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僅かなエネルギーでバリアを消失させる生物メカニズムを発見 -分子通信の実現に向けて- 上席研究員 原口 徳子

細胞は優れた天然の分子通信システム

細胞は、自律的に運営されている都市のようなものです。都市機能を担っているのは、その発達した物流や情報通信です。細胞内でも、都市と同様、物流や情報通信のネットワークが発達しており、様々な物資や情報が飛び交っています。実際の都市では、物流を担っているのは自動車や電車などの乗り物であり、通信は電波や電気などのシグナルを使って行いますが、細胞が物流や情報通信のために使っている媒体は、タンパク質や核酸、脂質などの分子です。これらの分子を使って物質を輸送したり情報を通信したりすることによって、細胞は自律的に壊れた箇所を修復したり、自律的に複製しながら、環境に適応して生存していきます。このような意味で、細胞は優れた分子通信システムであり、パワーフリーで動くインテリジェントな通信システムということができます。

細胞核への分子輸送の制御

細胞では、遺伝情報を担うDNAは、細胞核と呼ばれるコンパートメント内に詰めこまれています。細胞内外からの様々なシグナルは細胞核に輸送され、DNAの情報を複製したり転写したりするのに使われるのです。それでは、細胞核への物質輸送はどのようにして行われるのでしょうか。細胞核を被う核膜と呼ばれる特殊な二重膜構造に、直径が約40ナノメートルの穴状の構造が存在します(図1)。細胞核への物質の輸送は全て、この穴を通して行われます。核膜孔複合体と呼ばれるこの穴状の構造は、細胞核への情報分子の輸送を制限するバリアとして働き、分子量が約60キロダルトン(球状タンパク質で直径約5ナノメートル)を越えるタンパク質は、この穴を自由に通過することはできません。通過するためには、トラックの役割を果たすインポーティンβやエクスポーティンと呼ばれるタンパク質と直接あるいは間接的に結合することが必要です。インポーティンβと結合するタンパク質は細胞質から細胞核へ運搬され、エクスポーティンと結合するものは細胞核から細胞質へ運搬されます。この運搬の方向を決めているのが、Ranと呼ばれるヌクレオチド(この場合はGTP)結合性のタンパク質です。核内にはGTPと結合しているRanが多く存在するのに対し、細胞質にはGDPと結合しているものが多く存在します。GTPとGDPの化学的な違いは、わずかリン酸基1個分でしかありません。しかしこの違いが、細胞核であるか、細胞質であるかを決定しているのです。核膜という構造的な隔壁の内外に存在するこの違いによって、細胞核と細胞質は明確に区別され、特定の分子のみを核内に正確に運ぶことができるのです。

図1●核膜孔複合体核膜(シート状の部分)に存在する穴状の構造。特定の物質のみを選択的に通過させる機能を持つ。物質が通過するチャンネルは、スパゲッティのようにぐにゃぐにゃした形をしたタンパク質(赤と黄色)が存在し、疎水性のゲルを構成していると考えられている。

核膜の透過性を変える仕組みの発見

図2●細胞分裂での核膜崩壊と“バーチャル核膜崩壊”A. 細胞の概念図。中央は細胞核、細胞核の周辺は核膜、核膜にあるギャップは核膜孔、核以外は細胞質。 B. 核膜孔周辺部の拡大。中央の構造は核膜孔複合体、二重線は核膜、黄色の丸は、核に移動する物質を示す。 C. 高等動植物で見られる細胞分裂期の核膜崩壊。核膜・核膜孔ともに一時的に消失することによって、核内外の物質が混ざり合う。赤線は核膜崩壊でバラバラになった核膜、青丸はRanGAP1、小さい丸や線はバラバラになった核膜孔複合体。 D. 分裂酵母で見つかったバーチャル核膜崩壊。核膜孔複合体の構造も保ったまま、選択的物質輸送機能が停止し、核内外の物質移動が自由になり、混ざり合う。RanGAP1は、通常細胞質に存在するが、核内に移行する。 細胞核と細胞質は、核膜で明確に仕切られています。しかし、高等動植物の細胞の場合には、細胞分裂する際に、核膜は崩壊し、染色体が2つに分かれた後に、染色体の周辺に再形成されます。この間、核と細胞質の仕切りがなくなるので両者の成分は混じり合います。それに対して、酵母など比較的下等な生物では、細胞分裂の際でも、核膜・核膜孔複合体の構造は維持されます。そのため、このような生物では、核膜のバリアとしての働きは、細胞が分裂する場合でも全く変化しないものと考えられていました。ところが、酵母の一種である分裂酵母を用いた我々の研究から、驚くべき事実が分かりました。減数分裂*1の特殊な時期には、核膜や核膜孔複合体が構造を保っているにもかかわらず、選択的物質輸送機能が停止して、核内外の物質があたかも核膜が消失したかのように移動し混ざり合うことを発見したのです(図2)。物理的な核膜崩壊が起こっていないので、我々は、この現象を“バーチャルな核膜崩壊”と名付けました(文献1)。この現象は、RanGAP1*2と呼ばれるタンパク質が核内に移動することによって起こることも分かりました。たった1種類の分子が核に入るだけで、核膜崩壊というエネルギーを消費する方法をとらなくても、それと同様の効果が得られるのです。減数分裂は、栄養が枯渇したときに起こる分裂様式なので、エネルギーがたくさん必要な方法は合理的とは言えません。その意味で、RanGAP1の移動だけで“核膜崩壊”を起こすというのは、本当に賢いやり方ということができます。

分子通信技術へ

今回の発見は、細胞が生存の危機に瀕したとき(栄養枯渇)に、エネルギーコストの大きな方法に代えて、省エネ型の方法を自律的に採用することを示しており、生命の柔軟な情報処理機構の一端を明らかにしたものと言えます。たった1種類のタンパク質分子を、壁の向こう側に送り込むことによって、その壁のもつ物理的なバリア効果を無効にすることができるのです。この知見は、分子通信が、わずかな入力で大きな出力を生み出し得ることを示しており、分子を利用した通信技術開発への応用に役立つ知見ということができます。

文献

  • 1) Asakawa H, Kojidani T, Mori C, Osakada H, Sato M, Ding DQ,Hiraoka Y, Haraguchi T, Virtual breakdown of the nuclear envelopein fission yeast meiosis. Curr. Biol. 20, 1919-1925, 2010.

用語解説

  • *1 減数分裂
    生殖細胞の形成の際に行われる細胞分裂の形態。1度の染色体の複製で、2度の細胞分裂(第1減数分裂と第2減数分裂)を行い、染色体数が半分の生殖細胞を形成する(受精すると元の染色体数に回復する)。多くの生物は、2度の細胞分裂の度に核膜の消失と再形成を繰り返すが、一部の生物は第2減数分裂時には核膜を消失させずに分裂を進行させることが確認されている。
  • *2 RanGAP1
    Ran GTPase activating protein 1の略。タンパク質のひとつ。GTP結合型のRan (タンパク質)を、そこに結合しているGTPをGDPに加水分解することによって活性化する働きがある。
原口 徳子
原口 徳子(はらぐち とくこ)
上席研究員
1985年学位取得(東京大学、医学博士)後、1985~1991年カリフォルニア大学博士研究員を経て、1991年通信総合研究所(NICTの前身)に入所以来、現在まで細胞構造の非破壊計測方法の開発と細胞構造の研究に従事。1996年より現在まで大阪大学理学研究科招聘教授兼任、2005年~2007年情報・システム研究機構国立遺伝学研究所客員教授、2008年より現在まで大阪大学生命機能研究科招聘教授兼任。国際学術誌CSFのassociate editor、日本細胞生物学会評議委員、日本医学生物学電子顕微鏡技術学会評議委員、兵庫県科学技術会議委員。
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