メーザー電波源サーベイ


高羽 浩

 秋の長雨も終わり、いよいよ短センチ波〜ミリ波 の観測シーズンに入りました。鹿島34m電波望遠 鏡では国立天文台野辺山で開発された音響光学型分光 計(AOS)を使って天体メーザー電波源のサーベイ を開始しています。ここでは天体メーザーの概略、鹿 島34m鏡のメーザー電波源観測システムを紹介し、 今後の観測から得られる成果について展望します。
 

天体メーザー
 宇宙空間は実験室では達成不可能な高真空です。 例えば我々の太陽系近傍の平均的なガス密度は1立 方センチあたり水素原子1個程度です。水素分子密 度が10^3個/p^3を越える領域は分子雲と呼ばれ、ガ ス同士の衝突によって様々なイオンや分子が生成さ れます。1960年代から始まった星間分子の電波分光 観測ではマイクロ波からミリ波・サブミリ波領域 で、数十種類のイオン・分子の量子化された回転・ 振動の状態変化に伴う吸収・輝線スペクトルが発見 されています。通常の輝線スペクトルは水素分子と の衝突で励起されたイオン・分子が自発的に下の準 位に落ちる時に電波を放出するもので、非常に微弱 なものです。しかし、強い赤外線にさらされた、水 素分子密度が10^5個/p^3を超えるようなコンパクト な高密度ガスや衝撃波の通過によって圧縮された高 密度ガスでは分子の特定の準位が選択的に励起さ れ、誘導放射によって一気に下の準位に落ちること でメーザー増幅された強い輝線が観測されます。 1966年のOHメーザーの発見から今日までにH2O、 CH3OH、SiO、NH3、HCNなどの分子でメーザー増 幅現象が発見されています。
 メーザーは分子によって異なる励起機構を持って いるので、様々なメーザーを観測することでメーザ ーを放射している領域の温度、密度、磁場、速度な どの物理量を調べることができます。主に赤色巨星 で観測される43GHz帯のSiOメーザーは、星の半 径の数倍以内の高温・高密度ガスが赤外線によって 励起されたものです。22GHz帯のH20メーザーは 衝撃波の通過などで圧縮された高密度ガスの中で、 ガス同士の衝突によって励起されると考えられて おり、星生成領域、赤色巨星、 活動銀河中心核で観測されま す。マイクロ波からミリ波帯で 多くの遷移が観測されるCH3OH メーザーは、大質量原始星から の紫外線によって電離されたガ スと高密度分子ガスの境界から 放射されており、赤外線や紫外 線によって励起された他の原子 ・分子輝線とのライン・オーバ ーラッピングによる励起機構が 考えられています。
 

メーザー電波源
 メーザーが観測されるような 低温のガスを伴う天体の全体 像は1983年に打ち上げられた赤 外線天文衛星IRAS(Infra-Red Astronomical Satellite)によって明らかになりまし た。IRASは12、25、60、100μmの4波長帯で全天 の96%をサーベイ観測し、250,000個の赤外線点源 を検出しています。観測された4つの波長帯の強度 比からその天体のタイプを限定することができま す。最も低温のスペクトルを持つ天体は銀河面に集 中し、生まれたばかりの原始星です。原始星は激し い質量放出現象を起こしており、超音速のガス流と 高密度ガスとの衝突が起きている場所でH2Oメー ザーが観測されます。一方、IRASで観測された低 温の天体の大部分は赤色巨星です。星は進化の末期 では中心に重い元素の核ができ、その周りで水素や ヘリウム燃焼が起きるようになると巨星へと進化し ます。地球軌道程度まで大きくなった赤色巨星では 動径方向の振動モードが発生し、周期的な脈動を起 こしながら表面のガスを放出します。放出されたガ スは加速されながら広がってゆき、星の半径の数倍 程度の極く近傍からはSiOとH2Oメーザーが、更 に外側からはOHメーザーが観測されます。
 

図1はIRASから選んだ、メーザーが観測される ような赤外線スペクトルを持つ赤色巨星の分布で す。星は銀河面近くで生成されますが、銀河回転に はいくらかの乱流運動があり、他の星や巨大分子雲 との遭遇による散乱を受けて、星の進化の末期であ る赤色巨星では銀河面から離れた分布をするように なります。


(図1)赤色巨星天体の銀河面分布

 

鹿島34m電波望遠鏡によるメーザー観測システム
 鹿島34m鏡では1.6GHz帯のOH、12GHz帯の CH3OH、22GHz帯のH2O、43GHz帯のSiOといった 主要な天体メーザー周波数帯の低雑音受信器を整備 してきました。鏡面精度が高いため、これらの周波 数帯では世界でも有数の性能を持っています。受信 した電波は45MHzから85MHzのIF帯に変換し、 音響光学型分光計(AOS:Acousto-Optical Spectrometer) によって周波数スペクトルを得ます。AOS はTeO2などの結晶に電場をかけることによって結 晶中に超音速の粗密波が発生する現象を利用し、こ れを光の回折格子として電波を分光する装置です。 IF信号を入力した結晶中には周波数成分に応じた 様々な進行波が発生し、これにレーザー光を印加す ると、回折光はフーリエ変換と同じ効果を受け、受 光部のフォトダイオード・アレイのチャンネル毎に 周波数成分が分光されます。積分は周波数毎に同時 に行うことができるため、ローカルスイープ型のス ペクトラム・アナライザーに比べて遥かに高い感度 を持っています。当所と国立天文台との共同研究に 基づき鹿島に設置されたAOS(表紙写真)は国立天 文台野辺山で試作されたもので、可視光半導体レー ザーを使った可搬型のものです。40MHzの帯域を 40kHzの周波数分解能で分光します。


(図2)22GHz帯H2Oメーザーのスペクトル例

 

図2は新検出のH2Oメーザー源のスペクトル例 です。縦軸はジャンスキー(Jy)という、電波天文 で通常用いられているスケールで、1Jy=1O^-26Wm^-2 Hz^-1です。横軸はドップラー速度で、速度の小さい 方がブルーシフトと定義されています。観測時の地 球の自転・公転、太陽系の固有運動などを計算して 太陽系近傍の局所静止系からその天体を観測した速 度に変換します。この天体はIRC/AFGL天体と呼 ばれる進化の進んだ赤色巨星で、ダブルピークは膨 脹する大気の存在を示しています。ブルーシフト成 分(左のピーク)は星の手前から、レッドシフト成 分(右のピーク)は反対側から放射されており、こ のスペクトルからメーザー放射領域は星の周りで シェル状に分布し、メーザーは星の半径方向にビー ミングされていることが示唆されます。レッドシフ ト成分の方が弱いのは、中心星によるブロッキング のためと解釈できます。
 アンテナ駆動、受信器制御、 AOSからのデータ取り込みは1台の ミニコンで集中して行っているた め、デッドタイムが全くない観測 システムになっています。自動観 測ソフトは天体リストの中から観 測可能な仰角の天体で観測回数が 少なく、現在のアンテナ位置から 最も短時間で切り替えることがで きる天体を選ぶもので、スケジュ ールを作らなくてもほぼ最高効率 で観測ができます。約400個の既 知H20オーザー源の観測は5日 程度で終了し、91年11月の観測で は約50個のH2Oメーザー源を新 検出しています。図1の赤外線天 体を中心に約3000天体のサーベイ を行う予定です。
 

今後期待される成果
 多くのメーザー電波源を観測することで天体のク ラス分けや進化過程の統計的な研究、特異天体の検 出やメーザーの励起機構の解明などを行うことがで きます。鹿島34m鏡のこれまでのH2Oメーザー源 観測からは、赤色巨星進化に伴う系統的なスペクト ルの変化が明らかになっています。観測データは電 波源カタログとしてまとめ、多くの研究者が利用で きるようにしたいと考えています。また当所では国 立天文台と共同で、鹿島34m鏡と野辺山45m鏡の 間でKNIFE(Kashima‐Nobeyama Interfer meter)と 呼ばれるVLBI実験を進めており、このサーベイの データから典型的な天体や特異天体を選びVLBIで 観測することによって、メーザー源の詳しい構造を 調べることやメーザーの励起機構の解明を行なうこ とができます。時間をおいた観測からは赤色巨星大 気の膨脹や脈動に伴う衝撃波の伝搬、原始星の超音 速ガス流と高密度ガスとの相互作用の様子を明らか にすること、メーザースポットの位置変化から天体 までの距離を測定することなど、様々な成果が期待 されています。

(関東支所宇宙電波応用研究室)


≪外国出張≫

タイの大学事情など

川村眞文

 1988年5月から3年間、 国際協力事業団(JICA)の 技術協力専門家として、タ イ王国バンコクのKMITL (King Mongkut's Institute of Technology Ladkrabang, モンクット王工科大学ラカ バン)に滞在した°KMITL は、1960年郵政省とNTT の協力により、電気通信訓 練センターとして設立さ れ、以来30年にわたる日本 の協カとともに単科大学を 経て、現在は教職員、学生 含わせて約65O0人の、5学 部(工学部、建築学部、農業技術学部、理学部、産 業教育学部)、大学院を有するタイでもトップクラ スの工科系の総合大学となっている。なかでも工学 部は留学生や、東南アジア各国の電気通信研修生を 受け入れるなど、周辺諸国に対し指導的立場を築き つつある。現在のKMITLに対する技術協カは、同 大学工学部の電気通信、放送、データ運信、機械工 学各分野の教育、研究活動を強化、拡充する目的で 1988年4月から5年間の予定で実施中で、郵政省、 NTT、NHK、東海大学から4人の長期専門家(通常任 期2年)が派遣され、技術指導を行うとともに、機 材の供与、研修員の日本への受け入れが行われてい る。KMITLは日本の国際協力の最も成功した事例と されており、郵政省等日本の関係者の訪問も多い。


▲KMITL・シリトン王女学術センタ(1972年に日本の無償援助により建設)

 

タイの大学事情等
 タイには、16の国立大学があるが、このうち2大 学は無試験で人学できるオープン大学である。学生 数は通常の大学.は約10万人、オープン大学約52万人 である。オープン大学は高等教育の機会を広めるた めに設立された大学で、無試験入学で授業への出席 は強制されないので、仕事を持っている学生も多 い。しかし卒業生は毎年3万人程度で、なかには7 〜8年かかって卒業する学生もいると聞いた。他に タイの私立大学が25大学あり、学生数は約5万人で あるから、オープン大学を除くと、大学生数は全体 で約35万人で1学年約9万人となる。人口統計によ ると、大学生年令当たりの人口はおおむね67万人で あるから、大学への就学率は約13%である。義務 教育が小学校(学制は日本と同じ6・3・3・4制) だけということと併せて、日本に比べると教育の整 備が非常に遅れている。
 1986年から5年計画の第6次国家開発計画の実施 で、タイの経済成長率は毎年1O%程度を維持して いる。急速な工業化政策の結果、技術者の不足が起 こっているが、関連してKMITL卒業生の平均初任 給を見ると、1985年に公務員は3500バーツ以下(1 バーツ=約5.5円)、1988年には4500バーツ程度であ る。これに対して、民間企業就職者は1985年約 5000バーツ、1988年で7000バーツ以上となってお り、民間就職者の初任給が3年間に急激に上昇する とともに、官民格差が拡大し、技術者への需要が高 くなっているのが分かる。タイ全体で国立大学工学 部の卒業者が毎年3000人程度であるなど、工業化に 向けて人材養成が追いつかず、また日本企業の洪水 のような進出が技術者不足を引き起こしているとも 言われている。1888年から1990年にかけては、日本 人(企業の派遣社員など)向けのアパート、住宅等 が極端に不足し、その後2年間に家賃が2倍以上に 値上がりするなど、長期滞在日本人の増加がめだっ た。
 タイの教員は私立学校をのぞき、全て国家公務員 であることから、技術者給与の官民格差の拡大の影 響は、KMITLに教員不足という深刻な問題と なって現れており、教員が民間会社の仕事や、 会社を経営したりし、日本での研修が終わった 後に民間企業に転職したりする教員もいた。ま た日本等に留学した後は、通常その3倍の期間 は公務員であることが義務づけられているが、 日本で博士号を取った教員を、企業が負担金を 払って引き抜いたという話も聞いた。物価も 上昇し、現在のタイには高度経済成長に伴う歪 が様々な型で現れてきていると言えよう。


KMITL組織図(1990年)
()内は学生数を示す

 

バンコクの正式名称
 バンコクは、1782年に現王朝の創始者ラーマ 一世(現在はラーマ九世)が、チャオプラヤー 河(メナム河と呼ばれるが間違いで、メナムは河 の意味である)の対岸から遷都して以来、タイ の首都になっている。一般にタイ人以外は、タ イの首都を「バンコク」と呼んでいるが、これ は外国人がつけた名前で、タイ人は「クルンテ ープ」または「クルンテープ・マハナコーン」 (天人の都)と呼んでいる。しかし、これもタ イ語の韻を踏んだ長い詩文の冒頭部分で、全体 は以下に示すものである。
   「天人の都」
 天人の都、偉大なる都城、
 帝釈天の不壊の宝玉、
 帝釈天の戦争なき平和な、
 偉大にして最高の土地、
 九種の宝石の如き心楽しき王都。
 数々の大王宮に富み、
 神が権化して(国王のこと)住みたもう、
 帝釈天が建築神ビシュヌカルマをして
             造り終えられし。
 なお1989年暮れには、この詩を歌詞にした調子の 良い歌がはやり、クルンテープの街角で、屋台のカ セットテープ売りがボリュームを上げて流してい た。現在のクルンテープは600万の人々が住む騒音 と、車の渋滞と排気ガスの都である。

(情報管理部電子計算機室長)


≪外国出張≫

ドイツに滞在して

都竹 愛一郎

 科学技術庁長期在外研究員として、平成2年10月 から1年間、ドイツ郵電省の通信技術研究所に滞在 した。研究所は、フランクフルトの南約30qのダ ルムシュタットという町にあり、職員数約300人で 通信に関係した研究を行っている。
 私は、画像通信研究室に所属し、画像の符号化に 関する研究を行った。放送や通信の研究は、現在、 アナログからディジタルへ単機能から高機能へ、そ してより使いやすく、がテーマである。放送に関し ては、従来のアナログ放送からディジタル放送へ、 EDTVからHDTVへ、平面画像から立体画像へと研 究が進められている。この中で、私の行った研究 は、将来のディジタルテレビジョン放送に向けて、 ニューラルネットワークを用いて画像の高能率符号 化を行うというものである。
 研究室は、室長以下17名(筆者と卒業研究の学生 を入れて19名)で所内で一番大きな研究室であり、 その中で9名が博士号をもっていた。各人がそれぞ れテーマをもって研究しており、各研究者には個室 が与えられている。研究者間のコミュニケーショ ンは、もっぱら9時と3時のお茶の時間であるが、彼 らは非常に話好きで、話の種が尽きないのが不思議 なくらい毎日良く喋っていた。


▲ドイツ郵電省通信技術研究所

 筆者の所属していた研究所では、朝8時から夕方 4時15分までが勤務時間になっているがフレックス タイムのため、月曜から木曜日までは少し長く働い て、その分、金曜日に早く帰って週末をエンジョイ しているようである。年間の仕事時間で比較する と、日本の2100時間に対し、ドイツは約1600時間、 ヨーロッパでも1・2を争う短さである。これほど 仕事時間が短いのに、ヨーロッパの指導的立場にあ るドイツの力はどこからくるのか不思議である。
 この点について、ひとつ気の付いたことがあるの で挙げておきたい。それは、英米が「ノー」の文化 であるのに対し、日本とドイツは「はい」の文化で あるという事である。「発生頻度の高い事象を短い記 号で符号化すると、効率の良い符号化ができる」と いう符号化定理から、逆に「長い言葉より短い言葉 の方が良く使われている」と考えることができる。 そこで、英・日・独で肯定を表す「はい」と、否定 を表す「いいえ」の言葉の長さを比較してみる。英 語では「イエス」の3文字に大して「ノー」は2文 字であるから、「ノー」の方が良く使われる「ノー」 の文化。これに対し、日本語では「はい」は2文 字、「いいえ」は3文字、また、ドイツ語も「ヤー」 の2文字に対し「ナイン」は3文字である。つま り、日本とドイツは「はい」の方が「いいえ」より も短く良く使われている「はい」の文化であり、物 事がよりスムーズに運ぶと考えることができる。
 統一後のドイツは、旧東ドイツの経済的な混乱の ため、物価、家賃の上昇や新しい税金の導入など悪 い面ばかりが報道されているが、ドイツ人の勤勉さ と「ヤー」の文化によってこれらを乗り越え、市場 統合後のECの中で大活躍するものと思われる。
 最後に、貴重な経験の機会を与えて下さった関係 各位に感謝いたします。

(総合通信部放送技術研究室主任研究官)



ブルガリア科学アカデミー、ニコライ・ラザロフ博士
通信総合研究所滞在記

藤田正晴

 ブルガリア科学アカデミーのニコライ・ラザロフ 博士は科学技術庁フェローとして、平成3年2月4 日に来日し、15ヵ月間の予定で通信技術部通信装置 研究室に滞在中である。同博士はアレイアンテナの 専門家であり、当室のプロジェクトの内、成層圏無 線中継システム用のマイクロ波送電アレイの設計を 担当している。彼は語学に堪能で母国語のブルガリ ア語に加えて、ロシア語、フランス語、英語を操るほ か、日本語も勉強しており、かなりの会話力を有す るに至っている。また日本の生活への順応もすばや く、おりおりに研究室のメンバーと訪れる居酒屋で の会合も十分に楽しんでいる模様である。また所の 内外に多数の知人、友人を得ており、今後の友好関 係や協力関係の発展に大いに役立つものと確信して いる。最後に、同博士の滞在や見学に当たりご協力 いただいた所内外の皆様に厚くお礼申し上げます。

(通信技術部 通信装置研究室長)


THE FlRST STEP TO WARD FRIENDSHIP
N.L.Lazarov‐STA‐Fellow,Antenna Technology
Section

 I came in CRL as STA‐Fellow in February 1991 from the Space Research Institute of Burgarian Academy of Sciences (SRI-BAS). Leaving my native city of Sofia, I felt really happy to have the possibility, to visit Japan well known in my country, not only for it's considerable technological and scientific achievements, but also for the old culture, traditions and, of course, for it's very hard working and polite people. In the same time, I worried a little bit because of the differences in the lifestyle and difficulties with Japanese language. I was afraid not to be able to find easily mutual understanding the most important step toward the friendshlp.
 But all these anxieties vanished from the first days of my stay in Tokyo. My colleague Mr. Y. Fujino had already solved many problems, related wlth my dwelling and working place. Less than a week after his warm welcome at Narita Airport I was able to move into the apartment, which I choose between several alternatives.
 The people in Antenna Technology Section accepted me as an old friend. With my host researcher the Chief of Section Dr. Masaharu Fujita we adjusted the plan of my research in Japan. I had a chance to be involved in the project, dedicated to the energy transmission through microwave line and to apply my experience in antenna arrays design, obtained during my Ph. D. stage in Moscow University of Telecommunications. I was able to visit all sections of Communication Technology Division.
 Besides my activities in the Headquarter of CRL, using the budget, provided by JISTEC, I visited Kashima, Hiraiso and Kansai Research Centers, ISAS, ATR, MU-radar site of Kyoto University and some other labora tories, exhibitions and meetings.
 Soon I started to study Japanese language and I realized, that Japanese lifestyle is not so different from European one. My“Welcome Party”, introduced me in the atmosphere of real friendship in my new collective.
 During the holidays I try to enjoy as much as possible the old Japanese culture, traditions, nature. I'll never forget the visits in Kamakura, Hakome and other places, arranged with the help of another young colleague Mr. K. Iigusa.
 I think, that my Fellowship in CRL is only a first step toward the friendship and cooperation between CRL and SRI-BAS. I hope, that soon some of my young colleagues from SRI wlll also have a chance to be accepted in CRL as STA Fellows. Perhaps, it will be possible to start some joint projects, particularly in Remote Sensing and VLBI experiments.
 Now, when my one year term is almost ended, I have one difficult question to answer:“How to make STA Fellowship program in CRL better?”. And only my answer may be:“Hontoni Domo Arigato Gozaimashita !”


≪随筆≫

時の過ぎゆくままに

斎藤 一

 原題「As Time Goes By」、映画「カサブラカ」で 一躍有名になり、ジャズのスタンダード・ナンバー になったラブソングで「人生における真実と愛は変 わることはない。月の光りも恋の唄も……」と歌わ れる曲であるが、私は曲もさることながらこの曲名 が大好きである。ことに昔のことに思いをはせてい る時の気分を言い得て妙である。
 ところで、私の私生活での思い出には、必ず音楽 がまとわりついている。
 LPレコードがまだ珍しかった昭和27〜8年頃、 厚生経費でLPプレーヤーとLP数枚を買ってもら い、講堂のアンプに接続してレコード・コンサート をやったこともあった。当時LPレコードが一枚 2300円、私の給料が約4500円、昼飯でも抜かなけれ ばとても買える代物ではなかった。TVなどない時 代、冬の雨の日の昼休み、石炭を燃やすダルマストー ブで暖をとりながらのコンサートであった。ちな みに、当時の若手は先輩の御出勤前に石炭運びとス トーブの火起こし、退庁前の燃え殻の始末が大切な 役目であった。
 レコードが買えなかったせいばかりでもないが、 どうしても自分で楽器を弾きたくなり、一番安い楽 器ウクレレを買い、昼休み、非常階段の踊り場で練 習に励んでいた。昭和29年頃だったろうか、電波の 日の行事として職員と家族が日比谷公会堂に集ま り、NHKの公開録音番組(多分「二十の扉」だった と思うが)を楽しんだ後、在京職場対抗音楽会が開 催されることになり、研究所でもいくつかのグルー プがでなければならなくなった。そこで有志が集 まって、にわかグループを作り、電波にちなんで 「ウエーブエコーズ」などと、もっともらしい名前 をつけて出演した。「NHKのど自慢」の審査員が来 て審査していたが、何故か入賞してしまったのだ。 そこで気を良くして、部外の友人も入れて結成した のが「小室英雄とリオ・アイランダース」であり、 30年を経た今でも、若干のメンバーの出入りはあっ たが健在である。
 結成後、語るも涙の努力の甲斐あって、ハワイア ンはもとより、ジャズ、ラテンから演歌にいたる迄 レパートリ(勿論、暗譜の)は100曲を超え、白い ズボンに白い靴、揃いのアロハシャツに赤いレイ、 という出立ちで、充実した演奏活動を続けていた。 この辺の話はさておき、研究所と切っても切れない 係わりは、20年は続いたであろうか、毎年のクリス マスパーティへの出演であった。
 木造庁舎時代のパーティでは、ロングドレスやカ クテルドレスにお召し替えされた女性職員の方々が 華やいだ雰囲気を醸し出しておられたのが、今でも 印象に残っている。二号館の講堂で開催されるよう になってからは、若手職員の雰囲気作りと相まっ て、ステージとフロアが一体となって楽しんだもの である。皆さんがノリにノッテいるのを見て、アッ プテンポの曲を10分近く演奏してクタクタにしてし まったり、ときには、楽しい雰囲気を中断するのが 忍びなく、1時間以上のステージをこなし、こちら がクタクタになったこともあった。
 クロージングの「アロハオエ」から「聖しこの 夜」のメドレー、ミラーボールの淡い光のフロアー でラストダンスを楽しまれたカップルの中には、愛 の言葉を囁かれ、めでたく結ばれた方もあったので はないだろうか。私の演奏活動の中で、いつ迄も思 い出に残るシーンである。
 ジャズの道を志している愚息が、バイトをしなが ら著名なギタリストに師事している。先日私達のバ ンドに加わり、私のボーカルの伴奏をしてくれた。 時折、成人した息子と酒を酌み交わす幸せを語る父 親がいるが、下戸の私にも、その幸せな気分が体験 できた一時であった。楽しきかな我が音楽人生。


短 信



平井正一氏叙勲

 当所元衛星研究開発部長平井正一氏は、宇宙開発関 係功労者として、勲三等瑞宝章を受賞された。
 同氏は海軍技術大尉を経て昭和25年電波庁人庁以来、 この間電波研究所第一部対流圏課伝ばん係長、第二電波 課第一伝ばん係長、第二電波課長、第五特別研究室長、 衛星研究開発部長を歴任し、超短波及びマイクロ波電波 伝搬の研究に携わり、当時まだ未開拓の分野であった山 岳回折波及び対流圏散乱波の伝搬機構を解明し、マイク ロ波見通し外通信を実用化に導くとともに、電離層観測 衛星及び実験用通信衛星の研究開発を指導する等、宇宙 通信分野において指導的役割を果した。
 昭和44年に我が国の宇宙開発の中核的実施機関として 宇宙開発事業団が設立された際、人工衛星部衛星システ ムグループ総括開発部員に任ぜられて、以来、参事、理 事の要職に在り、技術試験衛星「きく」、電離層観測衛 星「うめ」、気象衛星「ひまわり」、実験用中容量静止通 信衛星「さくら」、実験用中型放送衛星「ゆり」等の開 発を指導された。
 また、宇宙開発委員会専門委員、電波技術審議会専門 委員及び電波技術審議会委員として我が国の宇宙開発行 政及び電波行政に果たした功績は大きく、当所としても 誠に欣快とするところであります。
 これからも、益々お元気にご活躍下さるようお祈り致 します。



第20回電波研親ぼく会盛大に


 電波研親ぼく会は、さる10月19日に第20回総会を当所 において開催し、OB、現役170名余が参加し、盛大に行 われた。
 総会では春野会長から直研連を中心とする対外的な活 動や関東及び関西支所の組織整備状況、秋田電波観測所 の閉鎖等についての経過報告が行われた。
 また、今回が20回の記念総会ということから、親ぼく 会の設立当時のいきさつや苦労話が村主幹事から紹介さ れ、参加者それぞれ20年前の思い出がよみがえってきた ということであった。
 総会終了後には、恒例の懇親会が催されたが、これま で20回の親ぼく会に皆勤出席の河野、田尾両元所長、今 野清恒さんを初め、18回以上参加の精勤者7名にCRL のロゴマークが彫り込まれたお祝いの記念文鎮が贈呈さ れた。精勤者の中には上田元所長、菅野菊雄さん、上杉 弥兵衛さんたちの元気な顔ぶれが含まれていたことは言 うまでもない。
 この文鎮は大変好評で、今後の精勤者にもプレゼント して欲しいとの要望が出され、幹事会で検討することと なった。
 懇親会では3人、5人とグループができ、思い出話や 現在の仕事の状況、健康法等、楽しい談笑が夜遅くまで 繰り広げられた。



CISPRベルリン会議について


 10月15日から24日にかけて、国際無線障害特別委員会 (CISPR)がドイツ国ベルリン市で開かれた。会議には、 日本からの代表者約20名を始め、21ヶ国および関係4機 関の代表委員156名が参加した。今回は、製品毎の妨害 波の許容値や測定法の規格作成を行っている小委員会の ほかに総会も開かれた。総会では、妨害波に関する統一 CISPR規格が提案されていたが、各国の合意が得られず 次期総会まで決定が延期された。しかし、既存の製品別 規格のどれを適用すべきかはっきりしない新しいタイプ の製品に対する妨害波の許容値を作ることが合意され、 来年から本格的な検討に入ることになった。
 当所は、妨害波の測定法一般に関する小委員会に関与 している。そこでは、@妨害波測定用オープンテストサ イトの適合性の評価方法、Aオープンテストサイトの代 替測定場として電波暗室を使う際の補正係数、B人工物 による電磁環境等が主に議論された。当所からもこれら について寄与文書を提出し活発な討論が行われた。