設立30周年を記念して


所長 若井 登

  はじめに
 電波研究所が,郵政省の付属機関として発足した昭和 27年8月1日は,単に設立記念日ということ以上に,大 きな意味をもった日といえます。すなわち,終戦直後か ら続いた度重なる所属及び名称の改変は,その日を境に して終止符を打ち,じ後一貫して,無線通信,電波計測 及び大気科学の研究を中心的課題とする当所の現在の態 勢が確立されだからです。当時は日本全体が,混沌から 秩序への道を歩んでいた時でしたが,それにしても誠に 時と処の宜しきを得た,新生研究所の発足であったとい うことができます。
 本稿を書くにあたり,当時の状況を伝える年史,懐古 談などを読み返してみて,幾多の厳しい周囲条件の中に ありながら,広い視野,高い識見と先見の明をもって方 針の策定にあたられ,今日の電波研究所の基礎を築かれ た先輩諸氏に対して,改めて深い敬意を表する次第です。
  30周年記念事業
 さてこの30年間に当所はどのように発展してきたか。 この点については,昭和47年までは「電波研究所二十年 史」(既刊)に詳しく記載されており,それ以降は「最近 の十年間の歩み」(仮題,昭和58年刊行予定)に述べられ ることになっています。この年史発行を筆頭に,30周年 記念事業として次のような計画を実現し,またはその第 一歩を踏み出したいと考えています。
 (1)年史は,二十年史と構成,文体等を同じにして,そ れに続く十年史としてまとめ,昭和58年発刊を目ざ す。
 (2)所外の有識者の電波研究所に対する注文,意見など を聞く座談会を開催し(すでに5月に実施),その概 要を電波時報に掲載する。
 (3)例年設立記念日前後に行っている施設の一般公開に 際し,歴史的資料や写真,由緒ある機器などを特設 コーナーを設けて展示し,公開後もそれらを一室に 集めて保管する。
 (4)今秋に所員を対象とした講演会を開催し,電波研究 の歴史又は将来について,斯界の先輩から体験を交 えた高説を承って今後の方向策定の糧とする。
 (5)当所における電波伝搬研究のポテンシャルを集約し, 最新の知見も採り入れて,この分野の実務的なテキ ストを出版する。またできればこのような実務テキ スト作りを他の分野にも広げる。
 (6)電波研究所設立以前の歴史をとどめるため,前史の 編集にとりかかる(上田弘之元所長の提案に基づく事 業)。これは大正初期の逓信省まで遡り,平磯出張所 の発足,無線機器の規格制定から型式検定業務への 移行,検見川からの標準電波発射などを含める。し かしこの項目に関しては,資料も少なく現役の所員 だけでは到底まとめられないので,諸先輩の御助力 をお願いする。
 諸経費の大幅な節減を強いられている昨今ですが,せ めて上記の計画位は,30周年を有意義なものとするため の最低の事業として実現させたいと考えています。

電波研究所の機構の今昔

  組織等の推移
 言うまでもなく,30周年を祝うことの意義は,来し方 を眺め,今在る場所を確め,そして将来の発展の方策を 見出すことにあります。そこでこの機会に,全部は尽せ ないまでも,主要な事項について,30年前と現在とを直 接比較し,内在する問題点や今後の方向などについて所 見を述べてみたいと思います。
 まず定員については,昭和27年の380人に対して昭和 57年は458人,成立予算額では,前者の約1億6,000万 円に対して後者は約45億1,500万円(文部省,科学技術 庁,環境庁からの移し替え経費を含む)であり,30年間 の伸び率は定員が1.2倍,予算が28.2倍になります。こ れらの推移を考える際の参考データとして,昭和24年と 54年の全国勤労者所得平均額と一般会計予算総額を挙げ てみますと,前者はそれぞれ1万4000円と23万2000円で 倍率16.6,後者はそれぞれ,7410億4700万円と39兆6676 億円で倍率53.5となります。 もちろん内容の異なるも のを単純に倍率比較で論ずることは出来ません。しかし 日本全体の経済活動や貨幣価値の推移に比較して,当所 の研究費の伸びは決して大きいとはいえないでしょう。 その上当所予算は,この30年間の研究項目の増加すなわ ち電波技術開発に関する社会の期待度の増加も含んでの 数字なのです。また定員数についても,種々の要因がか らむので,単純な比較はできませんが,研究だけでなく いくつかの定常業務をかかえている当所の性格及び研究 項目数の増加を考慮するとき,1.2倍という数字は決して 多い数とはいえません。国の研究機関としての制約も当 然ありますし,足らざるところは創意と工夫によって克 服すべきものではありますが,何事にも兵糧が肝心です。 人員と研究費の確保にはより一層努力したいと考えてい ます。
 当所の組織は,昭和31,36,41,42,47,54年に改正 されていますが,その中でも全道程の半ばにあたる昭和 42年の全面的改正が,現在の組織の骨格すなわち当所の 性格を決定づけています。表に昭和27年と57年の組織を 対照して示しました。
  30年関共通した研究
 30年間にわたって共通している研究テーマと,それに 関連する業務の推移は次のとおりです。
 電波研究所に与えられた使命の一つに電波の伝わり方 の研究があります。発足当時は,電離圏伝搬は電離層課 で,また対流圏伝搬は対流圏課で行われていました。更 にそれらの関連研究(電波予報・警報)や基礎観測を行 っていた電波資料課,稚内,秋田,平磯,犬吠,山川の 各電波観測所を含めて考えると,全体の中で電離圏を含 む電波伝搬研究の占める割合が如何に大きかったがが分 ります。現在では電離圏研究は,電波部,企画部の一部, 第一特別研究室,平磯支所,稚内,秋田,犬吠,山川, 沖縄の各電波観測所で行われています。この30年の経過 の中で大きく変った点は,ロケットや人工衛星の登場に よって,電離圏の知識が飛躍的に増大したこと,電離圏 研究を支える柱であった短波通信が,遠距離国際通信に おける主役の座を宇宙通信に譲ったことなどでしょう。 このような無線通信技術の変貌は,当所の電離圏研究に 対して様々のインパクトを与えています。
 対流圏伝搬については,当時は山岳回折,対流圏散乱, ダクト伝搬,混合路地表波伝搬などが研究対象でしたが, これらが一応解明され,VHF及びUHF帯の電波の実用が 高まると,それに先行して当所の研究対象も,次第に短 波長帯に移行してきました。現在行っている100GHz程 度の電波の伝搬特性の研究では,大気や降水粒子(雨, 雪,霧など)の電波に与える影響を解明することに主眼 がおかれています。
 昭和27年当時の標準電波の発射と研究は,第二部標準 課において行われていました。更に遡ると,標準電波発 射業務は昭和2年の逓信省検見川送信所からの試験発射 に端を発し,昭和15年の正式発射から昭和24年の小金井 への施設移転へとつながります。昭和15年当時,約10^-6 の確度(水晶発振器による)であったものが,約40年を 経過した現在では,原子標準化という画期的な変革を実 現して,7桁も上昇するという大きな発展を遂げ,周波 数標準の研究は,電波計測技術の根幹をなす重要項目と して位置づけられるようになりました。更に昭和46年に は国際的に原子時が制定された結果,当所は日本の標準 時刻を維持し,それを国内に分配する責務も負うことに なりました。
 当所の代表的仕事の一つであり,また大正4年以来と いう長い歴史をもつ無線機器の型式検定業務は,昭和27 年には第二部機器課において行われていました。当時義 務検定3機種,任意検定8機種であったものが,現在で は前者は6機種,後者は11機種に及んでいます。また昭 和53年に設立された無線設備検査検定協会には,上記任 意検定機器のうち4機種の試験を委託し,国としての検 定業務の円滑な推進を図っています。機器課ではこの他 に各種の測定器を校正する業務も引き続き行っています。
 以上のように30年前の組織と対照して見ますと,現在 の組織の大部分,すなわち,企画部,調査部,情報処理 部,衛星通信部,衛星計測部,通信機器部の大部分の研 究室,周波数標準部の一部の研究室,鹿島支所,はその 後生まれたものですし,電波技術の急速な進展とそれに 対応しながら発展してきた当所の姿に今更ながら深い感 銘を覚える次第です。
  その後発展した研究
 では30年前にはなかった,上述の各部で行われている 研究テーマ及び担務を概観してみます。
 企画部は,研究プロジェクトの立案に参画し,それを 支援するという重要な任務を負って昭和31年に生れた企 画課が発展したものです。最近は外部機関特に外国と研 究面での連けいが高まってきており,それに伴って渉外 並びに広報面での活動が増加してきました。研究の交流 は,研究の活性化につながることなので好ましい傾向で す。
 調査部は,電波関連技術の動向を調査し,その中から 研究項目にふさわしい将来性および先行性のあるテーマ を抽出して,企画部と協力してプロジェクトの立案に参 画することを目的として作られた部であり,その一環と して電波技術審議会等の討議に参加し,外部行政機関か らの要請に応える窓口ともなっています。現在調査部が 中心に作成を進めている“電波研究所における研究の長 期ビジョン”は大いに期待されます。
 情報処理部は,今日の情報化時代をいち早く察知して 昭和42年の機構改正の際創設された部で,所内全体から 発生する多種多様でしかも多量な情報処理の要請に応え て,十二分に機能しています。その上衛星を使ったコン ピュータネットワークのような意欲的な研究も進めてい ます。またコンピュータによるイオノグラム(電離層観 測記録)の全自動処理の研究も最終段階に入っています。
 電波部を中心とした電離圏研究については,前述のよ うな無線通信技術の進展に対する社会の要請に応えるた め,電離層観測業務の改革に関する試案を作成したり(昭 和53年),更に電波予警報将来計画検討会を設けて検討し ています。現在最も期待しているのは,安価な装置で一 般ユーザの誰でもが,一定時間間隔で順次発射される各 電離層観測所からの電波を受信し,自分で短波帯の通信 可能周波数を予測できる,斜入射観測網の完成です。電 離層観測の目的は,短波通信のための予報警報の改善だ けでなく,電離した地球大気を常時監視することにある 点を忘れる訳にはいきません。つまり電波研究所は,当 所にしかない電波技術をもって,地球環境監視の一翼を 担っているということです。この分野で当所が挙げた世 界的研究成果は,何といっても電離層観測衛星(ISS-b) による電子,イオン,雷発生率等の世界分布図の完成で す。
 現代の無線通信においては,人工衛星を用いた通信・ 放送技術を無視することは出来ません。1957年のスプー トニク打上げ以来,当所は主として衛星通信部と鹿島支 所において宇宙通信の研究を実施し,先導的役割を果し てきました。東京オリンピックの衛星中継放送をはじめ として,CS(実験用中容量静止通信衛星)及びBS(実験 用中型放送衛星)を用いた多様な実験研究を行い,来る べき実用衛星時代を目前にして,基幹技術の確立に貢献 してきました。
 電波を用いた各種の計測を追求する研究部として,昭 和54年に衛星計測部が新設されました。人工衛星や航空 機を用いた三次元的なリモ-トセンシング技術には,開 発すべき余地が多く残されています。当部では,雨や雪 などの気象状況,海洋波浪,海氷などの地表状態のリモ ートセンシング,合成開口レーダ技術の開発,更には電 離圏の直接センシングに力を注いています。なお電波計 測の重要性,必要性は今後ますます高まるので,鹿島支 所,第二特別研究室でも独自の研究が進められています。
 通信機器部には,前記の機器課の他に五つの研究室が あり,非常に広範囲な分野にわたる研究を行っています。 また電波の利用が日増しに高まるにつれ,電波が互いに 干渉し,社会環境に様々の影響を与えるので,この種の 問題を研究する電磁環境研究室の新設を関係方に要望し ているところです。
 周波数標準部の原子標準研究は,昭和26年のアンモニ ア吸収形原子時計に始まり,昭和41年の,世界で3番目 の水素メーザ発振の成功に象徴される,長い歴史の上に 立って,より高安定,高確度な周波数標準器の追求に努 めています。現在当所の中心的プロジェクトとして鹿島 支所で進めているVLBI(超長基線電波干渉計)計画は, 当部で開発した水素メーザなしには実現されません。
  今後の問題点
 最近の科学技術の進歩は極めて急速です。従来はニー ズ→研究→開発→製品化の順で進んでいたものが,最近 は物が先に出来てニーズが堀り起こされるというケース さえあります。このような時代にこそ,社会のニーズに 即応する研究を行うこと,そしてそのためには,常に基 礎的な実力を貯え,必要に応じて組織を随時対応させて ゆくことが大切です。このような一般論とは別に,研究 室の増設や人員増加は,非常に難しい昨今です。現組織 の再編成で改善できる点があれば改善し,折ある毎によ り効率的,機能的な組織作りをしてゆかなければならな いと考えています。例えば,光領域をも含めた電波精密 計測という観点から,関連分野を有機的に連結するよう 組織化することも考えられます。研究と定常業務を併わ せ持っている当所として,所員の構成や処遇に独自の複 雑性があります。これも今後絶えず配慮してゆかなけれ ばならない問題です。
 さて最後に,最近折ある毎に電波界の先輩諸氏に,外 から見て当所に何を注文しますかと聞いてみた結果の中 から,いくつかを披露します。ただしそれらに対して, ここではお答えするか意見をのべる紙面がありません。 むしろこのような多くの基本的問題が広く討議の対象と なり,その結果として何か将来の指針が生れればよいと 思います。
 (1)電波研は予算が少なすぎる。少ない割にはよくやって いると言えるが,それにも限度がある。
 (2)電波研は郵政省の付属機関であるのに,行政サイド からの要望に対して協力的でない。
 (3)電波研は郵政省の付属機関であるからといって,行 政一辺倒になってはいけない。研究所本来の道を見 失ってはいけない。
 (4)電離層観測所(電波観測所ではない)は今程多くな くてよい。そこに全自動イオノゾンデ(1か月位無 人で動く)を配置する。無人中継所や無人受信所は 今では常識。
 (5)室長には研究の実質的中核であることを自覚させ, もっと自主的に研究テーマ,手法等を提案させて, お仕着せ研究をなくせ。これが活性化の秘けつであ る。
 (6)電波観測所の研究テーマを幅広く求め,電離層観測 以外の新しい役柄を与えよ。
  むすび
 これらはどれも本質的な問題ですし,それぞれ一理あ る御意見です。十分検討し今後の指針にしたいと思いま す。最後に一言所感を申し上げます。「かにむかし」とい う寓話があります。かにが柿の種をまいて早く芽を出せ とおどします。芽を出したら出したで,早く柿の実をつ けろと催促します。どうも最近は時の流れが早まったよ うで,投資の効果を性急に求める傾向がありますし,そ れが現代の商法にとっては程良いテンポなのかもしれま せん。しかし研究のテンポはもう少し遅い方が良いと思 います。とは言っても決してのんびり研究をしていて良 いという意味ではありません。早く投資効果を求めるこ とは当然ですが,決して有形の効果だけを求めるのでは ないという意味です。今年はあまり柿の実は生らなかっ たが,十分な水と肥料でよく根が張り,来年は何倍も実 が生るであろうと待てるゆとりを持つということです。
 30年の時の流れを振り返ってみて思うことは,できる だけ遠くに目標を定めて,誇りをもって次の世代に引継 げる研究所を作りたいの一語に尽きます。




電波研究所に対するOBとしての提言


上田 弘之


      略 歴
昭和7年 京都大学工学部電気工学科卒業
昭和17年 電波物理研究所勤務
昭和23年 電気通信研究所電波部
昭和25年 工学博士
昭和27年 電波研究所第一部長
昭和30年   〃  次長
昭和35年   〃  所長
昭和40年 電波監理局長
昭和41年 電波研究所所長
昭和44年 東芝総合研究所顧問
昭和54年     〃    退職

 塚本企画部長から依頼された「30周年特集号」への「OB としての提言」を送って,やっとほっとしていたら,突 然同氏から電話がかかってきた。たしかに原稿は受けと ったが,拝見するところ,初めの7行はよいが,あとは 「電波研究所30年史に対するOBとしての提言」だ。頼ん だのは「電波研究所に対するOBとしての提言」だ,とい うのである。やっと山に登ったと思ってほっとしていた ら,「おーい,そっちの山じゃない,こっちの山だよ!」 と呼び返されてしまったわけだ。よくやる癖がまた出て しまった。でも忙しい身ではない。ゆっくり降りて,こ っちの山に登ってみることにしよう。体力はないが,も う余力を残しておく必要もない。問題はどこまで登れる かである。
 間違えた山に登るとき,その初めに,「なにぶん沿磁力 線伝搬のすばらしい実験結果についての講演を聞き,ま たVLBIの壮大な計画を聞いた直後だったものだから, ついうかうかと引受けてしまった」と書いたが,今でも そんな気がする。たしか,講演を聞きながら思いを過去 に馳せて,ここにいたるまでの発達段階を数えてみたら, 前者に対しては11段階,後者に対しては10段階あったこ とを思い出す。どの研究項目でもそうとは限らないが, とかく研究というものは,このように長い間の研究の積 み重ねである。不断の努力と時間をかけてこそ,高いレ ベルに達しうる。私は最近CCIRの勉強を始めているが, そこでは問題の発生とその発展経過に重点をおいている。 ある総会だけの結論を知るだけならそんな必要はないが, その問題についてレベルを評価し,先の見通しをつけよ うとすれば,どうしても初心を知り,全体を通しての経 過を知る必要がある。それと同時に,環境条件の変化に 注意しなければならないし,折角得られた結果がどう利 用されたかということを追及しておくことも大切である。 CCIRの例でいえば,その成果が主管庁会議や全権会議 にどのように役立ったかということである。私の在職中 にやれなかったことのせめての償いだと思って,今にな ってから始めたわけである。
 さて,間違った山への原稿にも書いたことだが,「電波 研究所二十年史」第2章の「電波研究所の沿革概要」によ れば,電波研究所の中核をなすものは,四つの原流に由 来しており,今でもそれが柱になっている。@文部省系 統の電波物理研究所,A逓信省電気試験所系統の平磯出 張所,B同標準電波発射所,C同無線機器規格の業務が これである。要約すれば,地球物理学的電波研究,工学 的電波伝搬の研究,周波数標準の保持とその発射サービ ス,型式検定と性能試験サービスである。しかしその後 の経過をみると,戦後GHQの命令で電気通信関係の研究 機関がすべて電気試験所に集められた時,@及びAの研究 方向は電気通信事業のための企業研究に一時方向転換を 余儀なくされようとした。ついで電波庁に移管されてか らは,再び調整し直されて,非企業的分野の電波行政サ ービスのための研究に向け直された。その状態が今日ま で続いている。B及びCは電波研究所が設置されたとき, 統合されたサービス業務である。これらの経緯は卯西 次雄氏がまとめられた「電波研究所沿革史」(昭36.3)に 述べられている。そしてその後のことは,「電波研究所二 十年史」に詳述されている。
 電波研究所への提言ということになれば,このような 沿革を頭におきながら,現状を直視し,注意すべきとこ ろがあればそれを直言し,将来のために備うべきところ があれば,それを提言するということになる。
 私が電波研究所を辞めたのはたしか昭44年だったから, もう13年も前のこと。だからその後のくわしいことは知 らないが,概していえば,その後の進歩はすばらしかっ た。しかし大筋では本質的に変ったところはあまりなか ったような気がする。これが私の率直な感じである。こ れで「以上終り」とうそぶいて,ここで腰を下ろしてし まうと,また「何をしとる!もっと登ってみろ!」と発 破をかけられるにきまっているから,勇を鼓してもう少 し頂上を目指すことにしよう。
 提言するについては,観点をどこにおくかということ が問題である。そこで私は次のような観点を設定して みた。@法的根拠からみた場合,A時代の変遷を重視 した場合,B研究項目の選択と運営に注目した場合, C研究成果の評価と市場の開拓という点からみた場合。
 大げさに観点だけはあげてみたが,もちろん詳しいこ とを述べるだけの知識もないし,幸なことに紙面もあまり 残っていない。そこで,もう少しだけ説明を加えておく ことにしよう。
 (1) 法的根拠
 まず第一に考えなければならないことは,国立研究所 であるから研究所の研究に対する法的根拠を明かにして おかなければならないことである。民間の研究所であれ ば,必要とあればいつ,どんな研究を始めようと,やめ ようとかまわないが,国立研究所ではそうはいかない。 電波研究所の場合には,研究所の目的と運営は郵政省設 置法・郵政省組織規程等できめられている。設置法は昭 27.7に定められたもの,組織規程は昭52.9に改正された ものが最新のものである。設置法に掲げられているのは, @電波の伝わり方,A標準電波,B電波の伝わり方の予 報・警報,C型式検定,D性能試験で,これが電波研究 所の全業務である。
 郵政省の附属機関は四つあるが,研究所は電波研究所 が唯一の存在である。電気通信政策局が昭55.5に設置さ れた。これによって従来からの電波監理局とともに,電 気通信全般にわたっての行政責任はかつての過渡的状態 を脱して,いよいよ明確化されてきた観がある。会計 は違うが,郵政省には郵便という非電気通信系の通信も ある。しかもその郵便においても,次第に電子化してき ており,貯金や保険業務でも情報の処理・伝達という点 では通信サービスと共通する部分が多い。このように情 報時代・コンピュータ時代を迎えた今日では,現在の 電波研究所のポテンシャルでもそれらの進歩に貢献でき るところは少くない。郵政省として電波研究所に協力を 求める気になれば,さらに今後の発展を期することがで きるであろうし,電波研究所もまた一段と飛躍を遂げる ことができるであろう。
 このようなことを考えると,電波研究所という看板の 書き替えとともに,郵政省という眼からみた設置法の改 正が焦眉の問題ではあるまいか。少くとももう「電波の 伝わり方」にへばりついている時代ではあるまい。通産 省の電気試験所が思い切って電子技術総合研究所に看板 を塗り替えてからもう10年近くになるのではあるまいか。 それによってどんな進歩をもたらしたか,よく研究して みる必要がある。
 (2) 時代の変遷
 次に考えなければならないのは,時代の推移・変遷で ある。昭27(1952)年といえば,平和条約が発効した年 であり,テレビの本放送が始ったのはその翌年である。 電波監理局・電電公社が発足したのも昭27年,KDDが生 れたのはその翌年である。それから日本はどんなに変っ たことだろう。電波研究所の設置法は昭27年にきめられ たままである。当時世界は米ソ冷戦の真最中で,周波数 の割当は難航していた。アトランティック・シティ会議 から5年,日本も戦後初めてブエノスアイレス会議 (1952)に参加した。当時の周波数割当基準は電離層観測に 準拠したものであり,電離層の研究は世界でも先端を行 くものであった。だから電波研究所の主要項目が「電波 の伝わり方」におかれたのも不思議ではない。しかしそ の後の日本の発展,世界の変化・発展はどうだったであ ろうか。政治・経済・文化・社会・産業・資源はもとよ りのこと,学問・国際関係・民族運動・人口,そして生 物・自然・人間までが変っていった。そして今も物凄い 勢いで変わりつつある。
 当然行政に直結する電波研究所の研究も変わるのが 当然であった。実質的にはこじつけの解釈によって,組 織規程は膨らませてもらった。しかし基本になる設置法 はそのままであったから,根本的な改正は行われなかっ た。いわば戦後維新当時の法律に準拠していたのである。
 ここで一つ注目すべき大きな変化がある。電波と通信 の相違である。電波というのは電気通信のための一つの メディアである。電気通信のメディアとしては導線・海 底線・電波・光の順序で登場してきた。電波というのは 通信の代名詞ではない。今日では通信の主要要素は情報 と回線であり,或いは通信のためのハードウェアとソフト ウェアである。トフラーのいう「第三の波」はこのソフ トウェアを強調したもので,その社会への影響を警告し たものといえよう。電波に固執するのは,運輸において 航空というメディアに固執しているようなもので,通信 本来の意義をおろそかにしている。
 (3) 選択と運営
 これは平易にいえば,研究のあり方である。研究は宿 命として常に新しいものが要求される。限られた組織と 予算と人員をもって研究を行うとすれば,研究項目の選 択は当面する最重要事項である。また運営は当然このカ テゴリーに含むべき主要事項である。両者とも現在との 研究所でも力を入れてやられていることであるから,こ れについて今さら駄弁を加える必要はない。ただ,選択 について一言つけ加えておく。幸い電波研究所には総合 研究官がおかれているから,その活用が望ましい。ATT (米国電信電話会社)はベテラン数名から成るチームを つくってすばらしい成績をあげた。学ぶべきところが多 かろう。
 (4) 成果の評価と市場の開拓
 研究成果の評価とその積極的利用は最も大切な事項で ある。研究所の盛衰はこれによってきまるとさえいえる かも知れない。
 電波研究所は行政機関の附属機関であるから,当然主 管省たる郵政省の行政に役立つことが義務として要求さ れる。したがって,研究成果を公正に判断し,その成果 を利用してもらえるように積極的な宣伝をし,その市場 を開拓して行かなければならない。「評価は他に委せるべ きもの」という観念的な美徳は旧時代のもので,今日の 世の中では通用しないし,大学といえども最早それでは うけいれられまい。それでは生きて行けないのである。 しかし研究者或いは研究グループ自らこれに当るべきか どうかは別問題である。評価を他にまかせ,浮世をよそ に沈黙を守って朽ち果てて行けるのは,隠退した老人だ けに許された特権である。
 いいたいことはまだどっさりあるが,もう与えられた 紙数を超えたので,これで目指す山の頂上に登りついた ことにしてもらいたい。




理・工学の連繋


大林 辰蔵


         略 歴
昭和23年 東京大学理学部地球物理学科卒業
〃 〃  電気通信研究所電波部勤務
昭和32年 理学博士
昭和36年 京都大学工学部教授
昭和42年 東京大学教授
昭和56年 宇宙科学研究所教授

 電波研究所が30周年を迎えると伺って,感慨新らた なものがあります。私が勤めさせていただいていた頃を 考えると現在の研究所は隔世の感がいたしますが,折に ふれて思いだすこと,これからのことなどを述べさせて いただきます。
 私が入所した頃は,電波物理研究所(文部省)−電気 試験所,通信研究所−電波庁,電波監理局とあわただし く変って行った時代でした。私は国分寺をふり出しに, 稚内,平磯電波観測所とわたり歩いていたので,いわば 旅巡業だったのですが,戦後の混乱した動きと,新しい 科学技術社会の芽生えのなかで,電波研究所が将来の方 向を摸索しつつある姿を見てきました。
 電波研究所はほかの似たような研究所集団とは違った 特異な性格をもっています。それは理学者と工学者たち の連係プレーです。もともと前身の電波物理研究の生い 立ちからそうであったのですが,物理学者の先駆者,長 岡半太郎博士にはじまっています。その後,前田憲一先 生をはじめ歴代の所長の多くの方々は,電気工学の出身 者であったわけですが,これは電波技術を基礎とする研 究所としてもっともなことです。しかし,これらの方々 が電離層や対流圏研究といった自然科学(理学)にたい へんな興味を持ち,研究課題のモチベーションの多くは そこにあったということです。
 私自身は地球物理学でしたが,多くの工学畑の先輩や 同僚の強い影響をうけました。稚内にいたころ,川上謹 之介さんが来られて,日食時の太陽電波を観測したので すが,その頃勃興してきた超短波技術に胸を躍らせて, 私も古い短波用抵抗を必死になって磨くお手伝いをした ことがあります。一方では,電波警報をするための太陽 ・地球系物理学分野の私の夢を熱心に聞いていただき, さまざまの技術的応援をしてくれたことは強く印象に残っ ています。その後,京大工学部,現在の宇宙研での私の 研究推進のバック・ボーンになったのもこのことで,理 ・工学の連係プレーが果した役割が大きかったのは,ご 存じの通りです。
 研究者はややもすれば,それぞれ自分の分野だけに閉 じこもりがちですが,大きなプロジェクトの発展や,耕 しい研究の活力を保つためには,理・工学の協同作戦が 大切であり,今後もそのスピリットを忘れないでほしい と思います。
 話は大きくなりますが,現在の地球社会は多くの困難 な問題をかかえています。食糧やエネルギー資源の枯渇, 国際政治・経済上のコンフリクトに端を発する全面戦争 の危機,これを加速する世界人口の爆発的増加などです。 これらは21世紀を待つまでもなく地球社会を訪れます。 これを回避し,限りない人類の繁栄をはかる方策を考え る時期はすでに来ています。対応策には,いろいろのこ とがあるでしようが,そのオプションの一つは人類生活 圏の宇宙空間への拡大です。私は近頃これしかないと信 じるようになりました。
 20世紀の後半にわれわれが成し遂げたすばらしい科学 技術の発展が,そのことを可能にしてくれます。宇宙で の生活圏建設は,エネルギー,資源,輸送,情報通信, 建設技術,投資コストなどの面からは,もう想像を絶す るようなものではないのです。問題は「社会の意志」で す。つまり,みんながそのターゲットを選ぶかどうかと いうことです。電波研究所の皆さんのリーダーシップを 切望するしだいです。




「対 話」


園山 重道


         略 歴
昭和24年 九州大学工学部通信工学科卒業
〃 〃  電波局勤務
昭和27年 電波研究所第二部
昭和35年 電波監理局監視技術課
昭和43年 科学技術庁研究調整局宇宙開発課長
昭和47年 電波監理局技術調査課長
昭和50年 科学技術庁研究調整局宇宙開発参事官
昭和51年 科学技術庁研究調整局長
昭和53年   〃  計画局長
昭和56年 宇宙開発事業団理事

 電波研究所創立30周年おめでとうございます。30周年 記念号に,官界から見た電波研ということで何か書いて 欲しいとのお話で,早くも30年が,という感懐もありま したが,考えて見れば,私自身32年余りの役人生活を, 昨年卒業させて貰ったところなので,誠に当然の月日の 流れでありました。電波研を出てからでも,もう20年以 上になりますので,その間の体験の中から,一つ二つ書 いて見ます。
 私が,当時の逓信省に入ったのは,昭和24年5月でし たが,新入生4人を迎えられた新川課長さんから,何を したいかとの御下問がありました。私は,アルバイトが 忙しくて余り勉強していないので,何か技術行政という ような仕事をさせて頂きたい,というようなことを申し上 げたところ,「そういうのはもっと偉くなってからやるの」, と仰言られ,「勉強していらっしやい」,ということで当 時小金井の標準電波発射所と同居していた,機器課の実 験室に入ることになったと記憶しています。その後,機 器課が荻窪に移り,さらに電波研究所に所属することに なった訳ですが,私は,昭和35年頃まで居て,本省に移 り,さらに科学技術庁との間を従ったり来たりするよう になった次第です。
 いまさら,新川さんのお名前を持ち出して,こんなこ とを書くのは,決して当時のうらみを申し上げるつもり ではなく,むしろ逆で,この10年余りの研究所生活が, その後の本省及び科学技術庁での,いわゆる行政の仕 事をする上で,大変有難い経験となったことを痛感し, あらためて感謝申し上げたい気持からです。
 10年余りの研究所生活と言っても,この間,研究らし い研究などは何もしなかったのですが,それでも,測定 器をいじくり廻したり,自動制御をカジったりしている 間に,神崎さん,川上さんという優れた課長さん方の御 指導もあって,何やら,技術というものの感覚が身につ いたような気がします。技術の感覚が身についた,とい うのは多少格好をつけた言い方ですが,もっと平たく言 えば,研究者という人達と対話ができるようになった, ということかも知れません。これは,決して専門用語を 覚えたということではなく,正に話が通ずるということ です。同じ日本人が日本語で話すのに,話が通じるのは 当り前だと思われるかも知れませんが,実は,今日,科 学技術立国が叫ばれている中で,最も大きな問題の一つ は,研究者,技術者と,それ以外の人達,例えば行政官, 政治家等との間で話が通じないことではないかという気 がします。
 もちろん,すぐれた研究者,技術者は,自分達のして いる事,しようとしている事を,何とか判り易く行政官 等に説明しようと努力していますし,すぐれた行政官等 も,何とか正確に研究者,技術者の話を理解しようとし ていますが,この話が通ずるためには,単に,如何に判 り易い用語を使うか,正確な日本語を使うかということ 丈ではなく,やはり,技術の感覚,経験に共通する基盤 がないと駄目なようです。
 科学技術庁というところは,それ自体で多くの研究所, 研究開発法人を持っていまずし,各省庁からも,色々な 経験を持った人達が出向しています。良く聞かれること に,科学技術庁は各省庁寄合い世帯だから,何かしよう としても,縄張り争いがからんで何もできないのではな いか,という話があります。たしかに,そういう面が皆 無ではありませんが,少くとも同じ組織に身を置いてい る限り,出身省庁別による争いなどは,余り厳しいもの にはならないのが普通です。ところが,研究者,技術者 といわれる人達と,内局育ちの行政官との間の議論は, 大変厳しいものとなることが間々あります。この場合多 くは,議論が真正面からぶつかり合うというよりは,何 か発想の根本から噛み合わないという焦燥感が原因とな っている場合が多いようです。
 この発想の根本から噛み合わないということを,もう 少し突っ込んで見ると,お互いの経験と感覚の差から, どうも,相手が怪しからんという先入観がわざわいして いるような気がします。例えば,理工系を出ても,内局 に行政官として採用されると,忙しい省庁,特に企画調 整的な仕事をしている所では,直ちに,国会対策,予算 折衝,他省庁折衝,各種の会議準備等に下働きとしてこ き使われ,帰りは毎日午前様という状態が続くことも多 いのです。こうして2〜3年もすると,霞ヶ関の巨大な 行政機構の中で,何かをしようとするとき,如何に多く の障壁を乗り越えなければならないかを,身に泌みて覚 えさせられます。この様な過程で脱落して行く人も居ま すが,大部分の人達は,若さと,日本人特有の機関帰属 意識に支えられて,やがて一人前の行政官に育って来ま す。この様な人達が,10年も経って或種の責任を負った 立場で研究者と接すると,「研究者共は全く怪しからん, 優雅な勤めで,車を買ったり家を建てたり,ノーベル賞 を貰う程の業績もないくせに,チョコチョコ論文等を書 きおって,お茶を濁しとるのは正に穀つぶしだ,くやし かったら内局に出て,実際に弾丸の飛んで来る所で仕事 をして見ろ。」という感情が湧いて来るようです。ところ が,一方研究者側から見ると,「内局の奴等はなんだ,科 学技術の本質も削らずに,やれ予算がどうだ,国会がど うだ,権限だ規則だと問題点許りあげつらいおって,そ ういうものを突破して,吾々の貴重な研究を推進するた めに,お前等は月給を貰っとるんじゃないか,くやしか ったら研究所に来て下働きでもして見ろ。」ということに なるのではないでしょうか。もちろん,皆が皆,この様に に考えている訳ではなく,また,こんな議論が面と向っ て行なわれる訳ではありませんが,潜在意識の最も激し い所を代弁して見れば,この様になるのかなど思います。 話が通じなくなる原因はこの辺にありそうです。
 科学技術立国という言葉は,科学技術庁長官の中川大 臣が,一昨年来提唱しておられるところですが,この考 え方が出て来たのは,石油ショック以来の資源価格の高 騰,中進工業国の追上げ,貿易摩擦の中から出て来た日 本に対する技術只乗り批判−基本技術を導入し,改良し て逆輸出することへの批判−等が重なりあって,日本が 将来も繁栄を続けるために,国際的バーゲニング・パワ ーとして持つべきは科学技術力を措いて他にない,とい うことになった訳です。
 この科学技術立国政策の中で,焦点の一つは,国立試 験研究機関の役割だと思います。すなわち,現在のわが 国の研究開発投資総額は5兆円を超えていますが,その 70%以上は民間投資であり,国の投資は30%以下です。 このことは,民間の活力が高いということで評価される 反面,民間企業では,リスクの欠きい基礎的,先端的な 研究開発は自ら制約があり,日本の研究開発成果は改良 型が多く,本格的なイノベーションにつながるものが少 いという結果になるといわれています。
 この辺りから,国立試験研究機関期待論が出て来るの ですが,そこで,前記のような,研究者と内局技術行政 官の間に不信感的なものが介在していては,旨く行く筈 がありません。この問題の解決は生易しいものではあり ませんが,やはり,経験の交流が一番必要なことではな いでしょうか。
 研究所で,正にノーベル賞級の研究ができる人を内局 に連れて来ては,損失以外の何物でもないでしょうが, 私のように,まかりまちがって研究所に入ってしまった と感ずる様な人は,或程度の経験を経て,どんどん行政 に出て来ることが望ましいと思います。一方,行政官を 研究者にというのはなかなか難しいでしょうが,研究所 のマネージメント部局に,経験豊かな行政官を多く配置 すること等も必要だと思います。
 科学技術立国のためには,迂遠に見えても,やはり, 人間の問題が基本であるという気がしているところです。


設立当時の全景



ニュース発刊時のことについて


湯原 仁夫

 電波研究所ニュースが発刊されてより早くも6年余の 歳月が流れた。一般広報用としてのこの小冊子発行の目 的が,その間どの程度に果されてきたであろうか。研究 所設立30周年という此の記念すべき年に当り,その目的 やその成果を,この際改めて考えてみる必要があるよう に思うのである。
 電波はその性質上,いわゆる狭義の無線通信に役立つ ばかりでなく,電波航法,隔測技術にも広く利用され, さらには医療用や工業用にもその利用分野は益々拡大さ れつつある。従って狭い意味での無線通信の,今日的問 題解決に多忙を極めている電波監理当局よりの要請に俟 つだけでなく,自ら広く各方面にわたる調査を行い,明 日あるいは明後日に必要になるであろう問題をも先取り し,これらのテーマについても予め研究を進めておく必 要があると思うのである。日米間の協同研究題目として 最近話題になっている “超長基線電波干渉計”いわゆ るVLBI技術も, これは主に大陸移動の測定や地震予知 に関するものではあるが,この方面の尖端的技術の研究 に先鞭をつけていた当所があったればこそ早速にこの重 要な問題に対処できたと言うべきであろう。
 他省庁所管に属する事項だからといって無関心であっ てはならない問題は多い。大陸移動や地震予知といった 問題であろうとも,国民の生活を,電波という窓を通し て常に凝視し,国民の福祉に貢献すべき電波の分野とい うものに常に関心を払はねばならぬ責務を当所は負はな ければなるまい。此のような意味合において,当所は専 門分野への広報にのみ走ることなく,一般国民への広報 にも力を入れ,一般国民からの電波に関するニーズを広 く聞く窓口を開いておかねばならないし,又それこそが このニュース発刊の最大の目的だったはずである。初心 を忘れることなく,今後ともそのような観点から,この 小冊子の改善をはかられるようお願いし,ニュースの配 布先の再検討やニュースの内容に対するアンケート取得 についても随時考慮されるよう希望するものである。と もあれ,ニュースの今日までの発展をお祝いすると共に, 関係者のご努力に心からの敬意を払い,さらにニュース の今後いよいよの発展をお祈り申し上げる次第である。

(元所長,現在NEC顧問)



施設一般公開の実施

 7月30日(金)10時から16時まで,恒例に従い本所並 びに支所,観測所の施設を一般公開した。
 本所では,例年にない長雨に台風10号の影響が加わり, あいにくの天候となったが,熱心な見学者が引きも切ら ず,その数は700名を超えた。特に今年は電波研究所発 足30周年に当るので,記念展示室を設けるなど会場にも 工夫をこらし,見学者の好評を得た。本所以外では好天 に恵まれ,いずれも成功裡に終了した。
本 所   :729名
支 所 鹿島:582名  観測所 稚内: 56名
    平磯:248名      秋田: 81名
               犬吠: 72名
               山川:136名
               沖縄:145名