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かわらず、近年まで比較的未開拓な領域であった。これには物理的要因が理由の一端を担っており、この領域の光子エネルギーが室温の熱揺らぎエネルギーを十分に超えられないことと電子に1011 Hzを超えるような加速度を与えることが困難であったことによる(THzギャップ)。それにもかかわらず、自由空間伝搬、高い物質透過率や極低侵襲性などの性質に魅力を見出した超高速無線通信、セキュリティー、医療・バイオ、物質材料検査や天文学などの多分野からの要請に後押しされ、上記の課題を克服するための量子エレクトロニクスやナノテクノロジーなどを取り込んだテラヘルツテクノロジーが急速に発展することで、この領域を新たな周波数資源とする消費活動が盛んになってきた。その結果、ユーザーがTHz領域を効率的に活用していくために、発振器や計測機器のパワー及び周波数の校正が課題として浮上してきている。NICTは周波数の国家標準を定める公的機関であり、設定された周波数値に基づいて、日本標準時の維持・通報に従事している。その一方で電波法を根拠として、THz領域に周波数標準を構築することも期待されている[5]。そこで我々はTHz周波数標準技術の開発に着手し、この周波数資源の有効活用に貢献することを目指している。本解説では、2で極低温分子の量子遷移を利用したTHz分子時計の理論について説明する。いくつかのTHz分子時計では16桁以上の不確かさを達成できることが理論的に示された。3ではTHz周波数標準器の開発について報告する。分子を参照基準とした周波数安定化THz光源と光コムを利用した光差周波THz基準の2方式について報告する。4ではTHzコムによる周波数カウンターの開発とTHzコムの応用技術について説明し、5でTHz基準周波数の遠距離配信を想定した、2つの周波数伝送法について報告する。これらのTHz計量技術はすでに15桁以上の精度に到達している。テラヘルツ量子標準の理論2.1分子遷移周波数精密計測の可能性と意義光領域で18桁[6]–[9]、マイクロ波領域で16桁の確度が得られる周波数標準器が開発されてきたものの[10]、THz領域ではまだ確度が高い標準器は開発されていない。それは、THz領域では高分解能分光が容易な原子遷移が非常に少なく、これまで精密計測が行われてこなかった分子の振動・回転遷移周波数を基準にせざるを得ないためである。しかし、もしTHz領域での周波数標準が確立されれば、化学分析(例えば絵画修復のための絵の具の組成分析など[11])などに非常に有用となる。また、分子遷移周波数の精密計測はキラル分子の光学異性体間の対称性の破れの検出[12]や陽子・電子質量比の変化の有無の検証[13]などといった原子遷移周波数の精密計測だけでは得られない情報を与えられると考えられており、標準モデルを超えた物理学の発展に貢献する可能性を持っている。これまで、THz領域の精密計測は40Ca+イオンの2D3/2-2D5/2間遷移周波数(1.8 THz)を、光コムを利用したRaman遷移で2×10–11の確度で測定した例があるが(不確定さは参照に用いられたルビジウム(Rb)原子時計で決められている)[14]、ここでは分子遷移をテラヘルツ周波数標準(テラヘルツ分子時計)に用いる可能性を議論する。分子は振動・回転状態があるためにエネルギー構造が複雑で、レーザー冷却に不可欠なサイクル遷移を実現することが難しく、そのために運動制御技術が未発達であるうえに、不確かさの主な要因となる外部電場によるStarkシフトや磁場によるZeemanシフトなどの見積もりも困難である場合が多いため、遷移周波数の精密計測が原子遷移に比べて一般的に困難である。そこで、分子構造が比較的単純な二原子分子について精密計測可能な分子遷移を考察し、テラヘルツ標準として有用なものを理論提案する。一般的に不確かさの要因となるStark、Zeeman、及び電気的四重極(イオントラップの場合)シフトは角運動量(電子スピン、核スピン、分子回転など)への依存性が顕著である。ところが、すべての角運動量量子数が不変な振動遷移ならば、上下準位のエネルギーシフトが99%以上キャンセルするので精密計測が可能である[15]–[17]。これは、角運動量量子数が不変の状態では分子の波動関数の分布(回転量子数がゼロの状態では球形)が変化しないためである。振動準位vが変化すれば原子間結合距離も変化するが、Δv = ±1の変化で1%程度の変化になる。そのため、2018年までは角運動量不変の振動遷移周波数の精密計測の可能性を追求してきた[15]–[17]。光領域の原子遷移周波数の精密計測は、レーザー冷却で数µKまで冷却された後にレーザー光で作られた定在波(光格子)でトラップされた中性原子[6][7]またはRF電場でトラップ電極内に捕獲された後でレーザー冷却されたイオン[8][9]を用いて行われてきた。分子遷移周波数の精密計測においても光格子内にトラップされた極低温中性分子を用いる方法と、リニア型電極内に捕獲された後でレーザー冷却可能な原子イオンとの相互作用で共同冷却された分子イオンを用いる方法を述べる。2128   情報通信研究機構研究報告 Vol. 65 No. 2 (2019)4 原⼦周波数標準

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