100号を記念して

所長 若井 登

 電波研究所ニュースが,昭和51年4月にお目見えして から8年余を経過し,ここに100号という一つの区切り を迎えました。初めは8頁で構成しましたが,そのうち 単に出来事の紹介にとどまらず,研究の解説を含めるな ど,内容の充実を図り,50号の頃から12頁建てが定着化 しています。

 私が昭和51年3月CCIR中間会議から帰るとすぐ, 「ニュース発刊が決まった,第2号に出張報告を書け」と 言われましたが,原稿を書きながら,「毎月原稿を集め て出版し,あちこちに配るのは大変だろうな,途中で息 切れしなければよいが」と,発刊の意義よりも心配の方 が先に立っていました。しかしこれは私の単なる杞憂に 終り,その後編集部の努力により,とりわけ所外からの 励ましに支えられて,今日まで号を重ねてきました。本 当に喜ばしい限りです。私も約2年間企画部にあって, ニュース編集の責任の一端を負いましたが,直接担当の 企画部第一課第二企画係を中心にして,毎月1回,1時 間程のニュース編集会議が手際よく進められてゆく様子 を見ていますと,この仕事もしっかり根付いたなという 感を深くしました。

 第1号の発刊のごあいさつの中で,湯原所長が書いて いますように,英文・和文の機関紙を介しての研究論文 や学会発表が,それまでの研究活動紹介の主な手段であ ったことを反省し,当所の研究が専門家だけでなく,広 く一般に理解されることを目的として,本ニュースが発 行された訳です。今後とも尚一層内容の改善を図って, 当所の研究活動の紹介に役立ててゆきたいと考えていま す。

 さて今月は電波行政の新体制が発足した記念すべき月 です。別の言い方をすれば,郵政省が電気通信の今後の 発展を促すべく,新しい行政組織を確立した月でもあり ます。この機構改正の発端は,いうまでもなく,情報通 信技術の急速な進展と,それを支える多様化・高度化す る社会のニーズですが,電波技術開発の先導役であるべ き当所としても,新しい郵政省の使命と軌を一にした体 制作りを急がなければなりません。行政部門には少し遅 れますが,現在の予定では,電波科学と総合的電気通信 技術の開発を担う国立研究所として,昭和60年度から, 新しい所掌と組織で新生のスタートを切りたいものと準 備を進めています。ではこれからの電波研究所の仕事は 何か,ということですが,折角の機会ですので,この点 について所感の一端を述べてみたいと思います。

 先づ宇宙通信研究に関しては,昭和51年に電離層観測 衛星(ISS),52年には技術試験衛星T型(ETS-T) と実験用中容量静止通信衛星(CS),53年には実験用中 型放送衛星(BS)と,矢継ぎ早に郵政省主導の人工衛 星が打上げられました。この昭和50年代初頭の数年は, これらの衛星計画の実施中心機関であった当所にとって だけでなく,日本の宇宙開発にとっても,画期的な時期 であったといえます。CS-2号やBS-2号によって 実用衛星通信・放送が実現した今,当所の次の研究課題 は,衛星による移動通信です。すなわち,我々は昭和62 年に打上げ予定の,技術試験衛星X型(ETS-X)に 搭載するため,すでに実験用航空海上移動通信装置の開 発に取りかかっていますが,当然その次には,陸上移動 通信の研究に進むべきでしょうり衛星間通信技術も魅力 ある研究テーマの一つですし,電波の独壇場である宇宙 は研究者にとって宝の山ですから,マルチビームアンテ ナのような基盤技術をどしどし世に出したいと考えてい ます。

 一方地上通信にも研究課題は山積しています。一般的 な言い方をすれば,従来の電気通信が単一モードであっ たのに対し,これからの通信は複合モードに,そして年 を追う毎に,複合度が増すという経過を辿ることでしょ う。多少極端な例ですが,従来は人と人を結ぶのは電話 線だけという形態だったのが対し,これからは,自動車 から電波で基地局に,そこから光ファイバーで大都市に 次に衛星を介して海の彼方に,そして再び光ファイバー と電波を使って自動車の中の人にというような有・無線 混合の多様な形態になります。放送も同期中継局や双方 向有線TVや衛星放送の共同受信・個別受信などが出現 すると,それらの組合せでいろいろな放送形態が考えら れます。以上を要約しますと,潜在的に存在する通信・ 放送に対する多様なニーズが,技術の発達と共に,顕在 化してくるというのが端的な表現であって,我々の研究 対象も個々の通信・放送手段の研究に止まらず,多様な 手段間のインターフェース技術の開発ということになる のでしょう。これが総合電気通信技術の開発といわれる 中身であって,電波電気通信研究所とでもいうべき, 将来の電波研究所の中心的研究課題になることは間違い ありません。

 次に電波計測技術の開発について述べます。電波はマ ルコニーの時代から,その遠達性を買われて通信に,そ してまた広域への拡散性を買われて放送にと利用されて きました。一方,その定速性,直進性を利用して,遠方 の物体の存在,状態を知る,いわゆる遠隔測定(リモー トセンシング)にも電波は使われます。電波に関する研 究開発も,従来はどちらかと言えば,実用的価値の高い 通信や放送に重点が置かれてきましたが,これからは開 発効果の大きい,電波計測技術の研究に更に力を入れる べきだと思います。というのは,実用性の高いものは商 業ベースに乗り易く,技術開発にも民間活力が注入され 易いのに反し,電波を使う資源探査,環境監視のような センシング技術開発は,公共性が高く国でなければでき ないことだからです。当所が昭和54年以来開発を続けて きたVLBI(超長基線電波干渉計)は,微弱な宇宙電 波の追跡受信と相関処理,電離圏や対流圏内大気による 遅延誤差の補正,高安定原子発振器による時刻同期など, 正に電波計測技術の集大成です。これを用いて昭和58年 11月5日日米間で実験を行い,大平洋を越えた長大な基 線の精密測定に成功しました。このほか,降雨・降雪な どの大気現象,森林・農作物・鉱物などの資源探査また は監視,電磁環境を含む各種環境汚染の監視に,もっと 電波を活用すべきであって,そのための技術開発は当所 の使命です。当所に昭和54年から発足した衛星計測部を, 衛星に限らず広い意味での電波計測を追求する研究母体 として発展させてゆきたいと考えています。

 電波をエネルギーの運び屋として利用する壮大な構想 「太陽発電衛星計画」は,米国が宇宙基地計画を発表した 今,かなり現実味を帯びてきました。電波が大気を通過 する時の効果など,興味ある研究課題が沢山あります。  周波数資源の有効利用技術の研究は,郵政省にある電 波研究所としては,息の長い命題です。今まで進めてき たミリ波帯電波の研究を,より高い周波数帯に,更には 光領域にまで拡げると共に,すでに利用されている周波 数帯をもっと有効に利用するための研究を続ける必要が あります。

 研究にも年令があります。現在当所の中心的プロジェ クトとなっている項目は,ほぼ5〜6年前にスタートし たもので,いわば今が成熟期です。実りを収積している プロジェクトの後には,若木が育っていなければなりま せん。しかし最近の予算のマイナスシーリング方式は若 木を育てるどころか実の成っている大木も枯らしてしま います。本当に憂慮にたえません。

 さて紙面も尽きました。本ニュースをここまで育てて きた関係者の努力にあらためて感謝します。それと共に 所外の愛読者には今後とも変わらぬ御支援と御叱責を賜 りたくお願いいたします。所員一同,将来のより一層の 発展のため,電波研究所自体の大きな脱皮を成し遂げた いものと念願しています。


電波研究所ニュース100号記念に思う

平井 正一(NEC顧問)

 先日,電波研究所ニュース100号を記念して一文をと の注文を受けた。ニュース創刊号を手にしたのは忘れも しない電離層観測衛星(ISS)「うめ」が無事に打上が り、ほっと一息ついた51年4月1日のことであった。

 然し成功の喜びもほんの束の間で,その直後にうめは 電源系の故障で音信不通になるという思わぬ事態が発生 した。それからまた永い苦難の歴史が始まることになる が,それはさておいて,あれから既に8年の月日が流れ た。

 折々電波研究所の門をくぐるたびに,庭や建物が次第 に美しく近代化されてきているが,北側の林には武蔵野 の面影が残っており,当時のことがいろいろと思い出さ れてきてなつかしい。

 最近の電波研究所のニュースは,VLBIのプロジェ クトをトップにあげていると思う。原子振動を利用する 精密時刻の技術,コンピュータを駆使する相関解析,太 平洋を越える宇宙技術の応用等,いずれも近代の先端技術 の結晶であり,また電波研究所のお家芸の総合というべ きものである。近年の宇宙利用には国際協力が益々クロ ーズアップしてきているので,この点からも現時世によ くマッチしたビッグプロジェクトであり,国立研究機関 がとり組む最適のものと言えよう。これからの成果を大 きく期待するところである。

 つぎに,リモートセンシングの研究について,一言ふ れてみたい。リモートセンシングは,周知のとおり,電 磁波のふく射,伝搬,交信,データ解析等の一連の作業 を含んでいる。これらはすべて電波研究所の得意とする 本来の技術であり,これらを総合すろことにおいて電波 研究所の右に出る機関は考えられない。いち早くこの研 究に若手し,すでに幾多の研究成果が発表されているこ とを聞いており,大変に心強く嬉しく思っている。しか し,いまはこのリモートセンシングに供されている人工 衛星は数が少く,観測データは時間的にも量的にも限ら れているため,現状としてはまだ学術的研究の余地が多 々残されており,実用化にはまだまだというところであ る。見方をかえると,現段階は電波研究所が大いに活躍 すべき時機であろう。やがて,欧州のSPOT,日本の MOS-1及びERS-1等が登場することになってい るので,明後年頃から実用時代に入るようである。その 頃には,それまでの研究成果をユーザ機関に積極的に移 してゆくようにするのがよいように思われる。

 つぎは宇宙研究の分野を見ることとする。電離層観測 衛星ISSにはじまり放送衛星BS-2までの開発研究 の歴史はもう15年になる。ISSによって作られた電離 層のワールドマップは世界的に高い評価をうけており, CS-2はニューメディアの展開に大きな役割を演じ ていると聞き,関係者の一人として嬉しく思っている。 ところで,ISSの開発をはじめた当時のことがいろい ろと思い浮んでくる。果して人工衛星なるものがうまく できあがるだろうか。人工衛星の信頼性とはどういうこ となのだろうか。予算はどうなってゆくだろうか。打ち 上がったあと本当に役立つものになるだろうか。未知の 世界に挑む開拓の夢は大きいが,すすんでゆく未知の道 程の険しさには想像を越えるものがあった。しかし,い まとなってみると,このプロジェクトは電波研究所とし て時期的にも内容的にも大変ふさわしいものであり,ま さに先見の明というべきものであった。実現の可能性が 必ずしも明確でない開拓的な研究,そして非常に長年月 と高額な費用を必要とする基礎的な研究は民間企業等で は到底とり組むことができない性質のものであり,国立 の研究機関が行なう最も良い業務であると考えられる。

 ところで,このような基礎的研究が実ると,やがて実 用化へと発展してゆくことになる。基礎研究の実用化へ の移行には必ずしも明確な境があるわけではないが,実 用化段階の業務まで電波研究所が行うことには無理があ るだろう。研究者として,名残りおしいが,実用化の見 通しがつき次第,思い切って他の関連機関へ移してゆく のが賢明ではなかろうか。実用化段階に入ると,高額の 資金,適した人材,それらを運用する強い組織が必要と なるからで,これに適した機関が他に存在するからである。

 小生は電波研究所を出て宇宙開発事業団で約15年を過 ごし,この間にいろいろのことに出会った。すでに故人 になられた方々も少なくなく,心から御冥福を祈ってい る。なお,この間に,電波研究所の方々から種々の親切 な支援をうけ,大変に心強く有難いく思ったことが多い。 この折に心からの感謝の意を表す次第である。


電波研究所ニュース100号記念号に寄せて

元 技術調査課長

現電気通信局陸上課長 佐藤 進

 国民の電気通信サービスに対する多様化,高度化への 欲求,電子通信技術の進展,高度情報社会への移行,電 気通信事業の民営化と競争原理の導入,ニューメディア の登場,……。最近,我々が目にするこれらの言葉のい ずれをとってみても現在電気通信が大きく変化するプロ セスの中にあることを示している。

 総合的な電気通信政策を展開すべく本省の内部組織も 7月をもって整備された。

 こうした中にあって,電波研究所はどのような対応が 今後求められるのだろうか。

 これまでも電波研究所は郵政省の任務の一部である標 準電波の発射,短波の予警報の送信,無線設備の機器の 型式検定などの業務を通じ,また,宇宙通信や周波数資 源など本省の重要施策に対し積極的な支援体制を組むな ど本省と電波研とは極めて深い協力関係にあったといえ る。

 今後の電波研に対する期待の1つとして,このような 本省の施策につながる研究は一層重要性を帯びてくるこ とがあげられるのではなかろうか。というのは,電気通 信事業の民営化と新規事業者の参入に伴って,直接,間 接を問わず郵政省が自ら研究開発に関係することを要請 されることが大変多くなると予測されるからである。

 私の知識のないところを開陳する恥を忍んで記せば, この具体化としては,たとえば@新規参入により生ずる 各種のネットワーク間を結ぶ,いわゆるインターフェー ス技術に関する研究,A新しい電気通信応用システムに 関する研究,B電気通信情報資源を主体としたデータベ ースの構築,Cデータ通信に関する諸技術の研究,D郵 政省の事業部門の電気通信システムの高度化に伴うもの, E人工知能の応用など未来型電気通信システムに関する 基礎研究・などを挙げることができる。勿論こうしたこ との全てを電波研が担当するというのではなく,事業体 所属の研究所が担当するもの,民間企業自らが研究開発 する分野,郵政省からの民間調査機関への委託などによ り,行政サイドとして目的を達成できるものが数多くあ るとは思うが,このような新しい事態であるから研究の 性格上,国立試験研究機関たる電波研の担当するものも 当然でてくるものと思われる。

 この際,国立試験研究機関として一般的にある特徴を 当然考慮に入れるべきだろう。

 すなわち,国立試験研究機関は,予算や組織の面で機 動性,柔軟性に乏しいのはある程度やむを得ないことで あり,研究者の養成についても民間企業のように新規の 研究開発に取り組むのにあたって人材を他所からスカウ トしてくるという訳にもいかない。その代り,研究テー マの設定とか,進行スケジュールとかについては民間企 業とは異なり,いわゆる本社サイドに相当する行政サイ ドからの注文には比較的大きなバッファーがあり,かつ 自由な面があるのではないだろうが。

 こうしたことから,研究対象にもよるが,電波研には 短期的,集中的に成果をあげることはなじめず,3年と か,5年とかある程度長期を要する研究,なかんずく基 礎研究が適するのではないかと思うのだが,電気通信の 世界の情況変化が激しいために,折角長い間かけて研究 した成果が出た頃には,実際面で活用できないといった ことが起りうることには留意しなければならない。

 こうした新しい分野について,電波研が具体的に何を 担当するのかについては,単なる思いつきや個別的取組 みではなく,組織的に慎重に対応する必要があろう。こ れまで,宇宙通信や周波数資源で行われたような手法で オープンな場で決められた総合的な全体計画が設定され, 他機関を含めた役割分担の中で電波研の役割も明示され るというのが一つの方法であろうか。

 こうすることにより,研究所から見れば,本省からの 研究協力依頼事項が本省の施策のどこに位置し,どのよ うに活用されるのかを知ることとなり,研究の進め方も 機動的になるであろう。又同時に,本省の施策に対し研 究者の目からみた考え方も出てくることになり,行政側 からも大いに参考になるのではなかろうか。「電波研は, エンド・ユーザーではない。(従って,研究成果が具体的 に生かされるところまで責任を持たされない。)」という ことを耳にすることがあるが,電気通信の新しい分野は, このような問題点も解消する内容を含んでおり,又,大 いに将来発展する性質の分野かと思う。


創刊当時のよもやま話

埼玉大学工学部教授 羽倉 幸雄

 電波研究所ニュースも100号記念号を出版することに なったとは,創刊当時の編集発行担当者として感無量で ある。発刊の目的は第1号に湯原所長(当時)が述べて おられるように,研究所の研究計画や成果を分かり易く紹 介して,一般へのPR活動を強化することにあった。専 門分野の違う研究者の集合体である所員の連帯感を高め ること,特に遠隔の地にある地方観測所員に研究所の動 向を把握して頂くこともねらいの一つであった。

 ニュースの刊行は筆者が企画第一課長に任ぜられた時, 田尾企画部長と立てたいくつかの目標の一つであったが, 色々と事情があって本格的な準備に入ったのは1976年1 月頃だったと思う。新年度4月に第1号を出すことを目 標に,古浜,中津井の両主任研究官が頑張ってくれた。 気象研究所,無機材質研究所,金属材料研究所,計量研 究所,NASDAなどのニュースを参考にして,ニュー スのスタイル,発行部数,印刷,配布の方法などの検討 を行い,大体の構想が出来上ったのは3月上旬であった。 3月12日に第1回の編集会議を行ったが,出席者は田尾 部長,羽倉,高橋(達)両課長,上江田補佐,中島(一),中村 幸,中島政,中津井,古浜主任研,宮崎(謙)係長,北村主 任研,田島技官,乾係長,それに総務部から永井,三浦 補佐,調査部から井上主任研の16名だったと思う。

 第1号の記事として考えたのは,所長の発刊のことば, 51年度研究プロジェクト一覧表,電離層観測衛星ISS による観測開始,海中レーザスコープ野外実験,所内外 の研究発表,定期刊行物,所内行事,来訪,人事異動な どであった。しかしISSは原稿が間に合わないことが 分って,穴埋めに情報処理部の渡辺成昭君に「雷様の太 鼓と重水素ホイッスラー」という記事を書いてもらった。 彼の描いた漫画が何となくしかつめらしい創刊号に柔ら か味を与えてくれた。原稿を毎月集めることが大変なこ とが先ず分かった。その他思わぬ問題が色々と出て来て苦 労したが,何とか創刊号を大体予定通り出すことが出来 た。これは企画部の担当者の努力もさることながら,全 所的な理解と協力があったからだと今でも感謝している。

 担当者として一番気にしたのは「一たん発刊を開始し た以上,途中で絶対やめられない」ことであった。まず ニュース発行の業務体制の確立であるが,担当の第二企 画係は宮崎係長1人だけで手薄だったので,ニュース専 任者として星君に来てもらった。次に長期計画の立案で あるが,これは古浜,中津井君が作成してくれた。先日 古い書類を整理していたら,ニュース編集会議関係のフ ァイルが出て来て両君の字に再会して懐しかった。

 編集会議は第2回以後も毎月中旬に開催することとし, 私は第4回までを主幸した。第5回以後は大塩新課長に バトンタッチしたが,たしか第12回位迄はコンサルタン トとして出席させてもらった。

 ニュースの見出しについて言えば,第1号のは活字が 大き過ぎてスマートでないとの批判を頂いたので,第2 号から少し小さくした。第10号からは研究所本所の航空 写真が見出しに採用されてスマートになったが,あの写 真は確か私が企画第一課長時代セスナ機で撮影してもら ったもので、1号館の前庭にモグラの穴が見えるのが懐 しい。第85号からは鹿島の26mφパラボラなど毎号見出 し写真を変えるようになっている。テーマの選定,編集 方針もその時々の担当者の個性が出ていて面白い。しか し,いつも担当者は大変だろうなと思う。

 第100号記念号は私もOBの一人として見せてもらう ことになった。NASDA出向当時,筑波宇宙セン タに行く途中,同行の平井理事が貪るようにニュースを 読んでおられたのを思い出す。OBにとってニュースは 本当に懐しいものである。企画の担当者の諸君,御苦労 だけど,頑張って今後もますます良いニュースを届けて 下さい。期待しています。

(元電波部長)


電波研究ニュースを担当して

太田 弘毅

 本号で100号を迎えることができたのは大変嬉しいの ですが,ここで編集を担当する私が記事を書くことにな るとは思ってもいませんでした。貴重な紙面をいただき, 何を書こうか考えましたが,私達の編集の仕事を紹介す ることにします。

 電波研究所ニュースの編集スタッフは,企画部長,編 集長の一課長,課長補佐(2名),主任研究官(4名),係 長(3名)と筆者の総勢12名で,毎月企画,編集に頭を ひねっています。

 ニュースは職員と外部関係者を合わせて1,350部を配 布しており,毎月数多くの方々に御愛読いただいていま すので,大変責任を感じています。

 私が入所したのは54年4月。そして2か月の研修の後 配属された企画部第一課第二企画係は広報を担当する係 でした。ここでの初仕事が電波研究所ニュースの担当で, 経験も知識も無い私にとっては,試行錯誤の連続でした。 特に企画,編集,校正,印刷,配布という一貫した流れ 作業を滞ることなく進めるのはとても大変で,ある号を 校正中に次の号の原稿をまとめなければならない時は, どちらも遅らせることが出来ないので苦労します。しか もニュースは第二企画係の仕事の一部なので,他の仕事 が立て込んでくると,どうしても定常的なニュースなど にしわ寄せがいきますが,だからと言って遅らせること は出来ないので,いつもより短時間で処理することにな ります。そういう時は配布する度にちょっとした見落し が気になります。

 ニュースがお手元に届くまでにはいろいろな作業があ ります。まず企画をたてます。毎月の編集会議では,ど の研究がどれだけ進んでいるか,どういう記事ならニュ ースとなるか,執筆者がいるかなどを検討します。執筆 者は当所の研究者が主ですがニュース記事として依頼 したい内容は研究者が忙しい場合が少なくなく,その合 間を見て執筆していただかなければならないので,苦労 します。その上,執筆する方々にもいろいろなタイプの 方がいらっしゃいます。例えば締め切りをほとんど守ら ない人,依頼した原稿量を大幅に越える人,依頼した趣 旨と違う原稿を書いてくる人等様々です。この様な条件 を勘案して実際の締切の計算を行って,やっと編集の目 途が立ちます。

 そこで,次は編集ですが,これには割り付けというレ イアウトを決める作業があります。ところがこれがくせ もので,計算ミスはもとより,原稿の急な変更が生じて 2度3度と書き直すこともあります。特に幹部からの注 文,編集長からの指示,主任研究官からの訂正などは急 で,かつ重大な内容ばかりで,電話で訂正したり,訂正 内容が決まるまで作業を中断してもらったりしたことも ありました。ある時は,実験の結果待ちでスペースだけ を確保していると,急に実験が延期でボツになり,穴埋 めに四苦八苦したこともありました。

 原稿を業者に渡すと,校正作業へ移ります。印刷まで に2回行うのですが,これは活字の打ちミスや,多少の レイアウトの見直しなども短時間に行うものです。作業 のリズムが狂わない様,気を配ってはいるのですが,実 際は課長や主任研究官などの方々が忙しい合間に校正や 査読をしているので,半日一日と延びることもありま す。更にここで大きなミスが発見されると,今度は印刷 業者とも板ばさみになり,非常に困る訳です。

 そうこうして,やっと印刷が出来上り最終チェックを 行います。しかし,ここでもミスは発見されます。致命 的なミスは書込み訂正や正誤表を入れたりしますが,時 には刷り直しなどという事態もあります。

 100号を迎え,これまで60号ほどの発行を担当してきま したが,なかなか満足出来る号はありません。編集の苦 労もいろいろありますが,それが形になって残る仕事だ けにやりがいのあるものです。

 これまでの経験を生かし,今後ともよい電波研ニュー スを作っていきたいと思いますので,御支援,御叱責の ほどお願い致します。

(企画部 第一課 第二企画係)


客員として電波研に勤務して

東北工業大学長 虫明 康人

 電波研究所に,併任の非常勤郵政技官として私がお世 話になったのは,昭和45年4月から満14年間であった。 しかし,私がこの研究所について初めて知ったのは,そ れよりずっと以前のことで,宇田新太郎先生を通じてで ある。それは多分,電波研が発足して間もない頃であっ たように思われるが,宇田研究室出身の先輩である河野 哲夫氏が宇田先生を訪ねて来られた機会に,東北大学で 話された散乱伝搬に関する研究成果を,興味深く拝聴し た私は,このような研究を遂行している機関として電波 研を知ったのである。

 その後,昭和30年代の中頃,見通し外伝搬の研究のた めの大形方形パラボラアンテナを持つ実験所が,仙台市 郊外の国見峠に設置されたが,私は,建設中を含めて, 何回か見学に行ったように記憶している。私の専門とす る電波の分野で,大規模な新しい研究を活発に推進して いる様子を目の当たりに見せて頂き,電波研を一層身近 なものとして感ずるようになった。そして国分寺の研究 所の方にも何回か訪問し,見学や討論をした事を思い出 す。

 昭和44年宇宙開発事業団の発足に当たり,かなりの人 数の有力な方々が電波研から大挙して出向された。私は その穴埋めとして電波研のお手伝いをするようになった のである。そして私は歴代の衛星研究部長さんに順次お 世話になった。

 このようにして,1〜2ヶ月に1回位の頻度で衛星研 究部に通うことになったが,始めのうちはお手伝いどこ ろではなく,各種人工街星,特に我が国の衛星打上げ計 画や電波研の役割りなどに関する種々の話題や問題点な どについて,多くの専門家の方々から順次個人教授をし て頂いたというのが正直なところである。大学の研究室 に立てこもっていたのでは,ほとんど知り得なかった多 くの生きた情報を与えて頂き,大学で取り上げるべき, アンテナ関係の研究課題を幾つか見付けることができた。 この点,私自身大いに感謝しているが,電波研にとって も,その研究成果が多少でも参考になったのではなかろ うかと一方的に考え,気休めとしている。

 そのうちに,電波研内の所属を問わず,アンテナある いはアンテナに関係ある仕事をしていられる方々が,研 究遂行上生じた疑問点,あるいは問題点について,議論 に来て下さるようになった。この種の質問の中には,単 純で即答できるものもあったが,判断に苦しむようなも の,自分自身で或る程度数式の計算をして見ないと答え られないものなどがあった。若い頃には自信のあった計 算も,簡単にははかどらず,不本意ながら宿題にして持 ち帰った事がしばしばある。むかし読んだ覚えのある文 献を再調査しなければならない事もあった。しかしなが ら,この仕事は,大学における研究指導よりも幅が広く, 研究から教育の分野にまたがるものであって,質問が私 の虚を衝くような突飛なものであればある程,また,求 められた意見に答え難ければ答え難い程,仕事にやり甲 斐を感じ,電波研を大いに楽しんだものである。

 これらの中で心残りなものが一つある。それは,電離 層観測用アンテナの改善のための新型アンテナの開発研 究である。これは,東北大学との共同研究に近い形で者 実に進んで来たものであるが,努力が未だ実らないうち に私の停年退官の方が先にやって来たという形になって いる。今後も可能な限りのことはしたいものと,個人的 には考えている。

 つぎに電波研に対する期待を若干述べて見たい。この 研究所は,歴史的に見てその構成と流れは極めて複雑で ある。したがって,本研究所のあるべき姿については単 純に言い切れない悩みがある。

 しかしながら,この研究所が,現在,情報通信関係 の監督官庁である郵政省に所属していることは,こ の分野の目覚しい進歩の動向が周知のような状況にある ことなどを十分考慮して,研究を推進されることを期待 したい。その際,予算の面で公共企業体の研究所に比べ て自由度が少ないこと,人員の面でも公務員であるとい う制約があることなどを考えると,他の研究機関となる べく競合しない特徴のある課題を選ぶ必要があるように 思われる。

 また,日常業務的な仕事の分野でも,その手法とか設 備・機器などにお、いて.常に新たな進歩を求めて研究に 精励されるよう希望する。

 終りに昭和58年度限りで客員研究官を退任することに なったが,長らくお世話くださった電波研の皆様方に厚 く御礼中し上げると共に,研究所が今後益々発展される ことをお祈りしたい。

(元電波研究所客員研究官)


雑  感

池上 淳一

 電波研究所ニュースヘの投稿依頼を受けた後,漫然と 日を過ごしているうちに約束の日がきて,あわてて筆を 取らざるを得ない始末になってしまった。致し方なく, 漠然と感じていることを書き綴って責をふさぎたいと思 う。

 わが国は第二次大戦直後の荒廃した状態から世界第二 位の経済大国と言われるまでの繁栄を築き上げることが できた。これは,全国民の非常な努力に負うところが大 きいことは勿論であるが,明治政府の教育政策のお陰も あって,国民全体の教育水準が極めて高いこと,国民性 として一般に勤勉,従順であり,方針が与えられると一 致協力し,目的に向って努力する性格をもっていること なども大きく寄与しているように思われる。その結果, わが国の工業力はすさまじい勢いで成長し,世界の第一 人者をもって任じている米国に追い付き,さらには,追 い抜きそうな状況になり,このため,しばしば先進国と の間に経済摩擦を生ずるまでになった。経済摩擦自体は 不幸なことで,何としても回避しなければならないが, このようにわが国の工業力が発展したことは誠に喜ばし いことである。

 しかし,わが国の工業力の源泉になっている科学技術 は欧米先進諸国で生まれたものに工夫を加えて発展させ, 工業生産に適するようにしたものが大部分を占めており, 日本で生まれたものは数少ない。このため,日本人は模 倣は上手であるが,独創性に乏しいということをよく耳 にするが,日本人が本質的に独創的仕事に適していない とは私は思っていない。

 科学全般の動向として,19世紀から20世紀の前半にか けて科学的発見・発明が欧米先進国で盛んになされ,科 学が急速に進歩し,今日の科学の基礎が形成されたが, このような科学の成長期にわが国は,徳川時代の鎖国政 策の影響,地理的条件などから海外との交流が少なく, 立遅れたため,科学への寄与が少なかったのは致し方な いことであったと思う。また,戦後,わが国が国力をつ け国際舞台へ全面的に進出してきたこの数十年間は,世 界的傾向として,これまでに進歩した科学の成果の収積 期,すなわち,科学を利用して社会生活を豊かに,便利 にすることを追求する時代に入ってきているようである。 このような時期には科学からの収積を少しでも多くする よう努力するのは大変結構なことである。わが国はこの 競争には勝利者となれたわけである。日本人に独創性が 乏しいと言われるのは,わが国が国際的に活躍できるよ うになった時期が科学の収積期にあたっていることも一 つの原因ではないかと思われる。

 しかしながら,収穫にばかり力を入れていては,良い ところを取りすぎるとの外国からの批判を免れられない し,また,次世代の繁栄のための種子を蒔いておくこと も先進国の任務である。それには基礎研究に力を注ぐこ とが大切であると思う。従来から基礎研究の重要性は指 摘されながら,どうも余り大事にされてないように思わ れて仕方がない。基礎研究の推進は国立研究所とか大学 に期待する処が大きいと思うが,国立機関においても研 究責の配分に際して目的がはっきりし,短期間に成果が 期待でき,研究投資の回収能率のよい実用的色彩の濃い 研究題目に手厚くなる傾向があるようである。基礎研究 は投資の回収能率の悪いものではあるが,極めて重要な ものであるから,研究費交付にたずさわる人達が大切に すべき研究を見透せる能力を具えていることが極めて重 要であると思う。

 また,わが国では独創性を尊ぶ風潮が一般に薄いので はないかと思う。独創性を尊重し,それ相応の取扱われ 方がされる社会環境が作られないと独創性は育たないの ではなかろうか。基礎研究の成果を評価することは極め て難かしいことであるが,研究管理者は基礎研究の成果 を大所高所から正しく評価できる能力を具えるべく努力 することが大切なことと思う。

 なお,独創性が育たない原因として,わが国の学校教 育の詰め込み主義がよく挙げられるが,この他に,学校 制度自体が画一化され,学生全体の平均的レベルの向上 にのみ気を配り,個性的な人物とか,極めて能力の優れ た人物の育成への配慮が足らないことも独創性の乏しい 結果につながっているのではないかと思われる。臨教審 で教育制度が検討される除でもあり,このような点も改 革されることを期待している。

 苦しまぎれに,つまらぬことを書き綴る結果になった が,わが国は,経済力,工業力に相応しい,科学の進歩 への寄与をするようになることを心から願って筆をおく 次第である。

(元電波研究所客員研究官)


外国出張

GLOBECOM'83に参加して

 1983年11月28日から12月1日まで,米国カリフォルニ ア州サンディエゴで開催されたIEEE Global Telecommunications Conference(GLOBECOM'83)に参加 する機会を得た。GLOBECOMは電気通信に関する最大 規模の国際会議で年一回開催されている。今年は,48セ ッション350件の講演が,1500名の参加者を得て行われ た。筆者は各国の新しい陸上移動通信システムの集ま った“Mobile Radio Systems”のセッションで,スペ クトル拡散通信システムの室内実験に関する研究発表を 行った。陸上移動用として実際に装置を試作し,実験を 行った例としては世界的に初めてのもので,基表に対す る質問等から,日本での実用化に対して大きな関心が寄 せられていることがわかった。当所では,さらに性能の 良い車載用の装置の開発を終え,現在,野外実験を実施 中で,国際的にも貴重な研究成果が期待されている。

(通信機器部 通信系研究室 研究官 水野光彦)

通信衛星及びリモートセンシング 衛星に関する国際シンポジウム

 この会議はイタリア政府(ローマ大学主催)が金を出 して上記の分野のエキスパートを招き国内及び開発途 上国向けに1983年12月14日から16日まで開催された。講演 はリモートセンシング関係11件,通信放送関係9件で,す べで現状の紹介が主であった。特に興味を引いたのは JPLのGoetz教授による赤外線(1.2〜2.4μm帯)の地上 スペクトル放射を調べ鉱物資源の発見に利用しようとす る発表であった。筆者は日本の通信・放送衛星の利用に ついて現状と将来について話したが,主催者の方は一歩 先を行っている日本の放送街星に関する話を期待してい たようであった。会議の参加者は40〜50人と少なかった が,レセプションやパーティ,テクニカルツアーなどで イタリアの多くの技術者と十分な交流ができた。招待講 演のせいか秘書の心にくいばかりの世話を受け,短かった がローマを少しはエンジョイできたと思う。

(衛星通信部 第一衛星通信研究室長 乙津祐一)

日米VLBI実験のための米国出張

 日本は世界のVLBI網にまさに組み込まれようとし ている。昭和59年1月22日に鹿島と米国モハービ局で24 時問にわたり行われた第1回VLBIシステムレベル実験 はこれまで5か年間進めて来たシステム開発の最後の総 合テストとして位置づけられている。また,この実験は 夏に開始される予定の世界的なプレート運動,極運動・ 地球陣1転測定に向けて精度を確認するため行われた。本 出張(昭和59.1.19〜1.22)は今回の実験を確実に逐行す る為に設定された。その結果米国側の誤りによる約4% のデータ欠測以外順調で,既に相関検出にも成功してい る。筆者は米国で他の関連機関も訪問し,以下の打合せと 調査を行った。(1)VLBI可搬局,Block-T相関器 (JPL,カルテク),(2)データベース交換ルート,第2回シ ステムレベル実験打合せ(ゴダード宇宙飛行センタ), (3)VLBI時刻同期実験打合せ(米国海軍天文台)。

(鹿島支所 第三宇宙通信研究室 研究官 吉野泰造)

IEC/12F(移動無線)に出席して

 移動無線機器の性能測定法の国際標準を審議している 標記会議は,昭和59年1月23日より26日まで,ストック ホルムにて開催され,10ヵ国から21名(日本2名)が出 席した。

 作業部会並みに毎朝8時半から精力的に議論を進め,7 件の原案などを審議した。その結果,受信機入力信号レ ベルの規定方法など4件の合意が得られた。注目された データ受信機に関しては,日本を含め各国からの意見が 極めて多く,基本的な考え方についてかなりの進展があ ったが,審議は完了しなかった。

 この他,安全規格の特別作業部会の設置,インパルス 雑音に関する測定浅や報告の取り下げ,CISPR/D との協同問題などが審議,決定されたが,時間切れで7 件の議題が次回送りとなった。

(通信機器部 海洋通信研究室 研究官 久保田文人)