南極観測の想い出


大瀬 正美

  はじめに
 私が南極観測に参加するようになった経緯については 戦前の入所時代に遡って物語らなければならない。
 昭和18年9月,当時の文部省電波物理研究所に入所し た時期(現在の第9棟と今は取りこわした旧独身寮の2 棟を陸軍から借用していた。)は,第2次世界大戦たけ なわの時代であった。当時アジア地域(旧大東亜共栄圏) に日本の電離層観測所は陸海軍も含めて,14か所に設置 されていた。また計画中の観測所も数か所あった。 (図参照)。私も昭和19年の初めに計画中であったラバウ ル観測所に派遣される予定であったが,輸送船の便がな く,結果的に行くことはできなかった。もしこの時期に ラバウルに出港していたら,おそらく,無事に到着でき なかったであろう。したがって,その後の南極観測隊に も当然私の名前は出てこなかったことと思われる。


図 戦前、戦中の日本の電離層観測所分布図

 昭和19年には,電波物理研究所職員の中で現役入隊す る青年が14名いた。その中で私は一番早く9月に入隊し た。幸い内地の教育隊に残ったので終戦後,昭和20年10 月に復員して復職した。その頃の電波物理研究所は上野 毛の多摩美術学校内にあったが,戦災でほとんど焼失し ていた。昭和20年12月,陸軍行政本部,第5陸軍技術研 究所が移管されて, 手動型電離層観測機と共に第9棟 (現在南極事務室のある建物)に移転してきた。昭和21年 1月,当時電離層課長であった青野さんから「お前はラ バウルに行く予定になっていたから, 日本の最南端であ る九州鹿児島観測所の創設に行くように」と言われた。 昭和21年3月,現地調査に行き各地を調査した結果,指 宿海軍航空隊山川送信所跡(現在の山川電波観測所の場 所)に決定したわけである。一旦帰京して手動型電離層 観測機の部品を集めて組み立てを行った。(当時新発田, 深浦等各地方観測所開設のため機器の調整をしたのも第 9棟であった)。そして7月山川に出発した。 最初の建 設期は昼間は生活面の水道工事その他建物補修等の重労 働が続き,夜になって観測機器の調整をはじめる毎日で あった。昭和28年1月国分寺へ転勤になり, しばらくは 電離層課電波伝搬係に席を置いていた。昭和30年,日本 の南極観測参加が決定した頃,再び青野さんから「お前 は南方を希望していたが, もっと南の南極に行く気はな いか」と言われて早速希望したことが,以後26年間南極 観測に関係するようになった始まりである。そして1/4 世紀を経た現在も南極事務室は第9棟にあり,遂に近代 建築の建物に席を置くことがなかった。
  南極観測と共に歩む
 第1次南極観測隊が出発した昭和31年頃は,日本もよ うやく高度経済成長時代が始まった時期で,戦後の時代 はまだ抜けきっていなかった。
 第1次観測船宗谷による広範囲な電離層移動観測は, 全く経験がなく,色々な準備のため8月頃から11月8日 の出港まで,ほとんど浅野ドックの宗谷に泊り込んで電 離層観測機の調整を行った。本番の船上観測は南極へ行 くというのに,連日印度洋の暑さと船の動揺の連続であ ったが,若さで乗り切ることができた。氷海での苦闘も 12時間交替の物資輸送作業もすべて順調に進み昭和基地 が建設された。11名の越冬隊を残せたことは幸運の一言 につきよう。この第1次の成功があったればこそ,今日 ある南極観測の基礎が確立されだともいえよう。昭和37 年から40年まで3年9か月の間,宗谷の老朽化に伴い南 極観測は一時中断のやむなきにいたったが,第7次から 「ふじ」の就航により,南極観測は年毎に堅実な発展を遂 げることができた。
 私が南極へ最後(現役としてはおそらく最後になると 思う)に向ったのは,第19次隊の昭和52年11年であった。 この間に氷海及び昭和基地で迎えた正月は通算11回を数 え,電波研究所在職中の大半を南極観測と共に歩んでき たことになる。入所当時南方を希望したことに始まり最 後まで南とは縁が切れなかった。戦後の混乱期であった 昭和20年代には山川観測所,30年代に昭和基地の建設と 2か所の観測所を建設する機会に恵まれたことは,私の 人生においてよりよい経験を得ることができた。今振り 返ってみると,厳しい昭和基地の建設作業より,昭和21 年当時の物資が欠乏していた頃の山川観測所建設の方が はるかに大変であった。しかし山川で経験したアンテナ 建設及び諸作業がその後の昭和基地建設に大きく役立っ たことは事実である。初期の越冬生活は現在のように完 備した居住棟はなく,観測室の一隅にベニヤ板の簡易べ ットを作り生活したものである。夜は燃料節約で暖房機 を停止するため朝方の室温は常に零下になっていた。し かし馴れてくると,15分毎の電離層定時観測の雑音が子 守唄のように聞こえ,モニターともなりよく眠れたも のである。私は越冬生活においても遂に現在の完備した 居住棟には, これまた一度も居住することがなかった。 越冬の場合は衣食住が確保されており,何ら生活面での 苦労はなかったが,物資輸送の少ない宗谷時代は越冬中缶 ビールの配給はミッドウインター(南極の冬至)に1本 のみで,第5次の一番機が運んでくれたビールの味は今 でも忘れられない。
 現在は物資も豊富になり生活面での不自由はなくなっ てきたが形を変えた共通点はある。一方,地方観測所 に単身赴任する場合,生活を家族と2分される経済面で の負担,その他もろもろの問題があろう。この点南極で の越冬生活は衣食住が保障され,かつ経済的にも家族に 負担がかからないこと,1年すれば確実に帰国できるこ と等を考えると,私でなくとも南極越冬を希望するよう になろう。今や日常生活における危険度は国内において も交通事故その他を思えば,昭和基地の方がむしろ安全 度は高いとさえ言える。家族との連絡も現在は衛星通信 による電話連絡及びハムを利用し,もはや地球の果とい うイメージは薄らいできた。1か月の電報字数が300字 と制限された頃から思えば,雲泥の差である。ただ留守 家族の方はやはり未知の世界ということもあり,また子 供の教育等である程度不安感は残るようであるが,留守 をあずかる当所の南極担当者が常に銃後の守りを固める ことにより隊員も安心し,また留守家族にもある程度は 納得してもらえるものと思われる。


第一次南極観測隊員(左から大瀬,岡本,会田)

  南極での人間関係ともろもろの思い出
 閉鎖された社会での越冬生活も終りに近ずき,一番機 が基地に到着した日,故郷の香りや家族からの手紙等と 1年ぶりに再会できる喜びは言葉で表しようもなく, ま た,無我夢中で過した1年間を振り返って,自分の仕事 や人間関係で苦労が多ければ多い程, その満足感は充実 したものとなろう。また自分が歩んだ人生の一こまとし て,その越冬経験は以後自分の行動に対して自信を持た せる力になってくるものである。
 隊員はそれぞれの観測や仕事を行う上では,各部門の 利益代表であるが,自分だけの殻に閉じこもることなく, 閉鎖社会の人間関係では,全員作業でも,苦しい観測の 手伝いでも自分からその苦労を買って出る位の積極性が なければうまくゆかない。他部門の仕事を極力理解する よう努力して,協力をしないかぎり, おのずから自分 の仕事にもはね返ってくることを知っておかなければな らない。
 越冬観測を終り,帰路の船上で「越冬1年を振り返っ て」の反省会なるものを行うと,若い隊員の中からかな らず「観測や仕事もさることながら,人間関係について 非常によい勉強となり,今後の人生経験に大変役立つこ とを多く学ぶことができた」という発言が出る。越冬を 通じての団体生活は,ぶっつけ本番であり, 1年間の長 丁場でもあるため, ごまかしやめっきはきかない。このよ うな体を張った実戦はおそらく国内では経験することは できないだろう。越冬生活を経験した人達にのみ通用す る醍醐味でもある。
 南極での生活は常に厳しい自然との闘いでもある。基 地の建物に居るかぎりは日本の生活とあまり変らないが, 一旦基地から旅行に出ると越冬開始から25年を経過し, 装備の充実した現在でも厳しさはアムンゼン,スコット の時代と同じである。まかり間違えば生命にかかわるこ ともあり得る。したがって各隊次により昭和基地内規が 定められている。ブリザード(強烈な吹雪)を経験する ことにより,これだけ科学の進歩した時代でも,大自然 に立ち向う人間がいかに無力であるかを痛切に感じさせ られると共に,1人の規則を無視した行動がいかに多くの隊 員に迷惑をかける結果となるかを知り,団体生活を通じ て常に各自責任ある行動がとれるように訓練されてくる。
 とかく南極とは何が起こるかわからないのがところであり, また何事も未知の世界として興味を引くところでもある。 私の越冬生活の中で忘れることのできない想い出は数多 くあるが,紙面の都合で次の三つを紹介する。第4次越 冬(昭和35年)時に同じ超高層観測の福島紳隊員の遭難 事故があった。当時懸命な捜索にもかかわらず福島隊員 を発見することはできなかった。ところが第8次越冬 (昭和42年)終了時,第9次隊により基地から風下側4.2 qの西オングル島の西端で福島隊員は発見された。実に 7年4か月ぶりの対面であった。この夏は基地周辺の雪 どけが早く,海氷から第2次に残置したカラフト犬の遺 体が発見され,隊員の中にも何かしら福島隊員が発見さ れるのではないだろうか,というような予感が強かった。 奇しくもこの時は4次に福島隊員と一諸に起居を共にし た隊員14名のうち7名が基地に滞在していた。何か宿命 的なものを感ぜずにはいられない。
 次に第8次越冬(昭和42年)時,真冬の8月に隣りの マラジョージナヤ(ソ連基地)を訪問した。1週間滞在 しての帰路,新南岩(昭和基地から約240q)の調査に立 寄り,終了後帰路の海氷クラック(氷の割目)を渡る時, 雪上車が落ちた。水没するまでの時間は1分位であった だろうか,食糧を搭載していたソリを切りはなすのが精 一杯であった。運悪くこの雪上車には電界強度測定を行 うため,連絡用通信機2台を積んでいた。水没する間際, 雪上車のスイッチが海水で短絡してライトが点燈し, ク ラクションを鳴らしながら,ホイップアンテナが折れ曲 り姿を消して行く光景は今でも忘れることはできない。
 次に第12次越冬(昭和46年)時,冬期ロケット実験の 最中に,組立調整室の床下に設置していたロケット搭載 機器保温用暖房機の調子が悪く隊員が調整を行った。夕 食前に終了してシートをかぶせて隊員は食堂棟に帰って きた。食後ロケット隊員がレーダテレメータ室に行った 時,組立調整室床下から煙の出ているのを発見して急報 した。全員消火器を持って急行したが,その時はほとん ど鎮火していた。室内は煙に包まれていたが,幸い低温 のため大事には至らなかった。組立調整室にはS-210 型ロケット2基がセットされていた。今考えても冷汗も のであった。
  むすび
 人間は若い頃に色々な経験をしておけば,自分自身が 年を取ってからの人生が豊かになるということを現在私 は痛感しているところである。10年経てば10才年を取る ことは避けて通ることのできない宿命である。今でも南 極の大自然に接し,広く見聞してきた自分の人生に対し て後悔はしていない。ただし,何事を行うにも自分自身 の健康管理には充分注意して,何時いかなる時でも自信 をもって物事を実行できる心がまえが常に必要であろう。 最後に次期世代の人達に大いなる期待をよせるものであ る。

(電波部 主任研究官)




CCIRをめぐるトピックス


調 査 部

  はじめに
 国際無線通信諮問委員会(CCIR)第15回総会は, 昨年2月にジュネーブで開かれた。そして,今年と来年 にはCCIRの研究委員会(SG)中間会議が開催され る予定になっており,現在, この会議に向けて日本の寄 与文書作成等の準備が行われている。
 こうしたCCIR自体の活動のほか,昨年にはCCIR の上部機関である国際電気通信連合(ITU)の全権 委員会議がケニアのナイロビで開かれ, また,それより 前1979年には世界無線通信主管庁会議(WARC-79) が開かれるなど大きな動きがあった。以下に, これらの 国際動向の中からCCIRに関連するいくつかのトピッ クスを取り上げて見たい。
  CCIRの掌握と電波の定義
 これは,国際電気通信条約(以下「条約」という。) に定められており,昨年のITU全権委員会議において 改正された。新しい条約によると「CCIRの任務は, 周波数帯域の制限なしに,無線通信に関する技術及び運 用の問題について研究し,意見を表明すること」となっ た(下線部分が新しく追加された)。また新しい条約の第 2附属書にある用語の定義のうち,「無線通信」について は,本文は従来どおり「電波による電気通信」であるが, 下記の趣旨の注が新たにつけられた。
  注1 電波とは人工的導波体のない空間を伝搬する 当面3000GHzより低い周波数の電磁波をいう。
  注2 CCIRの任務に関する場合は「無線通信」 は,人工的導波体のない空間を伝搬する3000 GHzを超える電磁波を使用する通信を含む。
 上記の注1による電波の定義は,WARC-79で改正 された無線通信規則(RR)にある「電波」の定義と同 文である。
 CCIRの所掌については,CCIR第14回京都総会 (1978年)において,日本は3000GHzという周波数上限を 外すよう求めた提案を行い,その結果CCIRのテキス トに意見Op. 61(CCIRの所掌について全権委員会議 に対する意見)として採択された経緯があり,その意見 が前記のように条約の改正に反映されたことは, たいへ ん喜ばしいことと思う。なお,新しい条約の発効は1984 年1月1日となっている。
  CCIRの組織と運営
 これについては,条約に主要事項が定められているほ か,詳細はCCIRの決議(Res. )に規定されている。 この決議については,かねてから,特に1978年の京都総 会を契機にCCIRの作業組織の見直しが強力に進めら れ,1982年の総会での改正の結果,Res. 24-5(CCIR の作業組織)及びRes. 61-2(CCIR研究委員会の 所掌と組織)としてまとめられた。主な改正点は,主管 庁会議の準備会議(CPM)がCCIRの会合として開 催できるよう明文化されたこと及びアマチュア衛星業務 の担当がSG2からSG8へ移ったことである。CPM については,新しい条約の中にも条項が追加された。こ うして,以前から検討されてきたCCIRの作業組織の 見直しは,一応の決着がつけられたと言えよう。なお, 新しい条約によると,CCIR委員長は,現在CCIR 総会において選出されているが,次回ITU全権委員会 議(1989年フランスのニースで開催予定)以降は,全権 委員会議において選挙で選ぶこととなった。表に, CCIRの各SG及び国際電信電話諮問委員会(CCITT) との合同SG(CMTT,CMV及びCMBD)を示す。


表 CCIRの研究委員会及びCCIRとCCITT との合同研究委員会

  CCIRにおける研究活動
 CCIRの最近の活動の中から,若干取り上げて見たい。
@ ミリ波及び可視・赤外
 これは前記のCCIRの所掌及び「電波」の定義とも 関連があり,CCIRでは日本の努力の結果,1975年回 章により研究問題Q. 53/1 (40GHz以上,特に電波の 最高周波数領域,及び赤外・可視領域のスペクトラムの 電磁波による通信システム)が設定された。そして現在 これに応えた報告Rep. 664(40-3000GHzの周波数帯利 用のレビュー),Rep. 885(可視及び赤外の減衰),Rep. 681(赤外及び可視光による宇宙研究)がCCIRテキス トに載っている。このほか,1982年の第15回総会の結果, 耕しいQ. 25/2(赤外及び可視光を利用する宇宙通信シ ステム)が設けられた。
 当所においても,40GHz以上の周波数資源, レーザに よる衛星姿勢の高精度決定方式, レーザによるリモート センシング等について研究開発が行われており, その成 果をCCIRへ寄与している。
A静止衛星軌道(GSO)
 CCIRその他の各種国際機関でGSO有効利用の検 討がなされている。問題は,GSO及びそこで使用され る電波が有限な天然資源であることである。12GHz帯の 放送衛星については,1977年の世界無線通信主管庁会議 (WARC-BS)において第一地域(ヨーロッパ,アフ リカ)及び第三地域(アジア,豪州)の国々に対し,軌 道位置と周波数が割り当てられた。例えば, 日本は軌道 位置110度に8波を割り当てられた。
 CCIRでは,主として中間作業班IWP4/1が1968 年の設立以来,GSOの有効利用について研究を行って きた。そして,WARC-79では, GSOのプラン化に 関する世界無線通信主管庁会議(WARC-ORB)の 開催が決議され(1985年及び1988年に開催予定),これ に先行するCCIRの準備会議(CPM-ORB)が来 年7月に開かれる予定になっている。昨年のCCIR第 15回総会では,SG4その他のSGの研究成果をまとめ た文書Doc. PLEN/10(WARC-84のための暫定報告 書)が採択された。
 GSOの有効利用については,昨年のITU全権委員 会議でも論議された結果,条約第33条(無線周波数スペ クトル及び対地静止衛星軌道の合理的使用)の中に「発 展途上国の特別な要求及び特定の国の特殊な地理的事情 を考慮しつつ」という字句が追加された。
 GSO及び周波数のプランニングの方法には,おおざっ ぱに言って,固定的プラン(いわゆるアプリオリプラン) と多国間調整による方法とがある。前者の例が,前記の 12GHz帯放送衛星のプランであり, これは主として発展 途上国の主張に沿ったものである。GSOの有効利用の ためには,多国間調整による方法がよいと言われており, 来年のCPM-ORBでの論議の行くえが注目される。
B FGMDSS
 「将来の全世界的な海上における遭難安全制度(FGM DSS)」は,本年3月に開かれた移動業務に関する世界 無線通信主管庁会議(WARC-Mobile)の主な議題の 一つであった。国際海事機関(IMO)は,FGMDS Sの1990年導入を目途として検討を進めている。
 CCIRにおけるFGMDSSの研究が本格化したの は,1980年のSG8中間会議からで, 政府間海事機関 (IMCO,1982年5月からIMOと改称)の要請による ところが大きい。移動業務に関するWARCは,1987年 にも予定されており, CCIRにおけるFGMDSSの 研究は今後も続けられる。
C データ中継衛星
 NASAは本年4月スペースシャトル第6回飛行(チ ャレンジャー号)において,データ中継衛星(TDRS) を打上げたが,上段ロケットの不調により,静止化が難 行している。TDRSの計画は,1970年頃スタートし, 打上げスケジュールはこれまでたびたび延期され,やっ と実現の運びとなったわけである。
 CCIRでは,1970年にSG2にQ. 11/2(宇宙局に よる地球局と宇宙機との間の無線回線)が設定され,ほ とんど米国からの寄与文書によりTDRSに関するテキ ストが作成されてきた。TDRS自体は静止衛星で,こ れとLANDSAT-4のような周回衛星との間に衛星 間回線(ISL)が作られる。TDRSシステム展開後 は,従来のNASAの人工衛星追跡網(STDN)は, その局数削減などによる合理化・効率化が進む。米国は TDRSシステムに続く将来の追跡・データ取得システ ム(TDAS)について,1981年のSG2最終会議で既 に報告している。
 一方SG4では,静止衛星間のISLに関ずる研究が 進められており,その成果はRep. 451-3(固定衛星業務 の衛星間回線)としてまとめられている。
  おわりに
 昨年のCCIR総会,ITU全権委員会議等の最近の 動向の中から若干取り上げた。その際,「電波時報」その 他の文献を参考にさせていただいたことをお断りすると ともに感謝いたします。

(衛星計測部長 中橋信弘)




NOAA波動伝搬研究所に滞在して


上瀧  實

  はじめに
 昭和56年10月1日から昭和57年9月30日までの一年間 科学技術庁の長期在外研究員として米国コロラド州の Boulder市にある国立海洋大気庁(NOAA: National Oceanic and Atmospheric Administration)環境科学研 究所(ERL:Environmental Research Laboratories) の一部門である波動伝搬研究所(WPL:Wave Propagatation Laboratory) に滞在した。ここで「見通し外 短波レーダによるリモートセンシング技術の調査,研究」 というテーマで研究を行う機会を得たのでその概要を報 告する。
  WPLについて
 WPLの所長はC. Gorden Littleで,その下に六つの 研究グループがある。WPLの研究員は筆者のような客 員研究員も含めて約160人である。
 筆者が属していたSea-State Studies グループはリ ーダのD. E. Barrick 以下総勢28名で構成されている。 このグループの仕事は大きく三つに分けられている。
 一つは,短波帯の電波の地表波伝搬モードを使い,海 岸から70q以内の海面情報のモニタをしているチームで ある。既に可搬型のCODR(Costral Ocean Dynamics Radar) を開発しており,フロリダ半島やシアトル付近 の海峡の海面流の観測をはじめ,ドイツ,フランス,ス ペインなどの海岸においても各国と共同観測を行ってい る。海面流の平面ベクトルをほぼ実時間で求めている。
 次にL. Fedorを中心としたチームで,人工衛星や飛 行機を用いて,マイクロ波帯の電波による衛星高度の測 定法の研究,波高値や海上風などの海面情報のモニタ, 更に,合成開口レーダによる海面のモニタの研究開発を 行っている。
 三つめのチームは筆者の所属していたもので,T. M. Georgesがりーダであった。短波帯の電離層反射波を利 用し,レーダ基地から1000〜4000q離れた,通常のマイ クロ波帯レーダでは見ることのできない遠方の海面情報 をモニタし解析している。実際の短波レーダ(Skywave レーダ)基地はカリフォルニアのSRI(Stanford Research Institute) Internationalにあり,WPLと共同 実験の形をとっている。WPLでは特に電離層による信 号の劣化と信号処理の方法について理論的な研究を行っ ている。
 筆者は,Skywave レーダの受信データを使い,デー タ取得時の電離層状態とデータの質の関係を統計的に調 べた。電離層の後方散乱イオノグラムと垂直打上げイオ ノグラムの両者を見て,最も良質のデータを取得する為 に使用すべきレーダ周波数及びゲート時間を推定する方 法を研究した。
 しかし,筆者の滞在中,Skywaveレーダの仕事は一段 落し,次の新しい研究を始めるところであった。次の テーマは,音波の三次元レイトレーシンクプログラムの 開発と,音波を使い海流の速度や方向,海水の温度分布 などを求める応用実験を行うことである。
  研究の周辺
 筆者の所属したチームはT. M. Georgesがリーダで, M. Jones,J. Riley と筆者の四人の小さなものであった。 毎週一回Georgesの室へ集まり,前週の研究の進捗状況 を話し,今週すべき事柄について議論をした。特に客員 研究員の筆者は皆に大変親切に,手とり足とりで指導し てもらった。また,月に一回程度は中期(数か月)的な スケジュールについて現在の研究の進展状況の検討がな され,総合計画の討論が行われた。ある目標が達せられ, 一段落した時には皆揃って食事に出かけたりして次のスナ ップへの鋭気を養った。この定例集会を通じて能率的な 研究の進め方について多くを学ぶことができた。
 良く言われることだが,米国の研究環境の良さには驚 いた。特に目についた事は,研究に関する一切の雑用を 気持良く且つ迅速に処理してくれる秘書の存在である。論 文や手紙のタイプをはじめホテルや切符の手配などすべ て処理してくれる秘書は言葉の不自由な筆者にとっては 魔法の杖であった。また,図面やスライドの作成,コピ ーを取ったり図書の貸出しなどをサービスする人達が周 囲に居るため,研究能率が上がり,当初はあまりの能率 の良さに慣れぬせいか, かえって苦痛すら覚えたほどで あった。
 筆者が滞在していた頃,米国では10%近くの失業者を 抱え,レーガン大統領が「小さな政府」を目指していた。 NOAAのような国立研究機関では予算が縮少され,人員 の削減や配置転換がなされていた。米国は日本と違い, 各部門一律に何パ-セント削減といった事はなく, どこ かの部門が一度に潰される形をとる。NOAAのERLで はSEL(Space Environment Laboratory)に予算のし わ寄せが行き,大幅な人員整理が予定されることになっ た。SELのDirectorであったWilliamsは率先して東 部の大学へ移って行った。能力のある研究者から先に就 職先が決まり移って行くようで,米国の研究者の厳しい 現実に驚ろかされた。
 世界各国から多くの研究者や留学生がBoulderへ来て いた。なかでも印象深かったのは,中華人民共和国から の研究者達であった。西側世界と国交を開いてから急速 に国の近代化を図る目的で西欧に多くの研究者を派遣し ており,Boulderにも数十人もの研究者が来ていた。 筆者と同じWPLにも男女一人づつ年配の研究者が来て いた。中国からの研究者は先の文化大革命の影響を受け 30歳〜40歳の年齢層の研究者がほとんどおらず,Boulder で会った人達はほとんど40歳〜50歳の年配の研究者であ った。彼等の生活は質素で,いずれも単身で来ており, アパートも数人で共同して借りたり,自動車も買わず自 転車かバスで通勤しているようだ。帰国時には日本製の カメラ,時計,テープレコーダなどを買って帰国するこ とが流行していた。


ボルダーの冬景色

  生活雑感
 Boulderは人口約8万人の研究学園都市でコロラドの 州都デンバアから北西へ車で40分程のところにある。東 からなだらかな起伏で続く大草原が西に立ちはだかるロ ッキー山脈と突き当った所にある海抜1600mの高原都市 である。
 市の発祥は他の西部の町と同様,19世紀後半(1858年 10月17日)ゴールドラッシュ時に現在の市の西端の Boulder Canyon に15人の山師がテントを張った事に始ま る。その後,市は東からの農産物と西からの鉱物の中継 点として発達していった。現在は多くの研究所, コロラ ド大学などがある研究学園都市となっている。
 気候は気温の変動が激しく乾燥した内陸型で,東京か ら行った筆者は,当初喉が乾いたり,唇が荒れたりし,毎 日大量に飲んだ果物ジュースの美味しさが印象的であっ た。冬の雪も二,三日のうちにそのまま昇華してしまい, 雪の下からは乾いた土が出てくる始末であった。したが って,夏の芝生の水まきは欠かせぬ仕事で,公園や各家の 庭には散水器が置かれ,青空に吹上がる水の輝きはBoulder の夏の風物である。
 日本のように草木を通して,はっきりと四季の移ろい を感じることはできぬが,二月の聖バレンタイン,四月 のイースタ祭にはじまり,十月のハロウイン,十二月の クリスマスにいたるまで一年間の折々にある記念日には 各家庭で思い思いの趣向を凝らした催しやパーティを行 い,年月の節目を感じ忘れ得ぬ想い出が作られていくよう だ。こうした記念日には,筆者も同僚の家庭に呼ばれた り,また我が家に来ていただいたりして楽しい日々を過す ことができた。クリスマスの豪華な料理,夏の夜に満天 の星を仰ぎながらの屋外パーティなど忘れることはでき ない。
 慌しい日本へ戻った現在,Boulderでの一年間の生 活は長い夢を見ていたかのようである。
  おわりに
 僅か一年間の米国の生活であったが,一日一日が新鮮 で印象深い毎日であった。知り得た米国人が皆, 自由で のびやかな暖かい人々であった。近年米国経済の不況が 伝えられているが,果しなく広大な砂漠をリボンの様に 貫ぬき通るハイウェイは現代の万里の長城に匹敵するほ ど迫力があり,米国の底力を暗示しているようであった。
 最後に当たり, この様な機会を与えて下さった科学技 術庁,郵政省及び当所の関係各位に深く感謝いたします。

(企画部 第1課 主任研究官)




>職場めぐり<

電波リモートセンシングの爛熟期に向って


衛星計測部第一衛星計測研究室

 当研究室の歴史は比較的新しく,昭和54年7月14日に 衛星計測部に属する二つの研究室の一つとして活動を開 始した。所掌では「衛星による対流圏以下の領域につい ての計測に関する研究を行うこと」と規程されているが, 具体的には大気,地表,海面等の自然環境を電波を使っ て測定する電波リモートセンシングの研究を行うのが 当研究室に課せられた使命である。研究室としての歴 史は浅いが,中味の研究はより早い時期から行われて いる。黎明はCS,BS計画が軌道に乗り始めた49年 頃で,電波によるリモートセンシングの研究を行うべき ことがプロジェクト報告書の中で要望されている。50, 51年になると衛星のミッション機器の一つとしてマイク ロ波放射計を取り上げ,電波によるリモートセンシング の可能性及び装置の設計検討が進められた。しかし,当 部発足に最も大きな要因の一つとなったのは,53年に航 空機搭載マイクロ波雨域散乱計/放射計の開発が世界に 先がけて開始されたことであろう。以後の研究は同装置 による実験研究が中心となり進められている。
 室員は現在7名で, リモートセンシングに関する技術 の開発及びデータ解析の二つのプロジェクトを設定して 研究を進めている。二つのプロジェクトを合せると下記 の五つに分類される。主担当者とともに紹介しょう。
@雨域散乱計による実験とデータ解析:雨降りが待ち 遠しい,几帳面な岡本謙一主任研と明朗,快活,姿勢と 礼儀がいつも正しい吉門信主任研が担当している。
A合成開口レーダの開発と画像再生:勝負師的根性の 篠塚隆研究官と岡本主任研の担当である。
BFM-CWレーダの開発とデータ解析:顔も丸いが 心も丸い藤田正晴主任研の担当だ。
C電波放射計の実験とデータ解析:独自の城にとじ込 って研究する尾嶋武之主任研が担当している。城へのハ ネ橋を下したままにしてほしいのだが。
D散乱計による海上風の研究:論理的だが食事の時間 がまるで非論理的な増子治信研究官が担当している。
 当研究室の人間模様は当所のそれの縮図を呈しており, 各種取り揃えてあるが実験等では協力をおしまない。
 さて,現在,部長,室長とも2代目である。部長は今 年5月に静から動へ,室長は昨年4月陰から陽への異動 であった。初代の組み合せは静陰(せいいん),広辞苑を 引いても正員,成因,一番語句が近い清陰でも研究体勢 に結び付く意味が発見できない。アイデア,情報のトッ プダウンは仲々難しかった様だ。反対にボトムアップの 陰静(いんせい)の場合はどうだろう。すぐ思い付く言 葉に院生,院政があり,後者の場合は指揮系統が逆転し ている。また,隕星(隕石の意),隠棲からは時々ショッ キングなアイデアを出すかと思うと後は俗世界を逃れて 閑居していた風にもとれる。殷盛という言葉もある。こ の意味は「きわめて盛んな事」で,当研究室の研究活動 が際立っていたことがこれで分る。さて,2代目はどう だろう。トップダウンは動陽(どうよう)となる。これ はすぐ動揺,童幼を思い出す。これでは研究室が幼稚ぽ くメチャメチャにされそうである。では,ボトムアップ はどうであろう。陽動(ようどう)はこれに作戦を付け て立派な意味を持つ。現在,本家の蔵元,大蔵省からの 予算獲得ができず,もっぱら科学技術庁,環境庁,分家 の予算を頼って生活しているが,これは将来,本家から 予算を引き出す陽動作戦を意味しよう。これで,少しは 将来へ希望を持てた。何はともあれ,当研究室を発展さ せる為には,下から上への突き上げが必須条件の様であ る。
 前にも書いたが当研究室が発足した7月14日は奇しく も1789年,パリ市民が現体勢を打ち破るべき大挙してバ スチーユ監獄に押しかけた, あのフランス革命勃発の日 に当る。昭和54年同月同日,電波研究所衛星計測部は当 所の旧研究体勢に新風を吹きこむべく華々しく登場した。 しかし,その当時の持ち上げられ方から4年近くの熱中 時代が過ぎると,所,省の対応が徐々に冷たくなってきた。 省所掌とリモートセンシング研究との対応付けへの苦慮 の現れである。現在,室,所,省ともこれに対し試行錯 誤を繰り返し,出口を探し求めている。丁度, フランス 革命後,恐怖政治に代表される民主化への試行錯誤の期 間と同じ様である。これでは良い研究は育たない。しか し,ナポレオンが登場する計測全盛の時代はもうすぐそ こに来ているはずである。まずは,所,省に対し何が出 来るか,下から上へのボトムアップで考えて行こう。そ して,早いところで,部長,室長の2代目に合わせて, 装置もそろそろ2代目,いや2台目の登場を願おう。

(高杉 敏男)




新規採用者の見た研究所


企 画 部

 58年度新規採用職員の研究所に於ける職場訓練が4月 から5月にかけて行われた。初・中級採用者7名,上級 採用者9名(研究所4名,監理局5名)であった。ほと んどの者が濃紺色のスーツに身を包み,頭髪もスッキリ と爽やかで,挨拶もはっきりと,正にピカピカの一年生 であった。食堂に居るときなどは一際目立っていたが, 電波研究所勤務者に限って言えば研究所独特のスタイル に染むのにはそう長くかからないだろう。そして, その スーツは年に数回お勤めを果たすのみとなり,体型が変 らなければ10年以上使えることは我々の経験から言える だろう。
 そんなフレッシュマン達が,この訓練期間中に感じた 研究所についての印象に耳を傾けることは,日頃ドップ リと研究所の日常生活に埋没している者達にとって,い ささかの刺激となり何かの役に立つのではないかと思わ れる。以下に彼等の訓練報告書から抜萃する形で研究所 の印象を語ってもらおう。
 彼らのほとんどが訓練期間中に得た研究所全体の印象 は初めに抱いていたイメージと違ったようである。
 「研究所の内容の多様さには驚いた。」
 「自然科学と工学がこれほど有機的に結びついた研究 機関は少ないのではないか。」
 「電離層の研究はもとより,衛星通信・音声合成・ス ペクトラム拡散通信方式など時代の最先端を行く技術や, リモートセンシング, ラスレーダ, VLBIなど私が全 く知らなかった研究もあり大変すばらしいと思った。」 等々,大方の訓練生にとって電波研究所の第一印象は好 ましいものであった。
 一方,研究所の現状について以下の様な興味ある指摘 をしている。
 「物理関係の研究がどんどん縮少され,電波研の特質 が失われていくような気がする。」
 「研究室によって研究者の平均年齢が大きく違うし, 研究室内での年齢の偏差が小さい。」
 「有線分野がないなど研究分野が片寄っている。」
 「本省との人事交流が少ない。」
 また,訓練は各部,支所全般について行ったが,その 中で特に彼等の心に残った感想を挙げてみる。
  「平磯支所,鹿島支所等でリアルタムで出てくるデ ータを見ていると早く仕事をしたいと思った。」
 「鹿島では若くActiveな雰囲気を感じた。」
 「電波部の重要性が他の分野に対して低下してきてい るという考え方が他の分野の研究室からそこはかとなく 感じられた。」
 「新聞の記事で警察無線が傍受される等の理由から秘 話性を持たせるためにPCM化の方向に研究開発が進ん でいるという記事を読んだ。そのようなneedsは口で言 うのは簡単だが実際にこれを支える技術を開発している 通信機器部の研究の重要さを認識した。」
 「必要最小限の情報のみを送り受信側で再合成する音 声情報の圧縮技術,光学写真とほとんど区別できないく らいきれいな画像が得られている合成開口レーダに興味 をもった。」
 「研究以外にも電波警報,検定業務,標準電波の発射 など直接国民の役に立つ業務も行っていることがわかっ た。」
 「日本の毎日の標準時刻を決定していることには驚ろ いたとともに非常に興味深かった。」
 「鹿島支所で実際にアンテナ・送受信機・管制装置な どを間近に見ることができ,衛星通信をごく身近に感じ ることができた。」
 以上,日頃我々があたりまえの事としている研究業務 のなかにも新鮮な感動を覚えていることがわかる。
 また,ある新規採用者は期待を込めて,
 「研究所全体に何か家庭的な雰囲気が感じられた。本 省で『いやな上司に当たっても,どちらかが動くから,1 年か2年がまんすれば良い』などと言う話を聞いたが, 研究所ではそういった心配はいらないようである。」と 書いていた。本当かな(期待に添いたいものである)。

(第一課)


短   信


将来技術衛星ミッションに関するシンポジウムを開催

 昭和60年代中期に実験用の静止衛星を打ち上げることを 想定し,衛星通信部第一及び第二衛星通信研究室では, 本年初めより,そのミッションモデルに関する提案を所 内関係者より募集し, 5月18日にシンポジウムを開催し た。従来,ECS-U,EBS,ACTS-Gが提案されてき たが, ミッションモデルは,従来の経緯にとらわれない 自由な立場で提案してもらい,その中から,実際の衛星 ミッションに育つモデルを見出すことを目指している。 シンポジウムでは,52件の発表が行われた。ミッション を大別すると@固定通信,A放送,B移動体通信,C周 波数標準,Dオンボード処理,E衛星間通信,Fリモー トセンシングと多岐にわたるものであった。特に,@〜 Bに関しては,小型で簡易な地球局を用いるミッション モデルの提案が多いことが注目された。今後は,いくつ かのミッションモデルについて詳細な検討を加えていく ことにしている。なお,本シンポジウムでの提案は, ミ ッションモデル集としてまとめる予定である。



卓球,硬式庭球とも団体戦優勝(A級)

 第4回全国電波卓球大会は,電波研究所が実行委員会 を担当し,昨年と同様蔵前の郵政局体育館において,去 る5月20・21日の両日,沖縄を除き全国から13チーム約 80名の選手が集い熱戦をくりひろげた。団体戦A級は昨 年の上位5チームによるリーグ戦で行い,決勝戦では研 究所チームが本省チームを破って4度目の栄冠を手にし た。B級は2ブロックのリーグ戦でそれぞれのブロック に勝ち残った信越と東海で闘い。信越チームに初の凱歌 が上った。
 2日目の個人戦A級は予想どおり宮山(本省)と本間 (研究所)の対決となりフルセットのジュースまでもつれ 込んで会場をわかしたが,ねばりぬいた宮山が昨年に引 き続き勝利をかちとった。B級は梅原(研究所)が初め て優勝し,OBは古賀(九州),女子は斉藤(東北)がベテラ ンの味を発揮してそれぞれ勝利のトロフィを手にした。 今大会の印象は若手がどんどん成長してきており,全般 的にレベルアップされてきたものと思われる。
 第5回全国電波硬式庭球大会は,本省支部が実行委員 会を担当して,郵政省中央レクリエーションセンターに おいて, さる5月21・22日の両日全国から11支部13チー ム約95名の選手が参加し友好の実を上げ成功裏に終了し た。団体戦の結果は以下のとおりである。
   A級 1位 電波研A  B級 1位 本省A
      2位 九州      2位 研修所A
尚,個人戦においても,当所代表チームは,A級で準優 勝, B級で優勝を遂げた。



第64回研究発表会開催

 5月25日,第64回研究発表会を4号館大会議室で開催 し,57年度後半における研究成果を午前3件,午後4件 (プログラムは本ニュースNo.85に掲載)発表した。久々に さつきが彩りを添える新緑の中での発表会で,前回やや 落ち込んだ外部聴講者も今回は105名を数えた。
 講演は,EPIRB実験,マルチビーム・アレーアンテナ, 合成開口レーダ等衛星に関連した内容が4件あり,昭和 62年度打上げ予定のETS-Xに搭載を目指して,58年 度にスタートした航空海上通信技術の開発計画が特に注 目を集めた。電波・音波レーダの開発と実験,ミリ波帯 伝搬実験については共に利用面が今後の課題となりそう である。また最後の南極観測25年の講演は,関係者にと って胸をうたれるものがあった。