NICT NEWS
光通信の限界を超える量子受信機 -コヒーレント光通信のビット誤り率限界を初めて突破-  総務省情報通信国際戦略局技術政策課研究推進室 課長補佐  武岡 正裕

はじめに

光通信の性能は、0, 1などの信号を識別する際のビット誤り率と、その後の誤り訂正によって決まります。ビット誤り率は光源や受信機で生ずる雑音を除去することで小さくできますが、それでも原理的に消せない雑音、「量子雑音」が存在します(図1参照)。量子雑音は量子力学の基本原理のひとつである不確定性原理に由来し、その影響は、通信路の伝送損失が大きく、また信号密度が高くなればなるほど相対的に顕著に現れてきます。従来の光通信理論では、量子雑音は制御不可能とされ、NICTを初め世界中で研究開発の進む最新のコヒーレント光通信方式においてもいわゆる「ショット雑音」として除去できないものとされてきました。

図1●光通信における量子雑音
図1●光通信における量子雑音

一方、1960年代にレーザーが発明された頃、基礎物理の理論では既に光通信と量子力学を融合する先駆的な研究(量子通信理論)が進められ、信号検出の過程で量子雑音を適切に制御することでさらにビット誤り率を低減できる可能性が指摘されていました。しかし当時は光通信技術自体も未成熟であり、その後もこうした研究は基礎理論のレベルにとどまっていました。NICTでは、近年の光検出技術や量子情報科学の急速な発展を利用してその実現に向けた研究にいち早く取り組み、世界で初めてコヒーレント光通信のショット雑音限界を破ることに成功しました。ここではその概要と展望を紹介します。

光信号の識別限界と量子測定

現在の光通信では、レーザー光の強度や位相を変調して情報を載せ、受信側ではそれらを直接検出することで情報を取り出しています。量子雑音をただの雑音とみなす現在の光通信理論では、これは最適な受信方法です。このときの受信誤り率の限界が「ショット雑音限界」または「標準量子限界」と呼ばれるもので、特に光信号が微弱な領域では通信性能を大きく制限します。

この限界を超えるには、量子雑音をミクロレベルで制御、検出する必要があります。原子などミクロの世界の物理を記述する量子力学によれば、物質の状態は「波動関数」で表現されます。波動関数が何かという説明はさておき、特徴的なのは、その状態を測定するとき、測定の仕方によって見え方が大きく異なってくるという点です。つまり物質(波動関数)の全像を一度の測定で見ることはできず、影絵のように見ている方向からの断片的な情報だけしか測れないのです(図2左上参照)。光通信の場合、信号を干渉計測すれば波としての位相の性質が測定され、エネルギーを測れば強度(光子の数)の性質が測定され、それぞれ量子雑音の影響は異なって見えますが、いずれの場合も信号識別にはショット雑音の限界が課されてしまいます。

波動関数(光の量子状態)の測定
図2●波動関数(光の量子状態)の測定

量子受信機の実現

ではショット雑音限界を超えるためにはどうすればよいのか?それには量子雑音の影響を最も排除できる最適な角度から測定を行えばよいのです。このように量子力学的に最適化された装置が「量子受信機」です(図2右上及び左下参照)。この最適な測定は、理論的には数式できれいに書き下せますが、強度や位相の単純な測定ではなく、物理的にどう実現するかは非常に難しい問題です。NICTでは、そのような測定を光の干渉(波の制御)と光子検出(粒の測定)を組み合わせることで近似的に実現できる新しい受信法を提案しました(図3参照)。さらに産業技術総合研究所の最新の光子数識別器(超伝導転移端センサ)を導入した量子受信機を構築し、平均光子0.2個という極めて微弱な信号の送受信において、世界で初めてコヒーレント光通信のショット雑音限界の壁を打ち破ることに成功しました。量子通信理論の予言から半世紀後に、ようやくその正しさが実験的に証明されたことになります。

図3●準最適な量子受信機の実現
図3●準最適な量子受信機の実現

今後の展望

本成果は、まずは基礎科学の進展に寄与するものです。一方、実際の社会で光子レベルの微弱な信号で通信する必要があるのか疑問に思われるかもしれません。しかし、例えば衛星通信の最近のフィールド試験では受信器に到達する信号の光子数は100個以下にまで弱まり、今後さらに微弱になると予想されています。また地上においても、一部の基幹ネットワークでは通信の大容量化に伴い光ファイバーが溶け出す限界近くまで光信号が詰め込まれており、ビットあたりの光電力を極限まで下げることは重要な課題になっています。今回実現した量子受信機に、さらに量子的な誤り訂正の概念を取り入れると、限られたエネルギーの信号から物理学的に許される究極の通信容量を達成できることが理論的に知られています。このような装置「量子復号器」の実現には、より本質的に光の波動関数を制御しなければならず、それには実験物理やデバイス技術の大きなブレイクスルーが必要です。量子通信技術を、今後ますます増大する通信の大容量化・省エネルギー化の要求に20年後30年後も答えうる革新的な未来ICT技術へと成長させるべく、NICTでは今後も研究を続けてまいります(図4参照)。

図4●量子受信技術の将来像
図4●量子受信技術の将来像

武岡 正裕 武岡 正裕(たけおか まさひろ)
総務省情報通信国際戦略局技術政策課研究推進室 課長補佐

大学院修了後、2001年、独立行政法人通信総合研究所(現NICT)に入所。量子ICTグループ(現量子ICT研究室)にて量子情報理論、量子光学などの研究に従事。現在、総務省に出向中。博士(工学)。
独立行政法人
情報通信研究機構
広報部 mail
Copyright(c)National Institute of Information and Communications Technology. All Rights Reserved.
NICT ホームページ 前のページ 次のページ 前のページ 次のページ