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遂行できるのは世界中でも著者らの研究室だけである。そんな難しい実験系をあえて使う理由は、二つの特別な利点があるからである。一つ目の利点は、卵なので、孵ふ化かできない致死の突然変異体も解析できる、ということである。生存に欠かせないシナプス伝達に重要な働きをする分子が欠損している場合、大抵致死となるので、その個体が成虫のハエとなって出現することはない。だから、大事な分子に限って、成虫や幼虫を使ってその機能を調べることは難しい。例えば、次項で説明するシナプトブレビンの突然変異体[1]は全く動かないので、卵から孵化することがない。そこで、重要分子を欠損した卵の中で発生しつつある胚の電気生理学実験を行うことによって、重要分子の機能を調べることが可能になる。もう一つの利点は、卵のシナプスは発育途上であるため、2.3に示すように、経験する活動によってその機能が大きく変化しその変化が持続する。すなわち、可塑性に富むことである[2]。2.2突然変異体を使ったシナプス伝達の遺伝学的解析シナプスにおいて、一つの神経細胞の終末(プレシナプス終末)に活動電位が到達すると、そこから伝達物質(私たち人間の脳並びにショウジョウバエの神経筋接合部では、主にグルタミン酸である)を放出し、次の神経細胞(ポストシナプス細胞)が受容体タンパク質を介してその情報を受け取って次の細胞にイオンの流入(電流)を起こすことにより、ニューロンからニューロンへと活動が伝わる。これが“シナプス伝達”である。ポストシナプス細胞である筋肉細胞からイオンの流れによるシナプス電流を記録することによって、運動ニューロンのプレシナプス終末からのシナプス伝達の性質を調べることができる(図1d-f)。このシナプス伝達が強くなった状態でそのまま保持されるような“可塑的変化”が記憶の素過程と考えられている。そこで、まず著者のグループは、大きく回り道をして、シナプス伝達がどのようなメカニズムでおこるのかについての基礎的な知見を積み重ねていった。シナプスにはシナプス伝達に特化した多くの“シナプスタンパク質”が局在し、その機能を担っている[3]。著者らは、その中の主な分子、シナプトブレビン[1][4]、シンタキシン[2]、シナプトタグミン1[5]、Nタイプカルシウムチャネル(未発表)、PKA[4]、グルタミン酸受容体[2]、図1 ショウジョウバエの卵の電気生理学(a) ショウジョウバエの卵。長径0.5ミリメートル。右は、サイズを対照するためのピペットマンチップ(yellow)の先端。(b) 卵の中から取り出した胚を、“Samurai Sword”と呼んでいる、タングステンワイヤーを電解研磨した先端を自然砥石で刀状に研いだ道具によって内側から切り開く。(c) 開いた胚を蜘蛛の糸などを用いて固定する。(d) シナプス電流の記録。運動神経(Motor nerve)を刺激電極(Stimulation)で吸い込み、そこに電流を流して活動電位を発生させる。活動電位が運動ニューロンを伝わりその終末に達すると、シナプス伝達がおこり、筋肉細胞に流入するシナプス電流を、記録電極(Recording)を通じて#6と名前のついた筋肉細胞から記録する。(e) 模式図[9]。(f) 代表的なシナプス電流。500 pA-1 nAぐらいのシナプス電流(synaptic current)が運動ニューロンに対する刺激(Stim)の直後に観察される。44   情報通信研究機構研究報告 Vol.66 No.1 (2020)3 バイオシステムの知に学ぶ

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