賞受賞)が遺伝研究の材料として生物学の世界に持ち込んで以来、約120年間モデル生物の頂点に君臨し、遺伝子の操作を自由自在に行えるシステムとして今日に至っている。一個一個の脳のニューロンを色分けして染め出し、それらを個別に活性化したり不活性化したりする、しかも別のハエ個体を使って同一のニューロン(一個体が持つ25万個のニューロンのうちの、各個体にそれぞれ一個しかない相同のニューロン)を毎回間違いなく識別し操作することができる生物は、世界にキイロショウジョウバエしかないといって過言ではない。それが可能なのはひとえに極限まで洗練された遺伝子操作技術がこの特別なハエのために開発されてきたからであり、その多彩な技術を用いて生み出された膨大な“生きたハエ資産”(遺伝子改変ハエ系統)が存在しているためである[1]。この研究材料としての優位性を象徴するように、キイロショウジョウバエでは、脳内全ての神経接続を記載してマップにするというコネクトーム計画が脳を持つ他のモデル生物に大きく先行しており、今年になって脳の主要部分を網羅した第一弾のデータが公開された[2](公式な論文は未発表)。コネクトームの完成とはすなわち、作動原理はさておいて配線図だけは仕上がったということであり、少なくともニューロンのネットワーク構造という点では、ハエの脳はもはやブラックボックスでなくなったことを意味する。これは例えるなら分子生物学における全ゲノム情報の解読に相当する偉業で、脳の作動原理の理解に向かう里程標の中で画期的な出来事である。コネクトームから“アクトーム”へしかし、ここで注意しなければならないのは、全脳コネクトームはあくまでも脳の配線図であり、それ自体として、脳の働き(機能)については何も語らないことである。あえて挑戦的な表現をとるなら、それは「絵に描いた餅」、あるいは「仏作って魂入れず」の状態にある、ということだ。これでは、ハエのちっぽけな脳(最大幅にして300 µm程度)が、巧妙かつ合目的的な行動を瞬時に作り出す仕組みを知ることはできない。この秘密を暴くためには、個々のニューロンがハエの行動を作り出すうえで担っている具体的な役割をコネクトーム上に書き込み、回路の階層を追って、実際に感覚入力から運動出力が生成される情報変換の有様をつぶさに追っていくことが必須となる。このプロセスを経ることによって、コネクトームへの機能的ひも付けが実現される。こうして得られる機能的マップ、これを私たちはアクトーム(actome: action + connectome)と呼ぶことを提唱する(図1)。私たちの至近目標は、特定の行動に関するアクトームの構築である。これは言わば、コネクトームに命を吹き込む作業であり、画竜点睛を施すものである。これを行うことで、特定の行動に関わる神経回路を構成する全ニューロンを特定し、そこでなされる情報処理のアルゴリズムを探ることがようやく可能となる。3図1アクトームの概要。行動を生み出す神経ネットワークの構造を単一ニューロン解像度で既述し、ハエの脳における効率的な情報処理アルゴリズムの抽出に利用する。52 情報通信研究機構研究報告 Vol.66 No.1 (2020)3 バイオシステムの知に学ぶ
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