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求愛、そこには全てがあるアクトーム第一号を作成する標的として白羽の矢が立ったのは、雄が雌に対して求愛するときに示す一連の行動である(図2)。言うまでもなく求愛行動は子孫を残すために欠かせない。そのため、30億年にわたる進化の過程で雄は求愛に最大限の投資をし、結果、雄の求愛は精緻に制御された多彩な行動の集積となった。そこに見られる行動の制御には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、機械感覚といった感覚情報の処理と統合、そしてその結果に基づく運動信号の出力に至る様々なタスクが含まれており、ハエの脳が備える情報処理機能が凝縮されている。ハエの雄の脳内で実際に求愛行動のための情報処理を担っているのは、fruitless(フルートレス)という遺伝子が発現するニューロンで構成される神経回路である。この遺伝子は私たちが世界で最初にクローニングに成功した遺伝子で、脳内の約2,000個のニューロンで発現し、ニューロンに雄特異的な機能を賦与することで、脳に性差を生み出す働きをする[3]–[8]。このフルートレス遺伝子を遺伝子工学的に改造することによって、求愛行動の回路を構成するニューロンだけを特異的に操作するための画期的なツールの数々が誕生した。このフルートレス発現ニューロン群の中で、私たちが“P1”と命名したニューロンは、雄の脳にだけ存在する高次ニューロンで、求愛開始の意志決定中枢として機能する(図3左)[9]–[11]。遺伝子操作を利用してこの20個のニューロンを人為的に興奮させると、相手となる雌がいない状況下であっても雄は求愛行動を開始する(図3右)[10]。その後の研究から、P1ニューロンが雄の求愛を開始させる元締めであるのみならず、攻撃行動や睡眠などの中枢と拮きっ抗こうしながらハエの本能行動の選択を支配する最高次意志決定部位の構成要素であるとの見方が有力になっている[12]–[17]。このP1ニューロンを中心とする求愛回路と他の本能行動の中枢とがどのように相互作用するのか、さらにその結果として特定の行動が択一的に生じる背景にはいかなる仕組みがあるのか、アクトームの構築によってこれらの疑問に答えることにより、例えば状況に応じて複数の行動レパートリーを破綻なく切り替え、自律的・適応的に振る舞うことができるロボットの実現に寄与する知見が得られると私たちは考えている。求愛行動のアクトームが見えてきた現在、私たちが力を入れているのは、求愛行動の特定の動作を引き起こす視覚情報処理ニューロンの網羅的な同定である(図4)。求愛時、雄は目の前を走り回る雌を素早く追跡し、決して衝突することなく特定の方向に定位するが、この動きは例えば、前進や後ずさり、方向転換といった、単純で定型的な「動作モジュール」の組合せから構成されている。これまでに私たちは、遺伝子工学的な手法を用いて脳内の数個のニューロンだけを強制的に活動させ、それにより生じる行動を解析する方法を用いて、特定の動作モジュールの引き金として機能する2つのニューロン集団(動作制御ニューロン)を見いだした。そのうちの一つである、我々が方向転換ニューロンと名付けたグループは脳の左右半球に対をなして存在するが、その左右どちらか一方を活性化すると、雄は活性化したニューロンが左右どちらの側にあるかに応じて、時計回りか逆に反時計回りか、いずれか一方に方向転換を続ける。強制活性化によって生じる動作は極めて明瞭であるため、これらのニューロンは方向転換を引き起こす運動プログ45図2 キイロショウジョウバエの求愛行動図3緑色蛍光タンパク質を用いて雄の脳内で可視化された求愛開始の意志決定中枢、P1ニューロン(左写真)。温度感受性の陽イオンチャネルdTrpA1によってP1ニューロンを人為的に活性化された雄が、右の翅をはばたかせて求愛歌を歌う様子(右写真、小金澤雅之博士提供の動画に基づく)。533-2 ハエに学び人知を超えたマイクロブレイン型システムの創出へ

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