関西支所の「長い一日」


阿部 真

 3連休が明け正月気分もこれまでと思いつつ、台所 で朝食の後片付けをしている時、ヒザがガクンと折 れたようになり足許が揺れる。地震、すぐ収まるか と思ったが、横揺れが続く。洗い物の湯を出し放し で、居間の石油ストーブを消しに走る。TVでも地震 のテロップが流れる。幸いに物の少ない単身生活、 棚のコップが落ちた程度で済んだ。東京で暮らす家 族に電話「すごい地震だ。お父さんは大丈夫、これ から出勤する」と伝え、電車が止まるのを予想し、 姫路市に住むS係長に車で迎えに来てくれるよう電話。 淡路が震源、淡路を望む岩岡にある職場はどうなっ ているか、神戸の震度が出ない、気をもみつつ迎え を待つ。JRの踏切が壊れ迂回してきた車で神戸に向 かう、通常1時間位だが途中加吉川をわたる橋で大渋 滞、車中到着した後の段取りを考える。
 9時過ぎようやく到着、自分の机の上の物が落ち、 空気清浄機などもひっくり返っている。早く出勤し 所内を一回りしていた管理課職員から「建物は大丈 夫のよう、棚や機器が倒れている」と報告を受ける。 今日は火曜日なので朝は部長会議、皆心配している だろうから全議前にとりあえず第一報をFAXで入れ る。午後KARCで、阪大や神戸大、ATRの人達と予 定していた会合の中止連絡の手配をする。自分の目 で被害確認の為、課員と所内一巡、思ったより被害 は少なそうだ。地震直後停電したがすぐ復旧、ガス はプロパンなので安全確認をすれば使える。水は止 まっているが受水槽に13t入っているのですぐには困 らない。管理課は全員が出勤してきた。家が大変で 出勤できないといった電話が入りはじめる、各研究 室毎に職員の安否確認を指示、近所に住む食堂の賄 いの人からも出勤できないとの連絡。管理課の職員 が買い出しに走る。昼食は皆でカップラーメン。か けたままのTVが神戸の惨状を徐々に流しはじめる。 この時点では、死者が千人を超すとは思わなかった。 電話は殆どつながらないが、散発的に問い合わせの 電話も入ってくる、遠くはドイツ、南極。給与支給 日だが、日銀明石代理店が営業できない、現金支給 ができない。給与を定日に払えないというのは前代 未聞、手続き方法も良く分からない。一日があわた だしく過ぎてゆくが、2名については安否が確認でき ない。夜になりTVでは長田区、須磨区の猛火をへり からの中継が伝える、連絡のないO君の実家は須磨 区。TV、電気をつけたまま職場のソファーで横にな る。


▲写真 岩岡宿舎東側に建設中の被災者仮設住宅

 余震の続いた夜が明ける。O君が出てきた。実家 に泊まっていたが、危機一髪助け出されるも家は全焼 とのこと。喜んでいいのか、複雑な心境。お母さん はとりあえず寮に避難。ゲストルームにも避難者を 受け入れられるよう準備、何人出勤してもいいよう に、食堂は炊き出し体制。各室の被害状況、宿舎の 被害をまとめる。行方の分からなかったSTAフェロ ーのTさん、大阪の友人宅から連絡、無事とのこと。
 本所との専用回線の復旧、また中断、すいている 給水場所、近くの銭湯、と皆の耳に入れたい情報が 集まるが、通常の連絡では追いつかない、同報FAX を使用しての「じしんニュース」を思いつく。19日 から7日間で16号まで発行。大阪から80kmを自転車 で帰還したT。被災地でのボランティア活動、全国 からのお見舞い。地震直後の興奮が収まり、住居や 交通網が完全に回復するのはいつのことになるのか 不安は尽きぬが、復興に向けた活動が開始されてい る。

(関西支所 管理課長)




ボランティア奮闘記


山崎達也

 神戸市長田区では、阪神大震災で避難所暮らしを している人が住民の約1/3と、市内で最も高い比率と なっており、その数、約70ヶ所に4万6千人という。 一部に食糧は足りているという報道もあるが、長田 区では1日1食分の食糧の確保に窮々といった状態で あった。
 1月26日午後8時40分頃、阿部、渡辺、山崎(達) の3名でデリカに乗って石油会社の蓄積倉庫の一角に 急拠設けられた長田区災害対策本部物資配送センタ ーヘ向かった。国道2号線を使ったが途中目立った渋 滞なし、というか須磨付近では前後に車の姿が見え ないくらいだった。約1時間で目的地に到着した。区 役所から来ている担当者に挨拶を終えた後、早速、 軽トラックヘの物資の積み込みにかかる。おにぎり、 缶ジュース、煮豆の缶詰が入った段ボール箱を積み 込んだのだが、一箱はさほど重くなく、自分が待て るだけ積み込めば良かった。箱の種類・数量を管理 する人がついていて、その人の指示に従い作業を行 った。
 昼間は約80名のボランティアが訪れ、約20台の車 で配送しているという。夜になると人手が減る。食 糧を積み込んだ後、我々も目的地に向かった。目的 地の小学校では、ボランティアの指示に従い荷物を 指定場所に下ろし、すぐに帰路へつく。センターヘ 戻ると息つく間もなく、次の避難所への配送のため の積み込みが我々を待っていた。今度は弁当、パン、 りんごなど。積み込んだ箱は山のようになるが、う まく紐かけをしてそのまま運搬する。この日の運搬 作業は以上で終了。
 ある避難所から「ご飯類」の食事を欲しいと電話 が入る。担当者は事情を説明しているが埒があかな い。そのうちセンターまで直談判にやって来た。担 当者の必死の説得にようやく納得し、戻って行った。 その後、さらに翌日の配布指示書の作成が残ってい る。配布指示書の作成も、パンには牛乳かジュース 類を付けて、とか限られた品目の中で苦しいメニュ ー作りが続く。我々もその間、物資の在庫確認のた めの表作りを行う。我々の作業が終わったのは12時 半頃。区役所の職員達はまだ明日、明後日の食料の 確保に奮闘されていたが、「ボランティアは寝て下さ い。」のお言葉に甘え、床に薄い布団を敷き、毛布を 被って横になる。寝袋等を持参したが、不要だった。 我々が寝転んだ後も明日の食糧確保のため、あちこ ちへ電話をかける声が聞こえる。「九州大分の宇佐か らカップラーメントラック1台分が送られてくる。」 「来週1週間倉敷からおにぎりが1万個来る。それまで 土、日をどうしのぐか。」担当者のあえぎが聞こえる。


▲写真 被災者支援に動く関西支所職員

 朝5時半、電話のやりとりで目が覚める。どうやら 大型トラック3台に積まれたミネラルウォータが到着 するらしい。自衛隊の人と倉庫への搬入を手伝って いたが、そのうちフォークリフトの出動があり、全 てを自衛隊に任せ、待機所にすごすごと戻る。
 救援物資の中からおにぎり、弁当をお裾分けして もらい、朝食を頂いた。おにぎりのご飯は固かった が、労働の後でしかも全国から寄せられた善意の食 べ物を項いていると思うと、コンビ二のものとは一 味も二味も違うように感じられた。7時を過ぎると昼 間のボランティアの人たちも集まってきたので、彼 らとバトンタッチをし、センターを後にした。

(関西支所 知覚機構研究室)