日誌にGEOALERTの対象現象について「FLARE EXPECTED」「MAGSTORM EXPECTED」等と、明確に記載されるようになった。まだ1974年以降は、太陽現象と地磁気現象を明確に分けてGEOALERTが発出されるようにコードの定義自体が変わっている[10]。ADVKとしてGEOALERTが発出されたのは、その後、1993年までである。1993年3月以降からは、IUWDSにより新コードUGEOAが制定され、予報対象と基準が不明確であったADV**コードに変わり、具体的な基準(観測場所及び手段等)や数値での情報交換がされるようになった[11]。UGEOAはIUWDSの後継組織であるISES(International Space Environment Service)でも継承され、現在も加盟国間との宇宙天気予報情報の交換はUGEOAが利用されている。図7の1993年から2020年の棒グラフの高さは、UGEOAのデータベースからMクラス以上のフレアが予報された日数とK指数5以上が予報された日数を示す。ADVKOとUGEOAは予報の基準が異なるため、発生日数の年変化を定量的に比較することはできないが、太陽サイクル20〜24の約5サイクル(約60年)に渡って、太陽活動の増減に伴うアラート発出日数の相対的な増減があることがグラフから見て取れる。日本でGEOALERTの発出が開始された時期については、まだ分かっていない。しかしながら、日本でのURSIgram放送は1932年に端を欲することが記録されているため、1957年以前のGEOALERTについては警報日誌以外のどこかに記録が残されている可能性もある。1947年巨大黒点群観測記録警報日誌やTelexといった連続的なデータとは異なるが、1946〜1947年に国立天文台との黒点協同観測の記録なども見つかった。その中でも1947年初頭の4太陽自転周期の間存在した活動領域(黒点群)は、記録上最大規模の活動領域と知られており[13]、その手書きの観測記録を発見した(図8a,d)。数か月に及ぶ連続観測の記述とともに太陽フレアの発生位置も同時に記録があり、今後の研究が進められる貴重な資料であるため、スキャンした画像と国立天文台の観測データ(図8b,c)とともに当時の記録をそのまま引用する。1.2月5日頃太陽東縁に出現した黒点群は小黒点の鎖状群であったが、急激に発達し、子午線経過の11日頃には著しく面積を増大し二つの非整形の主要黒点から成る一群に見えた。この黒点群は3月3日再び東縁に現れたが、この時は二つの主要黒点は一つに結合し一大黒点を形成していた。然もその面積はさらに増大していてその子午線経過の3月10日頃には、その総面積は見かけの太陽面の1.1%に達し、近年にないものとなった。その後中央部の稍や々や前方附近が次第にクビれて西縁近くで分裂して二つの非整形の主要黒点を作った。次の出現は3月31日頃であったが、驚くべきことには、この黒点群はさらに発展し二つの主要黒点の隔距離も増大した。子午線経過の4月7日頃には太陽面の15%に達した。しかし、子午線経過の後、ややその活動に減衰を示し、次の出現には驚嘆すべき減衰を示し、僅かに遠く隔てた場所にふたつの小黒点群を残すに過ぎなかった。出現の各回に於ける子午線経過当時の状況は図(図8a)において示した。ここで注意すべきは、発達の初期では先行黒点が後続黒点よりも優勢であったが形成された大黒点の分裂後は後続黒点がその面積も著しく大きいことである。2.爆発現象の観測は2月に於いては極めてその回数が尠すくなく、その他でも天候等の為十分ではないが、第1回は3ヶ、第2回は14ヶ、第3回は19ヶ、第4回は1ヶ観測された。それに日付を依ってその位置を示した。観測が十分ではないので到底結論4図81947年4月の史上最大規模の太陽黒点群の観測(a):NICT(当時:逓信省平磯出張所)の黒点・太陽フレア観測記録。太陽の自転4周期分の太陽フレアとの日付と位置が示されている。(b):彩層観測画像(国立天文台)[12] (c):黒点スケッチ(国立天文台)[12]。黒点スケッチは望遠鏡で投影を行うため、左右が反転している。208 情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務
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