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一方、陸軍は、3省の中で最も遅い1939年(昭和14年)に、満州で電離層定常観測を開始した。主導したのは、前田憲一の京大における同級生だった上田弘之(後の郵政省電波研究所長)であった。先行していた海軍と逓信省の定常観測が、週に1,2日の少ない頻度だったため、臨界周波数の統計処理では誤差が大きかった。その問題に着目した上田は、陸軍においては、我が国で初めて毎日毎時の定常観測を年中無休で厳格に行うことと、満州での特異性を明らかにすることに注力した[10][16]。2.2陸・海・逓の統一:電波物理研究会の発足1940年代に入り、戦雲急を告げる中で、学術研究会議電波研究委員会の主導により、陸軍、海軍、逓信省の3省が個別に行っていた電離層観測研究の統一が図られ、各省が有している電波伝搬研究機関を全部提供して新しい研究所を設立し、電波研究委員会がその研究所を指導していく案が、検討された[11]。陸・海・逓の利害の調整は大変困難であったが、統一の実現には、明治時代以来の我が国の物理学界の大御所であった長岡半太郎委員長の力が、大きかったと言われている[10]。統一研究所は、学術研究会議電波研究委員会の主導で設けられることや、陸・海・逓のパワーバランスを考慮した結果、中立的な文部省の所属とし、陸軍は敷地と建物、海軍は装置、逓信省は人を主に分担して発足することになった。そのため文部省は、「電波研究所」を設置する官制(組織設置)案を出した(図6)が、予算と人の関係で、まず「電波物理研究会」として、昭和15年度末に1941年3月1日付官制で発足した。研究会という、研究よりも連絡に重点があるような名称となったが、組織概要では、「研究会自身トシテモ研究ヲ行フ」とされていた(図7)。研究会長には、電波研究委員会委員長の長岡半太郎が就任し、施設は東京市淀橋区百人町4丁目5番地(新図6 文部省電波研究所の設置案に対する海軍省からの意見書(1940年6月28日)研究成果は軍事機密を含むため発表に際しては海軍の了解を得ること等の意見が出されていた。図7 電波物理研究会発足関係の一次史料図7(a) 電波物理研究会概要の草稿図7(b) 電波物理研究会官制の下書き図5 平磯出張所における最初期の観測記録フィルム (1936年12月1日)214   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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