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宿戸山ヶ原)にあった陸軍科学研究所の一角に置かれた。電波物理研究会の研究題目として、以下が挙げられていた。(a)基礎的研究1.電離層ニ関スル研究2.低高度反射層ニ関スル研究3.電離層状態予報ニ関スル研究4.空電ニ関スル研究5.昭和16年秋ノ皆既日食時ニ於ケル電離層異状現象ノ全国的総合研究(b)応用的研究1.斜入射電波ニ関スル研究2.電界強度、電波入射角、到来方向等ニ関スル研究研究題目として、既に「電離層状態予報ニ関スル研究」が含まれていることは、注目に値する。発足して間もない電波物理研究会が重点的に実施した業務は、研究題目にも挙げられている中国・漢口における皆既日食観測であった。この皆既日食観測については、元電波研究所次長である青野雄一郎が残していた一次史料が、NICTに保存されている(図8)。同皆既日食は、1941年9月21日に中国や台湾などで見られたもので、日本からは電離層班7名、電波伝でん播ぱ班3名の体制で、日食の前後の観測も含めて7月20日に東京を出て11月10日に東京に帰着する予定が組まれた。足掛け5か月に及ぶ長期出張となった理由として、観測計画案には、「電離層ノ研究ハ長期ニ亘ル観測結果ノ平均ガ重要ナルモノニシテ同平均ト日食時ノ観測値トヲ比較スルヲ必要トスル為天文等ト異リ日食ヲ中心トシテ相当期間ノ観測ヲ行フモノナリ。」とある。皆既日食の観測に使用した建物は、一般住宅を借り上げたもので、皆既日食の終了後も中支電波物理観測所として、1944年(昭和19年)12月頃まで観測を継続したとされる(図9)[11]。電波予報の時代3.1電波物理研究所への改組1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発し、軍用通信の確保のために電離層観測研究が一層重要視されたため、電波物理研究会を拡充して昭和16年度中に電波物理研究所とする準備が急がれた。当時の詳細な予算要求書が残っており、昭和16年度に経常費294,835円、臨時費450,000円(昭和16年度)、450,000円(昭和17年度)、定員は所長(勅任官)1名、所員(奏任官)10名、書記(判任官)8名、技手10名が要求された。結局、電波物理研究所への改組は、年度が改まった1942年(昭和17年)4月8日になった。所長は、長岡半太郎に代わって横山英太郎が就任した。横山は、電気試験所による世界初の実用無線電話機であるTYK式無線電話機の開発者の一人(3人の開発者のイニシャルであるTYKのY)であった。電波物理研究所には、逓信省(平磯出張所)の前田憲一、陸軍の上田弘之、海軍の新川浩が兼務で集った。戦時中に発足した電波物理研究所の一番の課題は、アジア地域における短波通信のための使用周波数の選択をスムーズに行うために、アジア全域に渡る電離図を作成することであった。電波物理研究所の電離図は、前述の難波の電離図[2]とは異なり、太陽黒点数の同じ時期の同じ月という条件下で、縦軸に緯度、横軸に地方時をとって、F2層の臨界周波数の実測値の等高線をプロットしたものであった[10]。当時はまだ世界各地の観測データが積み上がっておらず、また戦争が始まり諸外国のデータの入手が困難になったこともあって、電離図の作成に際しては、「ある地点におけるF2層の状態の一日24時間にわたる変化は、これと同緯度の他の地点(経度を異にする)にも全くそのままあてはまる(但し時間は各地点の地方時を用いる)」という仮定が使われた。しかし、戦前の観測データを入手していた米国Washington D.C.と、その緯度の南北に位置する東アジア諸都市の敷香(現・ポロナイスク)、チチハル、平磯、平塚、上海等の観測データを使って、臨界周波数の等高線を1枚にプロットすると、不自然な谷ができてしまうことがわかった。それを補正する材料を、極光(オーロラ)頻度曲線と地磁気緯度の二つに求め、高緯度では地磁気緯度、低緯度では地理的緯度に置き換えて電離図を作成すると、Washington D.C.の地磁気緯度が地理的緯度よりもはるかに高緯度になるため、自然な等高線になることを見いだした[13]。これは、F2層電子密度が地磁気緯度に支配される事実を世界で初めて報告した論文になったが、電波物理研究所のこの3図9 漢口皆既日食観測に使用した建物216   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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