沿った距離を縦軸にとり、横軸に地方時をとって、太陽高度が電離層の電子密度に直に対応するという仮定に基づき、昼間領域(図1の赤色部分)は太陽高度、夜間領域(図1の青色部分)は電子密度を等高線で1枚に表した図である。東京と地球上の任意の受信点との間について、その経路途中の電波通路に生じる複数の頂点(電離層による反射点)における電子密度を電離図から求め、観測から求められている臨界周波数(これ以上高い周波数の電波は反射せず突き抜ける)や減衰量の計算式を併用して、受信点における電界強度を推定できるようになっている。 続いて平磯出張所では1932年に、一定の周波数で見かけの電離層高h’と時間tをプロットするh’-t観測機を製作し、それから約2年後に定常観測を開始した。平磯出張所の電離層観測は、難波の京大における後輩にあたる前田憲一が主導し、当初は日本無線電信株式会社(現・KDDI)の小山送信所(栃木県)から発射された5,770 kHz一波の時間に対する高度変化を平磯で受信する観測であったが、定常観測に移行してからは、送信を平磯、受信を6 km離れた隣町の磯浜(現・大洗)で行い、正午におけるE層の臨界周波数を測定していた(図2)[8]。天文現象である日食は、昼間の状態のままで太陽放射が減少していくため、減少の影響が直接電離層に及び解析が容易で太陽と電離層の関係を直接に観測できる、絶好の機会である[7]。我が国で電離層定常観測が始まって間もない1934年(昭和9年)2月14日に、南洋のローソップ島において実施された皆既日食観測では、我が国からは天文観測隊に加えて、初めての日食時電離層観測を、海軍と逓信省が共同で実施した(図3)。この時は、h’-t観測だけの初歩的なものであったが、日食以外の日に時々周波数を変えて、F層の臨界周波数を推測する観測も行っていた。その結果、ローソップ島が位置する赤道地帯においては、F層の臨界周波数は日出後上昇し、正午前後に3~4時間一旦下がってから再び上昇し、日没に向かって下降するという、当時のChapmanによる電離層生成理論では説明できない奇妙な挙動をすることを発見している[9]。この現象が後にAppleton Anomaly(異常)と呼ばれるようになったことに対して、割り切れなさを感じていると、前田は書き残している[5]。1934年6月に海軍は、電離層観測の標準となるイオノグラム、すなわち見かけの電離層高h’と周波数fをプロットするh’-f観測機を初めて製作し、平磯出張所でも同様の観測機によって1936年から観測が始まった(図4、5)。図2 平磯出張所の臨界周波数測定用送信機(1935年)図3 ローソップ島における電離層観測(観測中の人物は前田憲一)(1934年)図4 平磯出張所の電離層定常観測機(1936年)図4(a) 送信機(平磯出張所)図4(b) 受信機(磯浜分室)2135-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~
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