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間が読める形に変換するためにDNAポリマーを電気泳動という方法で分別して集め、その配列を読み取る必要があることが足かせになっていた。この作業には時間と手間が掛かり、作業自体にもエラーが起こる。したがって、並列計算による時間短縮のメリットを、柔らかいポリマーから答えを読み取ることによるデメリットが上回ってしまうのである。既存のコンピューターをそのままDNAなどを用いたシステムで置き換えようとすると、上記の理由から実用化が難しいのはある意味当然と言える。ただ、生物は既存のコンピューターのような形で計算を行っているわけではないはずだ。どうやって分子と分子の反応による計算結果を取り出し、エラーを訂正しているのだろうか(そもそもどれがエラーでどれがシグナルなのかを分別しているのだろうか)?その答えはまだ得られていない。ただ、生物は「下等」と呼ばれるものであっても、環境情報の集約や仲間との通信・識別、自発的な意思決定など、消費しているエネルギーから考えると信じられないくらい複雑で高度な情報処理を行っていることが分かっている。ディープラーニングなどのアルゴリズムに使うような膨大なエネルギーコストをいちいち支払ってしまうと生物は生き残ることができないので、計算量自体を極めて小さくするような工夫を行っていると考えるのが自然だろう。この工夫の中身を知るために、従来の生物学では、分析的な手法によって細胞内の分子を根こそぎ同定し、すべての分子の性質を明らかにすることを目指していたが、この手法だけでは、どのように分子ネットワークを設計・構築すれば上記のようなことを実現できるか、という点を明らかにすることは原理的に難しいということが指摘されてきた。このような複雑な系を理解するためには、類似物を作って動かして理解する、という構成的手法が効果的である[7]。ただし、分子ネットワークの類似物を作る、と言っても計算機シミュレーションだけで理解に到達するのは困難である。というのは、上記のような生物の工夫が、物質の柔らかさ、分子認識の曖昧さ、応答の非線形性などに依存している可能性があり、シミュレーションでこれらをどのように仮定すればよいかが現時点で自明ではないからである。やはり、生体材料そのものを用いて「作って理解する」手法を取る必要があり、シミュレーションはその結果を正しく解釈するためにこそ有用である。ただ、生体材料を用いて分子ネットワークを人工的に作るための道具立ては、これまでは十分でなかった。例えばDNAを用いた人工的な分子論理ゲート[8]や、DNAだけで構成されたDNAロボット[9][10]などの分子機械が作られている。しかし、例えばDNAロボットの速度は生物由来の機械と比較して数万分の1であるなど性能は非常に低い。したがって、これらを用いて分子ネットワークを作っても、応答が返ってくるまでに余りにも時間が掛かり過ぎるため、実験系としては現実的ではない。そこで、本稿では、新規分子モーター、つまり、生物が進化の過程で培ってきた高速な分子機械をエンジンとして用い、これにDNA結合能を人工的に付加した高速で高効率な分子機械[11]を駆動部品として、これを様々なトポロジーを持つサーキット上で実際に動作させることにより、分子の分配や濃縮、更には分子による新しい計算機を構成することを目指す取組を紹介する。この取組は、細胞内の分子によって実現されている分子計算機の設計原理を、従来の細胞のイメージングなどの方法ではなく、人工物で構成した「偽物」を作って比較検討する過程で理解することを目的としている。生物が行っている情報処理や「計算」の大部分はまだまだ謎の部分が多いが、基本的には、外部からのシグナルに反応し、特定の物質を輸送・増幅して、決定を下す、ということの繰り返しである。これらは人工のコンピューターのように、ギガFLOPS のような高速処理は行っておらず、実際、化学反応や分子の構造変化の時間スケールは早くてミリ秒である。つまり、生物の情報処理は一見非常に遅いように見えるが、人工機械を凌りょう駕がするくらい高機能かつ省エネである。このようなギャップを理解するためには、現状で理論的な枠組みが無い以上、実際に細胞が使っている装置に似たものを作り、実験を繰り返してこの装置への入力と出力を記録し、得られた数多くの実験データから一定のルールを帰納するような構成的アプローチをとることが突破口となり得る。このような新しい方法は、言わば生物の情報処理システムのリバースエンジニアリングであり、次世代の情報処理に関する理論構築にとって大きなブレークスルーをもたらす可能性があると考えている。天然の生物分子モーターを魔改造する2.1天然には存在しない、アクチンフィラメント上を一方向に動くダイニン型分子モーターを創るこれまでのように、たった一回の進化の歴史の産物である既存の生物分子モーターを分析する研究だけでは、個別の生命活動に適した構造や機能を理解することはできても、ナノメートルスケールにおける一方向性運動の本質に迫ることは容易ではなかった。この原理を明らかにするためには、既存の生物分子モーターの分析に加えて、単純な機能を持つ要素を組み合わせることによって目的とする機能を創り出すような構成的な研究手法が効果的である。24   情報通信研究機構研究報告 Vol.66 No.1 (2020)2 バイオ材料の知に学ぶ

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