発生時刻,(2)反射強度の減衰時定数,(3)大気拡散係数 (4)仰角及び方位角,(5)反射距離及び反射高度,(6)風速 (7)流星の持続時間,(8)反射強度の最大値,(9)流星の発生 頻度等である。


図1 流星レーダ装置ブロック図

  下部電離層大気の運動と電波吸収の冬季異常
 D層はE,F層に較べ変動が小さく,D層伝搬波(長 波,超長波)はその安定性,速達性のため標準時刻供給, 電波航法に利用されているが,ときどき種々の大きな擾 乱を受けることは周知の事実である。特に太陽面擾乱と は直接関係のない冬季異常と呼ばれる現象は時間的,空 間的規模がそれぞれ数日,数千qにも及ぶ大規模な擾乱 であるが未だその発生機構すら不明である。この現象は ノーベル賞を受賞した英国のアップルトンによって1931 年に発見されたが,その重要な点は冬季に数日の規模で D層の電子密度が増大し,そこを通過する短波は減衰を 受け,D層伝搬波の位相及び強度に大きな変動を与える ということである。この現象と大気運 動が密接に関連していることが推測さ れるので,標準電波JG2 AS40kHzの位 相及び強度並びにJJY2.5及び5.0MHz の強度測定と流星レーダによる大気運 動の測定を同時に実施している。結果 の一部を図2に示す。
 下層大気の風系は主に海・陸の熱収 支に依存するが,上層大気では海陸分 布は直接影響せず,大気組成粒子の熱 収支によって決定される。大気組成粒 子による太陽輻射吸収は太陽天頂角に 従って変動するので,上層大気では周 期的な運動が期待される。図から明ら かなように確かに周期運動が卓越す るが奇妙なことにその周期は太陽時24時間ではなく12時 間である。さらにこの周期成分の他に一般流(非周期成 分)が存在することは図から明らかである。この半日成 分がどうして一日成分より大きいのか,またどのような 空間構造を有するのか等の問題はKelvin,Laplaceを始め 多くの人々によって研究されてきた問題であって,未だ その本質は解明されていない興味ある課題であるが,こ こではむしろ一般流に注目したい。
 この一般流は南半球,北半球大気による太陽輻射収受 の差異に起因すると思われ,高度100q付近では,夏半 球から冬半球へ流れるので,北半球の冬季には北向きの 流れが存在する(図で1月平均値グラフが横軸より上に あることから明らかである)。ところがこの一般的な傾向 から大きくずれる場合がある。15日の例がそうで,一般 流は南向きになっている。40kHz及び2.5,5.0MHzの伝 搬資料によるとこの日は擾乱が極めて強かった日である。 1977及び1978年の資料も同じ傾向を示すので,冬季異常 と一般流の変動は密接に関連していることは間違いない。
 それでは両者を関係づける物理過程としてどんなスト ーリーを考えればよいだろうか。前にも述べたように, この冬季異常はD層の電子密度の増大に起因する。問題 は何故数日の時間規模で電子密度が増大するかというこ とである。これまでの研究により電子密度の増大はNO (一酸化窒素)の増大に起因し,しかもこの増大は光化 学生成理論では説明できない。したがって大気運動によ る輸送によりNOが増大するとの考えが妥当のようであ る。
 ところでオーロラ地帯は中緯度に較べNOの濃度が大 きいから,一般流が南向きになるとき冬季異常が発生す るのは当然予想される。それではどうして一般流が北向 きから南向きに変るのだろうか。これについて気象ロケ ット資料の解析から,一般流の変動は冬季極東上空に卓 越するアリューシャン高気圧の東西方向の動きと関連し ていることが判明してきた。
 こうしてみると地上100q付近の現象は下層大気の擾 乱と密接に関連していることになり,非常に興味深い。我 々はさらに両者の関係を詳細に調査しているところである。


図2 流星レーダによる大気運動の測定例(日変化)

  遠距離散乱エコー
 流星の観測は通常パルス繰り返し周波数300Hz,従っ て最大探知距離500qで行うが,ときどき夏季の昼間, 反射距離が0〜500qの全範囲にわたり強いエコーが観 測され,流星観測に支障をきたす。送信パルス幅が100 μsであるにもかかわらず受信エコーの幅は3.3ms以上に 達するかなり強いエコーを観測した時は,その散乱機構 について当初皆目見当がつかず狐につままれた感じであ った。その後Es層を介しての海面散乱によるらしいと 思いあたり,最大探知距離を3000q(パルス繰り返し周 波数50Hz)にして観測したところ,反射距離及びエコー 幅は時刻,方向によっていろいろ変動していることが判 明した。前頁の写真はドップラー偏移信号及びエコー強 度のA-scope表示の記録である。掃引時間は前者の場合 20ms/div,後者で2ms/divである。
 この散乱エコーとEsとの対応関係は目下調査中であ るが,これまでの解析結果によるとEsの強さに応じて エコーの反射距離は変化し,エコーの方向別出現頻度は 南方向で最大,北西方向で最小になり,秋田を中心とし た海陸分布を考慮すると,このエコーは海面散乱に起因 することが推測される。時刻別では朝夕が最も多く,と きどき深夜でも観測される。さらにドップラー偏移周波 数も方向,時刻によって大きく変動し,散乱体の運動特 性が地域,時刻によって変化することも事実のようであ る。
 なお,外国の流星レーダ観測ではこのような散乱エコ ーは観測されておらず,このことはEs活動の地域差に よると思われ,本邦付近がEs活動の最も活発な地域で あるという統計的事実を間接的に確認したことになるで あろうか。


海面散乱エコーの記録例

  おわりに
 下部電離層大気の観測用に開発した流星レーダ装置の 概要及び観測結果について述べた。特に冬季異常と下層 大気擾乱とは密接に関連していることを示唆したが,こ のような大規模な現象の解明には地球規模の広域観測が 必要であり,1982年発足が予定されている中層大気国際 研究計画(MAP:Middle Atmosphere Program)に期待 したい。
 海面散乱エコーの観測資料の集積は未だ少なく断定的 なことは言えないが,これまでの解析結果だけからでも この種のレーダは海洋波浪の遠隔探査用として有望視さ れ,この方面の調査研究を強力に推進する必要があると 考えている。
 さらにこの種の散乱エコーはEs層の消長に依存するの でこのレーダは本邦付近のEs層観視に利用できEs層異常 伝搬によるVHF帯電波の混信の予測に役立てることが 期待できる。

(秋田電波観測所長  石嶺 剛)




ベイレー博士と電離層研究の復興


糟 谷  績

  はじめに
 去る6月23日正午,郵政大臣室において服部大臣より Dana K. Bailey博士へ感謝状が贈呈された。
 その感謝状は和文正文(写真)の他英文のものよりな っている。また,同日午後,電波研究所へお招きし記念 講演をしていただいた。
 さて,今日の電波研究所が,第二次大戦直後,その前 身の文部省電波物理研究所として存続でき,今日の隆盛 を極めている端緒を作ってくれた外国人の一人として, 氏が果した役割は実に大きく,その当時を知る一人とし て,当時の事情や思い出を述べ,今回の大臣感謝状贈呈 の由来を述べてみたい。このことについて,電波研究関 係の大先輩や,直接体験され,更に詳しい事情を御存知 の方々も数多くおられるので,この記述をするのは甚だ 僭越であって,適当でないと思われたが,たまたま今回, 氏来日のお りに現職の 電波研究所 長であった 立場から乞 われるまま に一文を寄 せさせてい ただくこと になった。


講演中のベイレー博士(当所講堂)

  氏のプロフィル
 ベイレー博士は今回,京都で開催されたCCIR第14 回総会に出席し,本総会を限りに第6研究委員会議長を 退任した。同氏がCCIR,SG6の議長に就任したの は1957年で,かの有名なデリンジャ(Dellinger)博士の 後を受けて,本総会まで約20年の長きにわたりCCIR のために多大の尽力をした。特に衛星通信が登場するまで は,短波通信,すなわち電離層通信は国際無線通信の中 心であり,花形であって,この研究委員会に対する各国 の寄与文書は多岐多様にわたっていたが,氏の豊富な知 識と卓越した手腕を以て審議し,テキストの内容の充実 化を図る一方,最近では時代の要請に応えて研究委員会 の中の作業委員会の組織改正を行うなどして審議がより 効率的に行えるように努力した。
 ベイレー氏はまた科学者としても多方面の研究をして きた人であるが,特に「電離層散乱波通信」及び「極 冠擾乱」の研究では世界的に忘れることのできない研究 者である。このことについては,詳しく述べる紙面をも たないし,今回感謝状が贈呈された直接の理由である電 波研究所存立の恩人としての由来を述べるのが本稿の目 的であるので,これらのことはまた別の機会にゆずるこ とにしたい。
 氏の経歴の概要は以下に記すようなものである。

1916年11月22日 米国イリノイ州グラレンドンヒル (Clarendon Hill)で誕生
1937年 アリゾナ大学天文学科卒
1940年 オックスフォード大学で物理学終了(B.A.)
1943年 オックスフォード大学で修士終了(M.A.)
1940〜41年 米国南極観測隊員として南極に滞在し宇 宙線の観測に従事
1941〜46年 陸軍通信隊に勤務(1945〜46年の間, マニラ,レイテ,東京勤務となり,特に東京勤務の 間,戦後の日本の電波研究活動の再興に多大の貢献 をした。
1946〜48年 ダグラス航空機会社に勤務
1948〜73年 米国国立標準局(National Bureau of Standards) 所属の中央電波伝搬研究所(CRPL,Central Radio Propagation Laboratory) に研究顧問として勤務
1957年〜現在 CCIR,SG6の議長として活躍
○Legion Of Merit(米国勲功章)受賞
○Arthur S. FLemming Government Award(フレミング賞)を受賞
○米国商務省賞を受賞


感謝状(和文)

  表彰に至る経緯
 今回,ベイレー氏へ何らかの形で政府として顕彰,慰 労の実を表すことを考慮すべきであるという動機を与え て下さったのは電波研究の大御所である難波捷吾博士で ある。CCIR京都総会が開催される直前,5月のある 日,博士から私のところへ突然電話があった。難波博士 は,ベイレー氏に対し,10年程以前,当時の電波研究関 係の責任のある方々,前田憲一,上田弘之,新川浩,河 野哲夫,青野雄一郎の諸博士諸先輩,当局の方々と相計 り,政府として顕彰することを提案し,叙勲の要望まで 行った。しかし,我が国の叙勲の内規には第二次大戦の 占領軍として駐留した軍人はその対象とならないという ことがあるため見送られていた。しかし,氏が今回の CCIR総会を限りにSG6議長を退任することになり, 今後は公式に我が国へ訪問する機会も乏しくなろう。政 府として顕彰,感謝の意を公式に表明するのに残された 唯一の機会であろうことを強調され,少なくとも直接の 恩恵を蒙った電波研究所からその発議をすべきであろう と御忠言をいただいた。私は直ちに本省当局にその実情 を訴え,多少の曲折はあったが,遂に服部大臣の意に通 ずるところとなり,ここに異例の感謝状贈呈ということ になった次第である。ここに改めて関係各位の御尽力に 深甚の謝意を表する次第である。
  電離層研究再開の背景
 さて,終戦時における電離層観測継続と電波研究再開 の基礎となった氏のエピソードは,続逓信事業史及び続 日本無線史が如実に物語ってくれる。
 その一 続逓信事業史(六)電波 抜粋(692〜694ぺ ージ)
 昭和20年日本政府は連合軍総司令部の指令に基づいて 科学研究機関の廃止を考慮した。このため,電波物理研 究所の存続が危くなった。ところが,20年10月2日,連 合軍総司令部のD. K. Bailey少佐の調査によって,東京の 電離層観測は,ワシントン,ロンドン及びワセルー(豪 州)とともに世界最古の歴史と伝統のもとに,最も重要 な長期間にわたる電離層観測の経験と観測資料を有し, かつ,アジアの広大な地域にわたる電離層観測データ(こ の中には軍が観測したデータもあった)を保存している ことが明らかにされた。これによって,総司令部から日 本政府あてに,20年10月11日付「日本全土にわたる電離 層の組織的観測並びに電波伝搬に関連する研究は継続さ れるべきことを希望する。この業務は電波物理研究所が 中核体を形成すべきものとする」という主旨の覚書 (AG676・3号)が送付されてきた。この覚書によって,電 波物理研究所の存続が確定しただけでなく,22年には, 庶務部2課,研究部3課,21研究室,7地方観測所(勝 浦,浜名,新発田,山川,深浦,稚内,京都),3分室(平 方,茅ヶ崎,網代),定員301名に膨張し,電波研究委員 会が電波物理研究所の設置を企図したときの規模に近い ものとなった。
 その二 続日本無線史 ,第一部 抜粋(875〜877ぺ ージ)
 戦時中は,電波研究所以外の研究機関の職員,あるい は大学教授なども専門の立場で軍事研究に動員されてい たが,終戦と同時に,連合軍の進駐に先だち,関係書類 の焼却を命ぜられた。このとき,個人的に自宅に持ち帰 っていた一部を除いて,多くの貴重な資料が灰じんに帰 した。いまにして思えばまことに残念なことである。連 合軍進駐前後の電波物理研究所の状況について「電波研 究所沿革史」の中に次のように述べられている。
 「電波物理研究所は軍に協力したという理由で連合軍 最高司令部から閉鎖を命ぜられるかもしれぬという不安 があった。そこへ,昭和20年10月2日,連合軍最高司令 部科学将校陸軍少佐,D. K. Baileyが研究所を臨検する という通知があり,この通知を受けた前田憲一研究官(当 時横山英太郎所長病気療養中のため所長代理)はいよい よ来るものが来たと覚悟をきめて,関係者全員を集めて その準備にとりかかった。当日は,臨検官の席を中央に しつらえ,その左右に随行者一行の席を設け,臨検官の テーブルには焼却を免れた資料を積み上げ,前田研究官 がその前に立って説明することにしてあった。前田研究 官はベイレー少佐を玄関に出迎え,用意してあった中央 の席に案内した。ところが,少佐は,その準備してあっ た席の隣に腰を降し,中央の席を前田研究官にすすめ, この席は,ドクター前田のシートであると言って緊張し て固くなっている前田研究官をいたわるようにしてその 席に着けた。おたがいに科学者として,相手の研究を尊 ぶという謙虚さがあふれており,戦勝国の臨検官という 態度は少しもなかったと,当時その席に居た人達から聞 いた。」当時の日本人の気持と,ベイレー少佐の人柄が 偲ばれるので,ここに引用した次第である。ベイレー少 佐は第2回目の訪問(10月9日)において電波物理研究 所が今後も電離層の研究を行う意志があるか,もしなけ れば,GHQ通信部が,稚内,東京,鹿児島の3か所で 電離層観測を行う用意があることを伝えた。前田研究菅 は,少佐の意外な発言に力を得て,電離層の研究は今後 も継続したい旨を申し出て,なにぶんの取計らいを要請 した。そこで,連合軍指令部の覚書(AG676・3号) が昭和20年10月10日に日本政府に渡された。その写しは 第3回目の訪問(10月16日)のとき前田研究官に手渡さ れたが,これは後日大きな効果を発揮することになる。
 この覚書の内容(前出)は(1)電波物理研究所を日本に おける電離層観測並びに,これに関する研究の中核体と すること,(2)電波伝搬の研究に使用した旧日本軍の研究 施設及び職員をこの新しい目的のために転用してよいこ と,(3)北海道,東北,南九州に地方観測所を建設するこ と,(4)電離層観測結果を毎月GHQに提出すること,な どが述べられている。
 さきに,大蔵省は予算面から電波物理研究所を廃止す る考えであったが,この覚書を携えた前田研究官は11月 24日大蔵省主計官に3時間にわたる折衝を行い,その結 果,研究所の存続,地方観測所の設置が認められ,海外 から帰還を予定される所員の大部分を収容するに足るだ けの定員を確保することができた。そして大蔵省は 第2 予備金から約60万円を支出して研究所の整備を約した。
 ベイレー少佐は,その後,約半年にわたって在日し, その間,もっぱら日本における戦前からの電波研究に関 する文献資料の調査を行い,その結果をまとめて米本国 向けに大部の報告書2巻,(Report on Japanese Research on Radio Wave Propagation Vol.T,Vol.U GHQ U. S. Army Forces, Pacific Office of the Chief Signal Officer Tokyo May,1946)を作成した。この報告書の Vol.Kは電離層観測結果を表の形でまとめたものであ るが,Vol.T には当時の日本の電波科学のレベルにつ いて評価を行っており,われわれにとって興味のあるも のである。そして,付録として,陸軍,海軍,逓信,文 部,各省の研究所から集めた研究資料や論文を丹念に整 理し,それぞれの内容を紹介し,それに重要度まで付記 したものが添付してある。
 この報告書に関しては次のような話も伝えられている。 昭和21年(1946年)5月23日の夜,サイゴンで捕虜とな っていると伝えられていた上田弘之氏が,突然前田憲一 氏の私宅に現われた。両人は再会を喜んだことはもちろ んであるが,前田氏が特に深い感動を受けたことは,上田 氏が自己の配下にあった南方の陸軍関係の電離層観測所 で取得した貴重なデータを英軍将校に没収される前に, その全部を古紙に筆写して,腹に巻いて持ち帰ったこと である。その紙は途中で何度か汗に濡れては乾かし,濡 れては乾かして,すでに茶色に変色し,文字も定かでな かった。翌日両人は,当時帰国の準備中であったベイレ ー少佐をGHQに訪ねてそのデータを手渡した。少佐も しばらく感にたえた面持ちでその茶色のデータと両名の 顔をながめていたそうである。前述の報告書Vol.Uにこ のデータが急きょ追加されたが,このために少佐は離日を 若干延期したと聞いている。研究者のデータに対する執 念がうかがえる話である。
 以上二つの歴史書にのせられた事を,ここに転用させ て貰ったが,ベイレー少佐と我が国電離層研究の終戦時 の事情を彷彿して余りある。
  戦時下の電離層観測
 筆者は戦時下の昭和18年秋,電波物理研究所へ入所して直 ちに海軍に勤務,目黒の海軍技術研究所において電波伝 搬の研究に従事し,海軍関係の内外から集められた電離 層観測記録の整理,電波予報等を仕事としていた。上司 には伊藤庸二,新川浩,蓑妻二三雄の各氏らがおられ,後に 千田勘太郎氏が南方から帰ってこられた。日増しに激し さを加える空襲に昭和20年5月,目黒技研から米沢工専 へ電離層記録を疎開させた(米工専の大高校長が技研電 波研究部長名和中将の友人のよしみで米沢工専は技研疎 開地の一つとなった)。海軍の記録には1932年以来目黒,平 塚の記録があり,我が国最古のもので伊藤庸二博士の創始 したものである。またパラオの観測所は新川浩氏が建設 したもので南方の代表データでもあった。その他,大東 亜地区に海軍が担当した幌延,マカッサル,ペナン等の膨大 な量のデータを運んだ。終戦後直ちに返却し,電波物理 研究所に提出した次第で,ベイレー氏に渡った資料とな っているし,今なお原本は電波研究所にある。終戦時に は前田研究官の外,青野雄一郎氏,中田美明氏,米沢利 之氏、横山浩氏らが電離層研究に当たっており,また後藤 三男氏,水口堯夫氏らの名前も忘れられない。そして陸 軍では上田弘之氏のほか深野稔氏(満州チチハル)小林 常人氏などが電離層伝搬研究に従事していた人々である。 又,大東亜圏の北に南に陸海軍の軍属として電波物理研 究所より電波調査隊として派遣された人々に鵜飼重孝氏, 安住忠一氏(シンガポール,バンドン),工藤寿氏(シン ガポール,ラングーン),辰己博一氏,清水富次氏(シン ガポール,マニラ)宮崎謙氏(シンガポール),石川三郎 氏(ペナン),池田正男氏(マカッサル),小島荘氏(豊原, パラムシロ),長島晃次氏(豊原),中野達一氏,菅宮夫氏 (漢口),緒方隆信氏(豊原),などの方々がおりこれらの 方々の観測したデータがすべてベイレー氏のところへ集 約された。一方,那覇(高山秀司氏),台南(吉田満治氏, 吉川和男氏),サイゴン(鵜飼重孝氏,工藤寿氏),クエゼ リン(藤崎弥三郎氏)の各地では観測所の建設直後また は建設中に戦利あらず,まとまったデータを取得するに いたらなかったこと,特に辰己,長島の両氏は行方不明, 藤崎氏らは全員玉砕するという不運にあったことは誠に 残念であった。ここに名前を挙げたのは直接電離層観測 を行った代表的な人々で,書き洩らしたり,失念した方々 もあるかも知れない。その失礼は衷心よりお詫びする。
  おわりに
 ところで、現在、電波研究所で、或いは外部にあって, 電離層研究さらに宇宙空間研究に活躍されている方々は 何れも戦後,研究に従事した人々であり,むしろ我が国 の電離層研究が世界的な名声を博したのは上記の人々の 外に多くの方々の努力があったからであるが,ベイレー 氏が調査した我が国の戦前,戦中の電離層研究と直接関 係がないので敢えて取り挙げないことにした。当時の方 々の大半は既に現役を退任され,我が国における電波研 究の礎となっている。そして,当時ベイレー氏の如き優 れた科学者が敵国であった日本の業績,特に伊藤,難波, 前田,上田,新川の各氏諸先輩の業績について深く理解 を示していてくれたからこそ,電離層あるいは電波研究 の再開が円滑にいったことを銘記すべきである。聞くと ころによると,占領軍の戦後の科学政策として,当時と しては我が国で貴重な理研,京大などにあったサイクロ トロン等の重要科学研究施設の大半が無理解のまま占領 軍の手により破壊処分されたが,そのことと対比すると 改めて一大感慨を覚えるものがある。
 終りに本稿作成にあたって田尾一彦,若井登,石川三 郎の各氏の御援助を得たことを付記し謝意を表します。

(前電波研究所長・現東京都立大学工学部教授)




第7回AIAA通信衛星システム会議に出席して


塚本 賢一,畚野 信義

  はじめに
 7th American Institute of Aeronautics and Astronautics, Communications Satellite Systems Conference が昭和53年4月23日(日)から27日(木)の5日間,米国サンデ ィエゴ市にあるTown and Country HotelのConvention Center で開催され,電波研究所から我々2名が出席し, CS,BS,ECS,の各計画及びETS-Uの成果につ き合計4件の論文発表を行った。
 AIAA(米航空宇宙学会)の通信衛星システム会議 は2年毎に開かれ,現在では世界各国からの寄与論文も 多く事実上の国際会議となっている。電波研究所からは 前回,石田衛星研究部長がカナダのモントリオールでの 会議に出席されてから2回目である。今回の会議出席者 総数は前回の約2倍の600名以上に達し外国からの参加 者が飛躍的に増えた。日本からは電波研究所,宇宙開発 事業団(NASDA),日本電信電話公社(NTT), 国際電信電話株式会社(KDD),日本電気株式会社 (NEC),三菱電機株式会社(Melco),東京芝浦電気株 式会社(Toshiba)等からの計9名の参加があった。東京大学 の斎藤教授が日本の代表としてTechnical Program co-Chairman であったが都合で出席できず,NASDAの 平井理事が代理を務められた。
  会議の概要
 今回の発表論文数は104件,うち外国から33件,日本 からは8件で23のセッション(うち四つはパネルディス カッション)に分かれ,1件あたり紹介5分,講演20分, 質問5分の割り当てで,三つの部屋で並行して行われた。


表 各セッションのテーマと発表論文件数

 各セッションのテーマと論文件数を表に示す。うち, セッション2,12,13はCTS(14/12GHz)を通じ, 東海岸のCOMSAT LAB. と結ぶTV会議の形で行 われた。このため会場横には写真1に示すような NASA Lewis Research Centerの車載局が設置されていた。


写真1 NASA Lewis Research Centerの 車載局(CTS計画に使用)

 このTeleconferenceの実演に象徴されるように,衛星 通信は既に現実のものであり,更に進んだものへの改良 の努力は当然不断に続くものであるが,解決しなければ ならぬ技術的障壁や,未経験であるがための困難に直面 した時代は過ぎ去った。技術開発の歴史に多く見られる ように,衛星通信もハードウェア先行の黎明期を終え, 成熟期の入口にあり,ソフトウェアに力が注がれようと している。論文の数からいえば,まだまだハードウェア に関するものが多いが,会議の構成や参加者の意識は明 らかにその方向を志向しているように感じられた。即ち, 衛星通信の多様な利用形態の予測と開拓,需要の動向の 予測,それらを踏まえた将来システムの検討と提案に力 点が置かれ,技術開発も多くはその方向に沿っている。
 周波数で大きく分けると,6/4GHz帯,14/12GHz帯, 30/20GHz帯,ミリ波,UHFとなる。
 6/4GHz帯は,トランスポンダの固体化等を除き, ハードウェアはほぼ確立し,ネットワーク,運用システ ム,通信方式(TDMA,再生中継等),周波数再使用が 主な話題である。
 14/12GHz帯も、前述のTeleconferenceがこの周波数 のCTSを介して行われたように,技術的レベルとしては実用 化の段階に来ており,実用システムの検討と,それに伴 う実用搭載機器(特に大電力TWT等)の開発が行われ ており,中でもヨーロッパの自主開発の努力には注目さ せられる。
 30/20GHz帯については,我が国のCSが一歩先んじ ているが,各国でも実用化のための計画が進められてい る。特に,ヨーロッパでは活発で,通称H-Satと呼ば れるアリアン・ロケットで打上げ予定の衛星について, その計画の由来と内容,システムと衛星の構成,TWT 等それに必要な機器の着実な自主開発の状況等について, いくつかの論文が発表されている。
 ミリ波については,ETS-U/ECS以外では,特殊な 用途,特に軍用目的のものが目立つ。米軍は,ミリ波と UHFを使い,戦場の一兵卒の動向に至るまでの戦況を 本国の指令部で把握し,又命令を伝えることのできるネ ットワークを,全世界に確立するための実験を行っており, その概要の他,水蒸気の吸収帯のミリ波やレーザによる 秘密通信のための開発についても発表が行われた。
 UHF帯は,最も多様な利用形態について検討が進め られている領域であるが,その主な特徴は様々な公衆サ ービスと,そのための小型で安価な地上装置にあるとい える。UHFは,14/12GHz帯と共に直接放送が計画さ れている周波数帯であり,又船舶,航空機,軍用通信等 についての検討が発表されている。
 スペース・シャトルの実用化が近づいたことにより, 従来の通信衛星の概念にはなかった計画が現実化しはじ めている。OAF(Orbital Antenna Farm)に代表され るような準宇宙ステーション的発想,直接放送では 14/12GHz帯を用いる計画とそのための出力700Wにも上る 大電力TWTの開発,UHF帯直接放送のための直径300 mにも達する大アンテナによるマルチスポット・ビーム 周波数再利用の計画等がそれである。
 ハードウェアの開発では. 各国とも長期のビジョンに 立って相当な資金を投入し,着実に開発を行っている。 米国で軍用に37GHz帯,出力5Wの半導体電力増幅器が完 成している事等におどろかされるが,特にヨーロッパの 自主開発にかける努力には注目させられ,衛星計画が先 立ち,基礎的,先行的開発研究が認められにくい今までの 我が国の宇宙開発計画の傾向に再考の必要性を痛感した。
 衛星計画の進め方についてみても,各国では需要や利 用形態の綿密な調査と,それに基づく予測を行い,計画 のアウトラインを描き,技術的なfeasibility studyの後, システムや衛星の構成決定,そのためのコンポーネント の開発,その後はじめて衛星の開発,製作,打上げへと 至るが,我が国の場合がなりの部分が抜けていたり順序 が異っており,今後の検討を要するところである。
  電波研究所からの発表
 Session 12,Television via SatelliteでBS実験計画に ついて,塚本が発表した。降雨マージン,ディジタルTV, 日本の放送衛星計画と衛星の規模等に質問があり, BS計画についての関心の強さがうかがわれた。これは 前述のようにTeleconferenceで行われたが,COMSAT LAB. 側へNASDAのフィラデルフィア駐在員の沢部氏 の出席を依頼した。
 Session 20,Emerging Domestic Communication Satellite Systems では,NASDAの平井理事がカナダの Domb氏と共に議長を務められ,「CS計画に於ける実験」, 「日本のECS計画」をそれぞれ塚本,畚野が発表した。 他にインドネシアのPARAPAシステム,ノルウェーの NORSATシステムの発表があったが,主として地上局 システム等の紹介であり,これらに比しCS,ECSの 発表は格段に内容が豊富であり熱心な質疑があった。
 Session21,Propagation:Tests and Implicationsで, 「ETS-Uの伝搬実験」を畚野が発表した。このセッ ションでは,衛星回線伝搬実験として,ETS-Uに対 抗できる唯一の本格実験である,COMSTAR伝搬実験 に関するものが2件出されたが,いずれも実験のー部の 様子を報告するものであり,ETS-Uの降雨レーダま で動員した巧妙で本格的な実験システムによる特異イベント から統計的結果までそろえた実験データを駆使した実験の全 貌の紹介の前には,全く見劣りするものであった。 ETS-Uの講演は座長の希望で,通常30分の割当て時間を 1時間以上与えられ,出席者に強い印象を与える講演が できたと考えている。これは全てETS-Uの担当者の 努力により得られた,素晴しい内容を持つ成果に負うも のである。伝搬そのものに興味を持つ人はそれほど数多 くはないが,伝搬データが通信を行うための欠くべから ざる基礎であることの重要性はよく認識され,その最先 端のデータをにぎった日本に注目している。Rand Corporation, Aero-Space Corporation,Bell Labs. , Comsat Lab. ,Fairchild Space and Electronics等から帰 国前に寄っていかないか,と誘われたのはこのことをよ く示している。会議終了後のExecutive Committeeでも, ETS-U実験の発表は非常に良かったと話題に出たと, 斎藤先生の代理で出席された平井理事が大変喜んでおら れた。
 この他,当所に関係あるものとして,ECSのトラン スポンダの開発に関してNECとNASDAにより,又 ECSのアンテナの開発に関してFACC社から発表があった。


写真2 TDRSSの展示モデル(TRW社出品)

  その他
 会議第2日目から別室で,米国各社の衛星模型を主体 とする展示があり,特に注目を集めていたのが,TRW社 のTDRSS(写真2参照)、GE社のBS,Hughes社のANIK-C等 であり,その他軍による衛星−衛星,航空機−衛 星−航空機通信を行うレーザ・トランスポンダの Engineering Feasibility Modelの出品もあった。
 第3日には昼食会があり,AIAAのpresidentのF. A. Cleveland氏 により,当所にもなじみの深いNASA,H. Q. のReonard Jaffee氏に対し宇宙通信への貢献に対する表 彰が行われ,Hughes社宇宙通信担当副社長A. D. Wheelon氏 による招待講演が行われた。
 今回の会議を通しての感想は,衛星通信部門での日本 の評価が極めて高いということである。有力なCustomer として,又技術開発国として,米国に続き,全ESA (European Space Agency)グループと日本が同等の評価 を受けているという印象をもった。この評価を保つため にも,衛星計画と共に,利用のソフトウェア,コンポー ネント等の自主開発も含め,バランスのとれた開発を, 長期ビジョンの上に立って着実に行うよう,心掛けるべ きであろう。
 AIAA会議はIAF(International Astronautical Federation) 会議と同様宇宙開発関係の最新の世界の動向を知り, 我が国の現状と対比するうえで,極めて有益な場である と痛感した。当所としても,これらの会議への出席と論 文発表は,是非今後とも続けるよう努力すべきである。
 会議終了の翌28日(金)には,San Diegoに近いLos Angeles のHughes社を訪問し,衛星製作と送信管 (特にTWT)製作の工場を見学し,GS,ECS用TWTの状況に ついてDiscussionし,あわただしい日程を終えた。他に 一,二の訪問も計画したが,帰国が連休の後半にかかる ため,飛行機がとれず断念した。Los Angelesのホテル Hawaiiの空港,あるいは往復の飛行機と日本人の多さに改 めて円高を感じた。
 尚,提出論文を収めた800頁近い論文集が発行されて おり,当所図書室,衛星研究部,鹿島支所がそれぞれ所 蔵しているので,興味のある方は御利用いただきたい。

(衛星研究部主任研究官,同通信衛星研究室主任研究官)


 加筆訂正
 本ニュースNo. 28(1978年7月号)の“郵政省の「宇宙開発計画」の見直し要望について” の記事中5頁の(参考資料)の中で「4 航空・海上技術衛星(AMES)」の欄以下に 次の項を加筆して下さい。
5 衛星とう載用能動型電波リモートセンサーの開発研究
将来の衛星通信におけるミリ波利用の基礎の拡充を図るために, また,集中豪雨の監視,海洋観測等各種リモートセンシングへの利用も 期待できる衛星とう載用能動型電波リモートセンサーの開発研究を引き続き行う。

短   信


ECS副局庁舎完成

 昨年9月に着工したECS副局の建築工事関係は去る 7月14日をもって全部完了した。
工事内容 衛星実験のための増築庁舎(2階,約328u,)
     アンテナ庁舎(2階,約132u)
     マイクロ端局舎(1階, 5m,)
     上記各庁舎間を結ぶ管路工事
 現在,アンテナ庁舎では直径10mのパラボラ・アンテナの 組立・調整工事が進行中で,さらに8月からは衛星用 送受信機一式,諸観測機,電算機,マイクロ回線端局装 置等の搬入据付調整(単体及び総合)が行われ,12月20 日には全てのECS副局用設備が完成し,来年2月打上 げ予定のECSによる実験に備えることになっている。



BS,定常段階へ移行

 本年4月8日に米国ケープカナベラル東部射場から打 ち上げられ,4月26日東経110°に静止した実験用中型放 送衛星(BS「ゆり」)は,打上げ後90日間にわたる初期 段階において宇宙開発事業団(NASDA)による衛星のチ ェックアウト(Kバンド系統については鹿島支所BS主 局において支援)の結果,その機能・性能は正常である ことが確認され,7月5日郵政省に対しBSの開発結果 の報告が行われた。
 これによりBS実験を実施するため,定常段階移行の ための一連の手続が開始され,BS実験を行う各種地球 局施設(電波研究所及び日本放送協会所属)と衛星との 総合確認検査にも合格し,郵政省とNASDAとの間の運 用協定が結ばれ,7月20日初期段階から定常段階に移行 され,同日よりBS主局で実験が開始された。
 BSによる実験計画等の詳細については本ニュース, 1977. 4. No.13を参照されたい。



電波研究所電子計算機運用委員会の発足

 当所の計算機は,大型計算機の持つバッチ及びTSS 機能を使用して本所,支所,観測所及び所内異種計算機 からの同時利用ができるよう構成されている。最近,そ の利用形態の多様化に加えて衛星計画推進によるデータ の急増が見込まれ,ハードウェアとその運用面から考え て,従来のような各部門からの要求への即応が困難な情 勢となって来た。一方プロセス制御・処理を主目的とし て設置された,所内20数台の中・小計算機の問題もある。
 これらの計算機システムを組織の中で関係業務との関 連を綜合的に把握し,適正な運用整備計画の方針を決定 するために昭和53年7月1日情報処理部長を委員長とす る電子計算機運用委員会を発足させた。当面7月6日の 第1回委員会の方針により,二つの分科会においてそれ ぞれ,システムの運用計画及び整備計画の検討を進める ことになるが,既に両分科会共第1回の会合を開き活動 を開始した。



電波研究所ニュースのアンケート結果

 電波研究所ニュース(以下「ニュース」と略記)を昭 和51年4月に創刊して以来2年が経過しましたので,こ れを機会に昭和53年3月号で「ニュース」についての読 者の評価と御意見を伺って今後の編集に活かすことを目 的としたアンケート調査を実施しました。ここにアンケ ートにお答えいただいた方々に篤く御礼申し上げるとと もに,その結果の概要を報告します。
 アンケートの回収率は,アンケート用紙配布教858部 に対して御回答いただいた数は318件という結果で, 約37%でした。御回答いただいた内から項目毎に集計す ると,「ニュース」は92%の方々へ定期的に手元に届い ており,届いた「ニュース」は30%の方々が始めから終 りまでほぼ全部読み,60%の方々が標題によって興味の ある記事だけを読むという結果でした。また参考にして いるかどうかについては約85%の方々が,しばしば又は ときたま参考にしている。国立研究機関の発行するもの としての適切性及び他機関が発行している同種ニュース との比較では,各々ほぼ適切(90%)及び同程度である (42%),よくできている(45%)との評価でした。
 「ニュース」の表現が理解し易いかどうかについては 平易で理解し易いが85%であり,「ニュース」の読まれて いる割合及び参考度等とも考え併わせると,「ニュース」 は手頃で理解し易いと評価されているようでした。しか し専門用語については説明を適宜入れること,解説記事 は平易に誰にでも理解できるように,という意見も5% 程度見受けられました。


電波研究所ニュースのアンケート集計例
(円グラフ上の数字は解答数318の内訳を示す)

 「ニュース」が当所の研究の進め方を理解する上で役 立つか,また当所の研究活動の現状を知る上で役立つか, という設問に対しては,90%以上の方々が大いに,又は 少しは役立っているとの回答でした。
 具体的な記事内容に関する設問として,海外出張報告 や短信についてお尋ねしましたが,それぞれ従来の書き 方でよい(86%),有用でありこの程度の記述でよい(78 %)の回答が多数でした。
「ニュース」全般に対する御意見は108件(約39%)あ り,その主なものには@全般的に見てこれで良いという 意見,A専門的な事項の書き方等についてのコメント, B当所の主要研究項目やトピックスの紹介,関連する外 国の技術動向の解説,当所の組織体制の掲載等の要望, C継続して刊行すること,記事内容について引き続き部 内努力を払うこと,また専門分野に拘わらず部外の読者 を念頭におき記事の平易性に重点を置くこと等の御忠言 があり,D例えば,研究室めぐりなど具体的な掲載記事の 提案等がありました。これらの貴重な御意見は今後の編 集活動に十分活かし,よりよい「ニュース」発行のため の参考にさせていただきます。当「ニュース」の刊行及 び編集活動に対しては,今後とも一層の御理解と御協力 を賜わりますようお願い致します。  (企画部第一課)



創立記念施設一般公開

 恒例の創立記念施設一般公開を,8月1日(火)10:00〜 16:00時のあいだ,本所,平磯支所,全地方電波観測所 でいっせいに実施した。
 北は記録的な猛暑,関東地区は台風の接近で一日中降 ったり止んだりの天候不順にもかかわらず,多数の熱心 な見学者が訪れ,好評を博した。
 特に今回は,地方機関の周知宣伝に重点を置いたので 現地では予想外の見学者数にびっくりする程で,その応 対に嬉しい悲鳴をあげていた。本所の模様はNHKテレ ビで翌朝報道され,平磯支所については茨城放送で生中 継された。
 見学者数 本所:429名,平磯幾支所:104名,稚内:48名
秋田:80名,犬吠:51名,山川:216名,沖縄:35名