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ミリ波を利用する衛星通信、また光ファイバによる高速有線通信に移ってきた結果、無線回線の設計や無線通信における周波数の選択に利用される電波予報の重要性は、相対的に低下してきた。一方、多様な無線通信の普及に伴い、その途絶による社会的影響が大きくなってくると、太陽活動等の影響により、短期的、突発的な電離層のじょう乱による無線通信の障害を予知し、警報を発する業務の重要性が増してきた。これを天気予報に例えると、発生した台風の進路や到達時間を予測し、地上の被害を軽減することに相当する。電波警報は、無線通信障害の予知にとどまらず、GPS衛星等による位置精度や人工衛星搭載機器への影響の回避も目的とする「宇宙天気予報」という、宇宙規模の概念に継承されることになった。NICTには、過去の周年記念誌の編集に際して旧在職者から収集された、NICTの前身組織の資料が、未整理のまま残されており、筆者は2020年からその資料の整理を続けている。そこで本稿では、その整理の過程で見つかった電離層観測の黎明期における一次史料を駆使し、世界的に見ても極めて早い時期に始まった日本の電離層観測研究が、終戦直後の危機を乗り越えて、今日の宇宙天気予報業務に至った歴史的な経緯を紹介する。現状把握の時代2.1電離層観測のはじまり無線通信は、20世紀初頭に実用化されて以降、長波、中波、短波、超短波、極超短波、マイクロ波、ミリ波へと、高い周波数に向けて実用化が進んでいった。Marconiによる無線通信実験の成功(1895年)に触発された我が国では、1897年(明治30年)頃に無線通信の研究が始まった。いち早く無線通信技術に着目した機関は、公衆通信サービスを提供する逓信省(現・総務省、NTT、日本郵政)と、軍艦との連絡手段を確保したい海軍省だった。上層大気内に電気の良導体が存在することは、Hertzによって電磁波の存在が実証(1888年)されるよりも早く、地磁気の日変化の解析によって1882年に、StewartとSchusterによって予想されていた[3][4]。1901年に、Marconiは、大西洋を横断する無線通信実験に初めて成功した。水平線を超える見通し外の無線通信の成功は、電波が地球の表面に沿って屈折、反射する事実の発見でもあり、Kennelly と Heaviside らによる電離層(KH層)の存在予言(1902年)から、Apple-tonとBarnett及びBreitとTuveらによるE層とF層の存在実証及び電離層観測法(インパルス法)の確立(1925年)に至る、電波伝搬研究の出発点となった[5]。電離層は、太陽から放射された紫外線やX線などによって、大気の上層部が電離されてできる層である。短波は、電離層と大地の間を複数回反射することにより、小電力で地球の裏側にまで至る長距離通信が可能であることが、アマチュア無線家らにより1920年代には知られるようになった。ただし電離層は、反射あるいは突き抜ける電波の周波数と、反射する地上高が、地球上の位置(特に緯度)、時間(昼夜)、季節などにより、複雑に変化する。そのため、安定した短波通信業務のためには、電離層の性質を追究することが、重要な課題となり、電離層観測の初期にはまず、これらのパラメータを変えた観測データの積み上げが行われた。電離層観測の重要性を認識した各国は、米国が1929年からWashington D.C.で、英国が1930年からSloughで、それぞれ定常観測を開始した。我が国では、1931年に海軍技術研究所(東京・目黒)が、文献を頼りに、Appleton-Barnettの周波数変更方式(送信局と受信局を離し、送信周波数を小範囲にわたって変化させ、直接波と電離層反射波を同時に受信し、その干渉パターンを測定することにより電離層の見かけ高を測定する方式)による日本独自の電離層観測機を製作し、翌1932年(昭和7年)にこの観測機により、電離層高の観測に成功した[6][7]。その成果を基に、1934年(昭和9年)から目黒において定常観測が開始された。これは世界で米、英に続いて3番目に早い定常観測開始であった[4]。一方、逓信省電気試験所も、1930年(昭和5年)秋から、現在の茨城県ひたちなか市にあった平磯出張所において、難波捷吾出張所長らにより、短波の「感度測定」を行い、大気上層の電離状態を表す「電離図」を、1932年8月に発表している(図1)[2]。難波が作成した電離図は、東京から地球上の大円に2図1 平磯出張所の難波捷吾らが作成した電離図の例[2]212   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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