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データハイディング・電子透かし -マルチメディアの機能拡張と利便性の向上-  ユニバーサルコミュニケーション研究所 多感覚・評価研究室 専攻研究員 西村 竜一

はじめに

データハイディングや電子透かしは、マルチメディアファイルのヘッダではなく、コンテンツそのもののデータを操作して、付加的な情報を伝送する方法です。基本的に、通常の方法でそのメディアを再生する限りにおいては、データを操作したことによる変化がヒト(カタカナで表記した場合、生物としての人間を表します)に知覚されてはいけません。付加情報とコンテンツが不可分な状態で保存されますので、著作権保護への応用を目的として、2000年頃から盛んに研究が行われるようになりました。この時期は、ネットワークの利用が広く普及し、映像や音楽を物理的に存在するパッケージメディアとして購入するのではなく、ディジタルデータとしてダウンロードする形態に移行し始めた頃と重なります。また、違法コピーの問題が顕著になってきた時期でもあります。つまり、物体を伴わないデータ(情報)そのものに対して、価値付けと利用制限をする技術が必要になってきたと言えます。

ユニバーサルメディアの実現

コンテンツそのものへのアクセスを制限するには、暗号化が有効な手段となります。データハイディングや電子透かしは、著作権保護ばかりでなく、メディアに付加情報を乗せられるという本来の特性を生かし、ユニバーサルメディアの実現にその応用の場を広げようとしています。例えば、図1をご覧ください。

図1●音声通信における電子透かしの有無による音質の推移
図1●音声通信における電子透かしの有無による音質の推移

この図は、送信元で修復用の付加情報を透かしとして音声データに埋め込んだ場合と、そのような処理をせずに利用した場合とで、それぞれの地点における音質の遷移を模式的に示したものです。透かしを埋め込まなかったメディア1では、通信路よりも送信側に居るユーザAは、原信号と同じ音質のメディアを利用できますが、通信路を越えた場所に居るユーザBは、音質が劣化した音声しか利用できません。一方、音質修復用の付加情報を埋め込んだメディア2では、透かし埋め込みによって、ユーザAも若干音質が劣化したメディアしか利用できなくなりますが、通信路を経由した後でも、透かし情報で音質が回復できるため、ユーザBもある程度の音質のメディアを利用することができます。ここで、最終的な音質aより音質bが高いことも大事ですが、そのことよりも、通信路の前後における音質差cより音質差dの幅のほうが小さいということが、ユニバーサルメディアという観点からは重要になります。つまり、ユーザAとユーザBが、それぞれのおかれている環境や状況によらずに、1つのメディアで同質のサービスを享受できるということを意味しています。

同様なサービスを臨場感通信で考えてみましょう。本物がそこにある場合と同じように知覚させるには、視聴位置に応じて違う映像が見えたり音が聞こえたりする必要があります。この実現方法として2つが考えられます。物理的な『場』を再現してしまう方法と、特定のユーザに特化して再生する方法です。前者は、膨大なデータ通信量が必要になりますがユーザを選びません。後者は、必要なデータ量は少ないですが、ユーザ情報を取得するために双方向通信の枠組みが必要になります。立体音再生を例に考えると、前者がスピーカ再生、後者がヘッドホン再生のイメージになります。スピーカで立体音を生成するには、非常に多くのチャネル数が必要になる一方、通常のヘッドホンでは左右の2チャネル分しか必要としません。したがって、チャネル数の多いスピーカ用信号からヘッドホン用信号に変換するための情報をスピーカ用信号に透かしとして挿入しておけば、再生方式によらないユニバーサルメディアの実現も可能だと考えられます。

図2●再生方式を選ばない立体音のユニバーサルメディア
図2●再生方式を選ばない立体音のユニバーサルメディア

音響データハイディング・音響電子透かしの実現

そもそも、ヒトに知覚されないようにマルチメディア情報を操作するには、ヒトの知覚特性を詳しく知る必要があります。聴覚は、複雑な処理を経て物理的な空気の振動をヒトが知覚する音へと変換しています。そのため、聴覚に特有な様々な特性が存在します。電子透かしでは、特にマスキング現象*1が多く用いられます。代表的なものに、継時マスキングと周波数マスキングがあり、これらは、蝸牛かぎゅう*2において振動を周波数分析して聴神経の発火*3に変換する仕組みや、神経における伝達特性などに起因して生じます。図3は、これらマスキングの現象を概略的に図解したものです。大きな音に対して、時間的あるいは周波数的に近傍にある信号は、ヒトには知覚され難くなります。研究が更に進めば、他にも透かしに利用可能な特性が見つかるかもしれません。

図3●継時マスキングと周波数マスキングの概念図
図3●継時マスキングと周波数マスキングの概念図

今後の展望

データハイディングや電子透かしは、隠れた付加的通信路を提供するものです。通常の通信回線と同じく単なるプラットフォームであり、その上にサービスを構築して、初めて役立つものになります。当初は、コンテンツと不可分な関係にあるという特徴により「著作権保護」のサービスに注目が集まりましたが、データハイディングや電子透かしが本来備えている機能に立ち返ると、他にも応用の可能性を秘めていることが分かります。今後、有用なサービスが考案され、社会に役立つ種々の利用法が出現することを期待します。


用語解説

*1 マスキング現象
 通常なら聞こえる音が別の音によって聞き取りにくくなる現象。

*2 蝸牛
 内耳にあり、聴覚を司る感覚器官である蝸牛管が収まっている。ほ乳類では蝸牛管はカタツムリに似た巻貝状の形状をしている。

*3 発火
 刺激に応じて神経細胞の膜電位がスパイク様に正の電位に変化すること。

西村 竜一 西村 竜一(にしむら りょういち)
ユニバーサルコミュニケーション研究所
多感覚・評価研究室 専攻研究員

大学院修了後、(株)国際電気通信基礎技術研究所での客員研究員を経て、2000年、東北大学電気通信研究所助手に就任。助教授を経て、2006年、NICTに入所。立体音響、音響電子透かしなどの音響信号処理に関する研究に従事。東北大学電気通信研究所客員准教授、京都大学大学院情報学研究科客員准教授。博士(情報科学)。
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