原始から原子へ


佐藤 得男

  はじめに
 人類がこの地球上に発生する以前から,時の流れは昼 夜の自然のリズムを生み,季節の変化を与えてくれた。 一定の周期でくり返す自然現象を予知したり,農業,牧 畜をいとなみ生活を安定したより良いものとするため, 人々は日を数え,季節を知る必要性を感じたであろう。 ここに暦法のルーツがある。それは,多数の日を数え, それと季節の循環との関係をわかりやすいものにしよう とした人間の生活の知恵である。
 やがて人間の社会生活が進んでくると,人々は1日を 昼夜に2分するだけでは足りず,更に細分する方法を考 えるようになり,時法の誕生となる。したがって時法の 発達は,人間生活の複雑化に相伴うもので,この時法を 現示する時計も社会経済生活の発達に促されて向上した ものと言えよう。
  定時法と不定時法
 1日の長さを100等分,あるいは12等分のように分割 する時刻制度を定時法という。これに対して1日を昼と 夜に分け,それぞれを6等分などに分割するものを不定 時法という。不定時法は,その中に日出とか日没とかの 自然現象で規定される時刻点があり,日中の時間経過は 地面に立てた棒の影の移動によって区分でき,夜間は天 の北極のまわりを動く星座の位置によって区分できるこ とから,最初に発生した時法であろう。BC30世紀以前 に,エジプトではすでに昼夜をそれぞれ12等分にする不 定時法が採用されていたという。
 わが国に最初に時刻制度が作られたのは,天智天皇10 年(671)に漏刻(水時計)を用いて初めて「時」を報じ たときであろうというのが定説となっている。このとき の制度の内容は不明だが,862年に宣明暦を採用してい ることから真太陽時にもとずく定時法であったという説 と,日出入時刻に依拠している不定時法であるという二 つの説がある。この水時計の原理は,一定の水の流れを 作り,水海と呼ばれる貯水そうに目盛のきざまれた矢を 浮べて時刻を示すものであった。この矢が48本用意され ており,1年24節気にそれぞれきざみの違う矢を用いた というから不定時法だったのかもしれない。
 江戸時代の常用時法は不定時法で,時の基準を夜明け と日暮れとし,これを明け六ツ,暮れ六ツと呼んだ。こ れを境に1日を昼と夜に分け,それぞれ6等分し,明け 六ツ,暮れ六ツからかぞえ始め図1のように五ツ,四ツ, 九ツ,八ツ,七ツのように呼んだ。〈お八ツ〉は午後のお 茶の時刻として現在もなおその言葉は残る。


図1 江戸時代の時刻と現代の時刻

 長い間庶民に親しまれたこの不定時法は,明治五年の 改暦とともに廃止され,代って現在のような定時法が採 用された。しかし,この改暦に際して当時の人々は強い 拒否反応を示したという。それもそのはずで,何んらの 啓蒙を行わず,猶予期間もおかずに,11月9日になって 突然宣言されたという。明治五年太政官布告三百三十七 号というのがそれである。
 一. 今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御領行相成候ニ付来ル十 二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事。
とある。有名な尾崎紅葉の金色夜叉の一節「来年の今月 今夜のこの月を再来年の今月今夜の……」は陰暦でなけ れば通用しないはずであるが,太陽暦が施行されて20年 あまりたってから書かれたというから,いかに人々の間 に陰暦が根強く残っていたかがはかり知れよう。また, この布告には一年が365日で4年毎に一日の閏年を置く 事や,大の月小の月の規定の外に時刻についても定めて ある。
 一. 時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処 今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻 ヨリ午後迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ョ リ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事。
とあり表1のような時刻表がついている。


表1 太政官布告337号で出された時刻表

 よく小学生から「お昼の12時15分は午前12時15分か, それとも午後零時15分か?」という趣旨の質問を受ける。 この質問に答える法律はこの太政官布告以外に見あたら ない。文章から判断すると午後のようである。しかし, 表では午後零時という時刻はない。最近のデジタル式の 時計ではPM12:15と表示しているのが多いようである。 この表では午後12時とは子刻すなわち午前零時のことで ある。筆者の能力では先ほどの小学生に正しい解答がで きずおゆるしを願っている。
  時計の発達と時報
 日本最初の機械時計は,1551年キリスト教布教のため 来日したフランシスコ・ザビエルによってもたらされた というから,900年近くも水時計のような原始的な時計 が使われたのであろうか。
 江戸時代に入ると和時計と呼ばれる日本独持の機械時 計が発達した。これはヨーロッパの定時法の機械時計を 日本の不定時法に合せるように工夫したもので,昼用と 夜用の2挺テンプを用いたり,文字板の文字を駒にして はめ込み時刻合せができるようにしたものである。
 しかし,このような機械時計は非常に高価で,大名や ごく一部の商人しか持つことができなかった。一般庶民 は近くで描く「時の鐘」で時刻を知ったのである。では この「時の鐘」はどのようにして時刻を決めていたので あろうか。
 理科年表によれば,「明け六ツ暮れ六ツとは,太陽の中 心の伏角が7°21'40"にある時」と説明されている。定義 はこのように厳密であっても時の鐘つき役が天体観測を していたわけではなく,空をながめ明るい星が見えなく なる時(又は見え始める時)に描いたというから日によ っては30分や1時間位の差はあったに違いない。この江 戸時代の代表的な鐘である石町の鐘は,いまは当時より 二,三百メートル離れた日本橋十思公園に保存されてい る。(写真1)


写真1 時の鐘(日本橋十思公園)

 明治に入ると西洋の安いボンボン時計が多量に輸入さ れ,あちこちに時計台が作られた。報時も「時の鐘」か ら,広い地域に瞬時に知らせる。ことができるという理由 で時号砲,いわゆる「ドン」にその役目をゆずった。東 京の「ドン」は昭和4年4月末まで続けられたが,この ときに用いられた大砲は,現在小金井公園武蔵野郷土館 にある。(写真2)


写真2 東京時号砲「ドン」(小金井公圏武蔵野郷土館)

 明治44年に天文台から無線報時が開始され,また大正 14年にラジオの放送が始まり,放送局の毎時の時報がこ れに代ったのは周知の通りである。
 機械時計もさまざまな工夫がこらされ,1920年代には 日差0.01秒を越える精度の振り子時計も出現するように なった。また,1927年にはアメリカで水晶の圧電効果を 利用したいわゆる水晶時計が作られた。この水晶時計は 日差0.02秒程度であったが,1940年ごろには0.001秒以 下に達し,地球自転速度のムラが検出できるようになっ た。更に,1949年にはアンモニア分子中の原子振動を利 用する原子時計が試作され,現在秒の定義に採用されて いるセシウム原子時計へと発展してきたのである。
  天文時から原子時へ
 天文時の基本的概念は,太陽に対する地球の自転角度 が示す時刻である。1884年ワシントンで開かれた国際子 午線会議は,グリニッチ天文台子午儀の中心を経過する 子午線を経度零度と決めた。この経度零度の示す平均太 陽時が世界時UT0で,UT0に極運動の影響による経 度変化を補正したのがUT1である。UT1に,さらに 季節変化を補正して均一化したものが世界時UT2であ る。
 ところで,何かを測ろうとするときには物差しが必要と なる。時間の物差しは時計であり,基本単位は秒である。 秒は,かっては平均太陽日の8万6400(24×60×60)分 の1と定義されていた。しかし,この平均太陽日もごく わずかだが予測のつかない不規則な変動をする。しかも, 月と太陽の引力による潮汐現象が地球の自転にブレーキ をかけるという。
 科学技術が発達してくると,このごくわずかが大きな 問題となってきた。そこで,1956年には地球の公転をも とにした暦表秒,すなわち,秒は「1900年1月0日12時 (暦表時)における回帰年の3155万6926.9747分の1」と定 義された。しかし,この定義も現在は使われていない。 なぜならば,明け六ツ,暮れ六ツの定義と同じように, 定義は厳密であっても,観測精度が低く,これを現示で きないからである。1967年の国際度量衡総会は“1秒は セシウム133原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷 移に対応する放射の91億9263万1770周期の継続時間とす る”ことを正式に採用した。
 天文時から“秒”が決定され,その1秒間の振動数で 周波数が導かれていたのが,逆に周波数を定義し,こ れを積算して“秒”及び時刻が示せるようになったわけ である。しかし,原子時計による保時が始まったころに は,天文学者と物理学者の間でいくつかの論争や誤解が あった。それらの多くは古くからの慣習と,それを少し でもうち壊そうとする新しい考えとの間の衝突が原因で あった。これまで時系という概念はあまりなく,時刻が 先にあり,それは天文観測で得られていた。時刻を決定 するのに,人工の時計に頼るという考えは危険で,もし 原子時計が止ってしまったら,時刻が永遠に失われてし まうという不安があった。しかし,この問題は,保時施 設を多く作り,広い地域に分散させることで解決される。 それに天文観測ができなくなるわけではない。現在では それらの問題は解決し,論争もなくなった。というのは どちらの時系も連続的に維持され,天文学,地球物理学, 測位などの分野で,原子時計の正確で信頼性のある時間 間隔が重要な役割をはたしているからである。
 東京天文台の池田先生は,著書の中で次のように述べ ておられる。「かっては正しい時刻を決定するという目 的で,恒星の観測が行われていたが,いまでは原子時計 が導入されて,きわめて高い精度の保時が可能となり, 写真天頂筒を用いての時刻や緯度の観測と相まって,時 計の補正というより,地球の自転速度の変動が決定され るようになった。」
  時刻の決定と供給
 いかに精度よく「時」が決定できても,それを公表し 現示しなければ役にたたない。現在わが国で,この時刻 を供給する唯一の公的な手段は標準電波である。
 無線局の周波数規正を目的に,昭和15年に開始された 標準電波に,報時信号をのせるようになったのは,昭和 23年8月のことであった。当時は東京天文台が時刻を決 定し,有線で直接制御する方式であった。このころの時 刻信号は,UT0に同期した一平均太陽秒のくりかえし であった。しかし,1953年の国際天文連合(IAU)の 総会は,UT2の採用を決め,1956年の第8回国際無線 通信諮問委員会(CCIR)総会以降,周波数もUT2 の秒に関して定め,標準電波の時刻もUT2に対して50 ms以内に保たれることになった。
 UT2の決定には数か月を要したから,標準電波で通 報した時刻を,のちに東京天文台が決定する標準時で校 正し,校正表を発行していた。当時の書物には,「天文台 自ら放送していた無線報時も,現在電波研究所から JJYという符号のもとで,昼夜連続毎秒を知らせる標準周 波数,秒報時も日本の標準時を一般に知らせるものとさ れているが,実は極端な言い方をすれば標準時とは無関 係な一種の信号を送り出しているにすぎない。」と書かれ ている。この“一種の信号”が,わずか30年たらずで平 均太陽秒を精度で10万倍も引きはなしたからおどろきで ある。
 では,現在の時刻はどのようにして決められているの であろうか。
 現在,我々が日常使っている時系は,協定世界時 (UTC)と呼ばれている時系である。このUTCは,時間 間隔は原子時計で,時刻はほぼ天文時を示すものと考え ればよい。つまり,毎日の時刻は原子時計の一定の秒間 隔で刻んでゆき,天文時との差をある範囲以内に管理し ようというものである。1972年までの旧UTCでは,周 波数を一定値だけオフセットし,UT2に近似させ,か つ,必要に応じて0.1秒の秒信号のステップ調整で天文 時との差を±0.1秒以内に納めていた。しかし,地球自 転の不整で,この周波数オフセット値を年とともに変え なければならなかった。1972年からスタートした新 UTCは,周波数オフセットをやめ,1秒のステップ調整だ けで,天文時との差を0.9秒(1975年までは0.7秒)以内 に管理している。この遅らせたり,進めたりする1秒を “うるう秒”と呼んでいる。第1回目の調整は,1972年7 月1日の直前に原子時計を1秒遅らせる調整が行われた。 以後,天文時の遅れは,現在のところほぼ年に1秒程度 なので,毎年1月又は7月に調整が行われ,今年の7月 の調整は12回目にあたる。このうるう秒調整は,もちろ ん電波研で勝手に調整するわけではなく,天文台からの 指示で行うものでもない。国際報時局(BIH)からの 指示で,全世界一斉に行われるものである。BIHでは, 世界の主だった国々の原子時計の示す時刻を,ロランC 電波や可搬型原子時計を使って相互比較したデータをも とに平均化し,UTC(BIH)を合成している。この UTC(BIH)と前述のUT1を比較し,うるう秒調 整の指示を出すのである。なお,世界中の標準電波は, CCIRの勧告に従ってUTCを通報し,かつ1ms以 内に同期することになっている。又UT1利用者へのサ ービスとして,UTCから0.1秒の精度でUT1に変換 できるように,UT1-UTC=DUT1を0.1秒単位 でコード化して通報している。このDUT1の値の調整 もBIHから指示がくる。
 世界時UT2の1958年1月1日0時0分0秒に,原子 時計を合わせて動かし始めたとした時系を国際原子時( TAI)と呼んでいる。このTAIとUTCは,ちょう ど整数秒だけ違う。それは新UTCはスタート時に TAIに対し10秒遅れ(UT1に対してほぼ0秒)の所から スタートしたからで,現在はうるう秒のそう入で22秒お くれとなっている。
 セシウム原子時計の精度は,10^-13〜10^-14にも達して いる。つまり,2台の原子時計が1秒ずれるのに30万年 以上かかる計算になる。日常の生活には,最近の月差15 秒くらいの水晶時計で充分であろう。しかし,VLBI のようにナノ秒を追究している科学分野もあり,今後, ますます原子時計の精度向上が求められるであろう。
  おわりに
 何事にもかかわらず,調べるときはまずその原点にま でさかのぼるのが原則であり,鉄則であろうと考え,門 外漢の小生が,多少読みかじった文献や資料をもとに時 計の歴史と時刻制度について述べて見た。調査不足の点 や説明の不十分な点が少なからずある事と思うが,この 拙文が,日頃何げなく使っている時刻や時間についての 関心を呼び起こす糸口となれば幸いである。

(周波数標準部 標準電波課 標準器係長)




電波で地震をさぐる


磯崎 進

  はじめに
 最近,地震予知に関する論議が盛んである。関東大震 災から60年たち,その再来は必至とされ,またいつ起き ても不思議はないともいわれている。都市直下型や東海 巨大地震の発生に対して万全の防災体制を整える必要は 勿論であるが,その何日かあるいは何時間前でも確実に 予知することが出来たら,その効果ははかりしれないも のがあろう。
 予知には,まず観測の積重ねが必要である。直接地殻 の振動をとらえる地震計の外に,地盤の変形,地下水の 変異,気象,家畜魚類などの小動物,樹木等が専門家か らアマチュアにいたるまで実にさまざまの人々の観測の対 象となっている。その中で電波の放射は,最近注目され ているものの一つである。
 地震による電磁波は,本震の始まる以前から発生する らしく幾つかの観測報告がなされているが,これらによ ると比較的低い周波数帯で検出され易いと考えられる。
 幸いなことに犬吠電波観測所では,長い間VLF帯で の伝搬研究を続けてきており,現用のアンテナ等の施設を 利用することが可能であり,比較的簡単に観測が出来る のではないかと考え,調査を進めているところである。
 ただし,当面は予知というより,地震による電磁波が はたして本当に発生するのか,その存在を確かめること に主眼をおいて観測を実施してゆくつもりである。
  地震に伴う電磁波の観測
 地震は一般によく知られているように,連続して加わ る外力によって地殻が次第にひずみ,ついに耐えきれな くなって内部の岩石層が突然破壊して起る。したがって, 大地震の発生前には,地殻の猛烈な変形によって,岩石 が強い圧力を受け圧電効果のようなものが生ずるかも知 れない。これが地磁気,地電場に変化を及ぼして電磁波 が放射されるとも考えられるが詳しいことはよくわかっ ていない。地震に伴う電磁波の観測は,各地で行われて いるが,今までに知り得た情報の幾つかを簡単に紹介す る。
 京大防災研究所の尾池助教授は,庁舎屋上に5mのポ ールを建て,ポール・アンテナを設置して5〜30Hzの フィルタを通してレコーダ記録を行っている。
 図1は,1982年3月21日に起った北海道浦河沖地震 (マグニチユュード(M)=7.3)の際に記録された異常 ノイズの振幅と出現頻度の変化を4段階に分けてかいた ものである。これによると,本震の1日前から1〜数秒 継続する振動的な波形が出はじめ,次第に出現頻度が高 くなり,継続時間が長く,振幅も非常に大きくなった。 これが1日間続いた後,本震直後再び出現して最大余震 発生後次第に弱くなり,約1日で終っている。
 また,同理学部小川助教授の観測では,内陸に発生し たM=4程度の地震のときに,小さい振幅ながら浦河沖 地震と同じパターンの信号を記録しているということで ある。
 伊豆韮山では,1982年8月12日大島付近の地震(M= 5.7)に163kHzで本震の30分ほど前から15分間と本震直後 から約30分間信号が記録された。
 菅平では,1980年3月31日(M≒7)地震の折り,震 前30分から連続してノイズ・レベルが上昇し,本震と 同時に消えている。アンテナは対角線長3mのループを 使用,観測周波数は81kHzである。
 外国では,コーカサスで1978年9月16日(M=7.4)地 震に27kHz,1.63MHzで30分程度の連続したノイズが 観測されている。


図1 (1982年4月29日読売新聞より)

  犬吠での観測現況
 犬吠における地震電波の観測は,さきに述べたように, 簡単なVLF帯受信から始めることにした。
 オメガ電波観測に使用している6m垂直アンテナの共 用装置出力を利用し,受信機はとりあえずVLF帯電界 強度測定器を使用,検波出力以後レコーダまでの回路を 自作して付加した。更に旧型の老朽品であった電測器も 何とか生き返らせて2周波による観測を行っている。
 周波数は電測器の受信範囲とアンテナ系のレスポンス, それに混信の関係から7.5kHzと20kHzとしている。
 雑音入力のピークは空電のクリッグによるもので,連 続的雑音レベルはこれよりかなり低く,これらに対処す るにはダイナミック・レンジの狭い電測器はあまり適し ているとはいえない。早い機会に製作を検討する必要が あると考えている。
 地震による電磁波の放射があったとして,この帯域で の波形はパルス性で間けつ的なものか連続性のノイズな のかわからない。したがって,それらの区間からの判断 もできるよう強度記録は,尖頭値に近いレベル,平均値 及び最小値(連続雑音)レベルの3つをレコーダ記録す ることにしている。
 回路時定数は,短時間の放射にも対応できるようあま り大きくしたくはなかったが,クリックにより記録の変動 幅が広がり読みとりができないため止むを得ず10秒程度 まで広げた。これまでの報告によれば出現時間は何10分 とか何時間とかいった長時間のノイズであるから,この 通りなら問題はなく,レコーダも打点式マルチペン型を 使用している。
 まだ記憶に新しい5月26日の日本海中部地震(M=7.7) の前後数日間の記録では,比較的静かな空電レベルが平 常と変らず,また8月8日関東南部直下型地震(M=5.8) の際にもそれらしきものは検出できなかった。
 現在,宇宙空間研究室の協力を得て,ELF帯での観 測を準備中である。アンテナはVLF用のループに手を 加えて使用している。ELFでは商用電源からの妨害が 最も大きな影響を及ぼすと考えられることから,その高 調波を避け,受信機の特性を考慮して125Hzを中心とし た狭帯域受信とした。まだ中間の段階で詳しいことは言 えないが,図2に見られるようにこの付近の周波数でも 空電のクリックが一様に存在し,その下にも連続な雑音 レベルがあるがこれも空電らしい。125Hz前後の商用電 源高調波はフィルタにより40dB以上の減衰が見込まれ, それ以外に人工雑音が感じられないことから観測にはか なり期待が持てそうである。


図2 ELF帯雑音スペクトラム

  周辺の環境
 当所は東へ太平洋に突き出た銚子半島の突端に近く, 北総一の高所(海抜73m)である地球がまるく見える丘 に隣接している。付近一帯は地盤が厚い岩石で形成され, 薄く表土が覆っている。
 このためか近くの茨城県の沖合あるいは南西部は地震 の多発地帯であるけれども,周辺都市の震度と比較する と銚子は1ランク低いことが多い。有感地震も少ないよ うに感じられる。
 しかるになぜか,地震に関連する観測施設は多い。当 所の構内には東大地震研究所の地震計が設置してあり, 観測データは常時筑波山を中継して送信されている。
 地球展望台の裏には,銚子地方気象台の歪観測室があ る。深さ150mほども岩盤を堀り下げ,中に油を充てん したものに地震計が接続されているという。長期にわた るひずみを測定するのが目的と思われる。
 更にそれより下って,200mほど離れたところに,国立防 災科学技術センター銚子地殻活動観測施設と長い名前の 看板がかかった建物がある。ここも無人で詳しい内容は 分らないが地震に関係の深い施設には違いない。銚子は 日本列島から張り出し,太平洋プレートに近いところと して特異な位置を占めているのかも知れない。
  おわりに
 VLF帯での試験観測を数か月近く続けてみた結果で は,日により空電の強度レベル,細かい変動が必ずしも 一様でなく,この中から電波放射を判定するのはかなり むづかしい。もっと空電の影響の少ない周波数あるいは 観測方法を検討する必要を感じている。
 市販のラジオを使った観測でも捕えたという話もある のでVLF帯以上での観測も考慮したい。
 また,地電流あるいは導電率の測定も考えられるが, 当所は敷地が狭く,南面東面共に数十mにわたって断崖 である地形から効果はあまり期待できないと考えている。
 幸い,HISS観測用の受信機も手に入ったので,こ れらの効果的な活用も心掛け,じっくりと注意深く観測 データをみて行くつもりである。

(犬吠電波観測所長)




ジェット推進研究所に滞在して


塩見 正

  はじめに
 最近,電波研究所においても,日米間のVLBIの実 験や,シャトル搭載の合成開口レーダによる実験に関係 して,ジェット推進研究所(JPL)との関わりが深ま ってきた。筆者は,このたび科学技術庁の長期在外研究 員としてJPLのNavigation Systems Sectionに1982 年10月1日から10ヵ月間滞在する機会を得たので,この 研究所について紹介し,そこでの研究生活の感想にもふ れてみたい。
  JPL都市
 JPLはロサンゼルスの北方約十数qのパサデナ市の 北西のはずれ,山のふもとにある。南カリフォルニア特 有の乾いた空気と強烈な日差しのもとで,山にはまだら に砂漠性の灌木や雑草だけが茂っている。その丘陵地の 一角に突然まるで都市のように大小,新旧の多くの建物 が一見雑然と,所狭しと立ち並んでいるところ,それが JPLである。
 JPLは組織上はカリフォルニア工科大学(CALTECH と略称される)に附属する研究所であるが,4600 人の人員を擁し,その仕事のほとんどはNASAとの契 約によって行っており,まるでNASAの深宇宙プロジ ェクトの実施のための中枢研究所のような様相を呈して いる。1982年度の年間予算は約4億ドルであるが,その 80%が深宇宙探査を始めとする宇宙開発研究とそのため の地球局施設の運用にあてられている。


JPL遠景

 JPLの組織は一見複雑であるが,いわゆる行列構造 となって,たてよこが結合されて運営されていると知ら されると,なかなか合理的なものと思いあたる。すなわ ち,運用中及び計画中の諸宇宙機,地球局施設の開発運 用,将来の目玉的な科学研究・技術開発に対応して推進 本部的なオフィスがあり,各種の運用や研究開発を行っ ている技術系研究部(Technical Division)の各セクシ ョンなどと有機的に結合されている(図1)


図1 JPLの行列的組織機構

  宇宙探査と航法
 JPLが,ボエジャー1号,2号によって木星や土星 及びそれらの衛星について膨大な量の写真撮影に成功 したことはまだ記憶に新しい。地球から光の速度でも1 時間ほどもかかるこれらの外惑星へと何年もかけて航行 し,次々と目標体に接近しては詳細な写真をとって,地 球に伝送することは,高い総合技術によって可能なこと である。
 筆者が所属したNavigation Systems Sectionは,飛 翔中の宇宙機の航法(軌道の測定や制御)に責任をもつ と同時に,将来の宇宙計画について航法の研究や技術開 発を行っている。
 深宇宙を航行する宇宙機の軌道決定において,特に精 度を出しにくいのが地球からの視線に垂直な方向の位置 または角度の情報であった。この問題の強力な解決策と して,最近注目されているのが△VLBIの方法である。 これは,宇宙機とその近くにみえる位置が既知の天体電 波源とを交互にVLBIで観測して,宇宙機の位置を, 天体電波源と同程度の精度でつきとめるもので,すでに ボエジャーを用いた実験でその有効性が実証された。次 期の重要プロジェクトであるGalileo計画(1986年打上げ, 木星探査)では,8GHz帯で38MHz の周波数間隔で2 チャンネルの△VLBI観測を行い,角度精度にして50 nrad以内を達成することになっている。また,金星周回 機のように惑星の回りを周回する衛星の軌道面の決定に 狭帯域VLBIによる角度変化率の測定が有効であるこ ともわかってきた。
 筆者は,VLBIの衛星管制や宇宙監視の分野への応 用について検討する目的をもっていたので,一般に種々 の追跡データがどのような情報の量と質をもつかという 点の解析法の調査から始め,いろいろなケースにおける VLBIによる軌道測定の有効性について研究調査した。 JPLでもVLBIの軌道追跡への応用の研究は深宇宙 だけでなく地球近傍の軌道の衛星についても盛んにすす められている。例えば,VLBIを静止衛星の高精度軌 道決定に利用することについては我々も予備的な実験を 進めてきたが,JPLの関係グループでもまさに同じこ とを始めていた。
  TDAオフィスと遠隔通信技術
 TDA(Telecommunications and Data Aquisition)オ フィスは,地球局施設(Deep Space Network,DSN) の運用と,遠隔通信技術の研究開発を総括し推進してい るところであり,経費の面でも活動の面でも,JPLで ひときわ重要な位置を占めている。深宇宙の宇宙機との 高品質,高速の通信や高精度の軌道測定を可能にするた めの研究開発はもちろん,レーダ天文,電波天文,電波 科学の各分野でも活動が盛んである。VLBIシステム の開発やそれを用いた天文や測地の分野での研究,さら には地球外文明の探査なども,このオフィスに支援され ている。VLBIの受信局を人工衛星に搭載する Space VLBIに関しては,TDRS(データ中継衛星)を1 つのVLBI受信局とする予備実験の計画が具体化して いる他,国際的に検討が進められているVLBI専用の 衛星(QUASAT)計画にも寄与をしている。
  研究活動の一側面
 JPLでは,前述のような深宇宙の探査と,それに不 可欠な航法や遠隔通信技術の開発研究だけでなく,地球 観測の面でも,合成開口レーダ等の分野で実績がある。 航法に関しては,強力なDSN地球局施設と20年以上に わたって蓄積された技術力を背景に,ヨーロッパや日本 の深宇宙探査機に対する追跡支援も行われつつある。
 これらの多彩な仕事を進める強力な基盤となっている ものは,やはりマンパワーと組織力であろう。重要なミ ッションの実施にあたっては,特に航法分野では10年以 上前から,まさに徹底的に検討しつくされているという 感がある。実施までには,打上げ時期の変更を始めとし て,軌道の計画が全面的に変更されることが数多くある が,それぞれについて詳細な検討が行われており,表面 にでてこないところにも蓄積は大きい。
 研究者は,それぞれ個室をもっている場合がほとんど のようであるが,そこでの仕事の成果や経過は10M( Inter Office Memo)やEngineering Memoとして秘書 によって関係者に配付される。個室のドアを開け放して いる研究者が多く,廊下において,あるいはドアにもた れて雑談したり,議論する風景はあちこちでみられる。
  おわりに
 JPLの内部の雰囲気は明るくて柔軟性を感じた。 入門に際しては厳しいチェックがされているが,中に入 ると大学のキャンパスのような雰囲気である。暖かい, というより暑い気候のせいもあって,服装も軽快である し,JPL都市にはあらゆる年令,人種の知識人があふ れている感じである。
 ロサンゼルス自体は,日本人を含めてアジア系の移民 も多く,砂漠性の気候のもと,熱気のある国際都市であ る。道路はよく整備されており,車でちょっと出かける とすぐ北にはモハービ砂漠や,夏でも雪をいただくシェ ラネバダの山脈,東にはアリゾナやネバダの荒野が広が っている。いずれも,日本とは違ったアメリカ西部の景 観である。
 終ってみればまことに短い10ヵ月であったが,多くの 面で収獲があった。最後に,このような機会を与えてい ただいた科学技術庁及び郵政省の関係者の方に厚くお礼 申し上げます。

(鹿島支所 衛星管制課 主任研究官)




渓流釣りに魅せられて


山下 七郎

 私は,四国の田舎に生まれ,子供の頃から近くの小川 で魚釣りなどして遊び,東京にきてからは,暇を見て海 釣り,川釣りなどを少しばかり楽しむ程度でした。
 昭和40年頃,所用で郷里に帰った折,弟が勤務してい るダム管理事務所に行き,初めてヤマメ(アマゴ)釣りを したのが渓流釣りの始まりでした。この釣りの魅力は, 自然を背景に山魚(ヤマメ,イワナ)と知恵を競い,また, 例え釣果がなくとも,そこは自然に恵まれた場所であり, 季節の山菜を摘んで残る時間を過ごす喜びがあります。
 釣りの旅は,行く先ざきみなそれぞれの良さがあり, ストレス解消には一番良い療法と考えています。
 初めの頃の釣り場は,伊豆・狩野川の支流,大見川で した。東京に近いこともあって,いつ行っても釣り人が 多く,釣果がゼロの日もあり,そのときは,やむなく魚 ならぬ川岸のセリを摘んで帰ることが幾度かありました。
 釣り人は,釣り方を教えてくれません。自分で勉強す るしかなく渓流の本を研究し,渓流に足を運び体でポイ ントや釣り方などを覚えていくのです。
 今年は,かねて行きたいと思っていた奥飛騨に6月初 旬,友人からの誘いがあり二つ返事で行くことにしまし た。長野県梓川を越える頃から飛騨の山は更に深まり, 安房峠越えの眺望はすばらしく感激しました。岐阜県に 入り,まず高原川に尺ヤマメを求めて入渓。ここでは3 尾の釣果で,うち一尾は体長25センチの大物でした。
 車は,高原川沿いに神岡鉱山に向って走って行く途中 こんな看板が目にとまりました。


 −山梨県の人は川に入ることを御遠慮下さい−−
 奇異に感じた私は,早速通りがかりの老人に看板の意 味を尋ねると,「山梨県人は小さい魚まで根こそぎ釣るか らだ」と答えてくれました。この言葉は,渓流釣りの将 来のことを思っての警句ともとれ,身のしまる思いがし ました。車は富山県を経て,再度岐阜県宮川村へ人りそ こで宿をとりました。
 翌朝4時に起き,小雨がぱらついていましたが,たいした ことはないと判断し,5時洞谷(ほらだに)に入渓しました。 20分ほど釣りのぼったところで,先にのぼった友人が,「熊 がいる」と,足をとめ思いあぐんでいました。「熊が嫌 いなタバコのにおいで退治しよう」と,大声で話しかけま した。そうこうするうちに,熊は樹林のなかに消え去り ました。まずはひと安心。友人は多少恐怖を覚えたのか, 私に先に行くようすすめ,それからは先導役をつとめる ことになりました。
 その結果,思いがけずポイントポイントで入れ食い状 態になり尺以上のイワナ5尾,尺以下15尾,ニジマス20 尾が釣れ,私の魚篭がいっぱいになったところで竿を納 めて山を下ることにしました。熊の出没するような所に は人が入渓しないのか,洞谷のような渓流が残ってい たことの喜び,同時に自然を大切にしたいものだと痛感 しました。山を下る道端に咲く山百合のあまい香りと収 獲の喜びで,いつしか熊の恐怖感は消えて行きました。
 その夜は,宿の主人とイワナの骨酒を酌みかわしなが ら,能との出合い,イワナの濃さなど釣り自慢の話しで 夜更けまで語り合いました。翌日は釣りにならず,平湯 温泉に立ち寄り体と心の洗濯をして帰宅しました。
 以上これまで体験した一部について書きましたが,渓 流釣りの良さ,そうして楽しみ方は,私なりに次のよう に考えています。
 第一,健康的スポーツである。第二,自然に親しみな がら釣りができる。第三,日常のストレスが解消できる。
 近年山林の乱伐は,土砂崩れ等の災害発生を誘引し, 渓流は,瓦礫の山となって荒れ果てています。山も,渓 流も自然な形,姿でいつまでも残しておきたいものです。 山に樹々があってこそ渓流に魚が生息します。もう樹木 の伐採は中止して欲しいと念願するのは,私たち釣人だ けでなく多くの人が感じていることと思います。

(総務部 会計課 専門職)


短   信


台風10号により沖縄電波観測所に被害

 沖縄電波観測所は9月25日から26日にかけて大型台風 10号の直撃を受けた。瞬間最大風速50m以上を記録し, 張り替え工事を終ったばかりの電離層観測用アンテナの 碍子が破損したほか,振り止め線も断線した。またFM 放送受信実験用のアンテナが2基共吹き飛ばされ,テニ スコート・フェンスのグラスファイバー製ポールも約半 数が根元から折れた。台風が去った後,27日から29日に かけて所員が一丸となって復旧作業にあたり,観測を再 開した。



電波研究所親睦会の総会開催さる

 第12回電波研親ぼく会の総会並びに懇親会が,昭和58 年10月15日電波研究所で開催された。当日はさわやかな 秋晴れに恵まれ,OB93名(内女性5名),現職40名(内 女性4名)が参加し盛会であった。
 総会は,金田副会長の開会のことばに始まり,司会者 に高橋達幹事を指名し進行した。若井会長のあいさつ, 生島代表幹事の経過報告,会長から幹事の指名を行い, 菅野副会長の閉会のことばで終了した。その後,4号館 をバックに記念写真を撮ってから会場を講堂に移し,大 瀬幹事の司会で懇親会が始まった。会場は焼とりの煙と においが一ぱいに漂いのどが鳴る。上田元所長の乾杯の 音頭でさらに気分が盛り上り,おいしい料理に舌鼓を打 ち,懐しい人,人,人,との話がはずむ。特に今回は現 職女性の尽力もあって久し振りに女性の参加があり会場 に花を添え,互に名残りを惜しむ中で,6時30分河野元 所長の乾杯の音頭で無事会を終了した。



第7回日仏混合委員会,東京で開催さる

 第7回日仏科学技術協力混合委員会が10月5日〜6日東 京で開催された。同会合には,ブナ対外関係省文化科学 技術局長を首席とする10名の仏側代表団が出席し,海洋 開発,宇宙通信,新材料等の分野における活動状況のレ ビューと今後の協力の可能性について討議した。当所か らは通信機器部の林物性応用研室長と衛星計測部の高杉 第一衛星計測研室長が,それぞれエレクトロニクスと宇 宙分野(宇宙通信を除く)における打合せに出席し,今 後の具体的協力の推進について意見交換を行った。仏側 ファルジュ代表は「エレクトロニクス分野においては更 に広い範囲の協力も含めて話合うため,近く仏側関係者 を来日させたい」と述べ,日本側はこれに賛意を示した。 なお,林室長はエレクトロニクス分野の極低温電子素子 について,今回より日本側コンタクトパーソンに指名さ れている。



日中科学技術協力

 日本と中国の科学技術協力協定(昭和55年発効)に基 づく第2回日中科学技術協力委員会が10月24,25日に外 務省で開かれた。当所から周波数標準部の吉村室長と小 林課長がオブサーバーとして参加した。新たな協力テー マとして当所提案の「日中VLBI共同観測」及び「時 刻標準の国際比較と情報交換」が加えられることになっ た。来年度からスタートする日米VLBI実験に加え,日 中間の観測を行うことにより,プレートダイナミックス の一層の解明が期待される。また,日中間の時刻比較, 周波数比較を行うことにより国際原子時の決定及び周波 数標準の確度向上へ大きな貢献をすることとなる。