3.3電波物理研究所の上野毛への移転小平町の電波物理研究所庁舎は、1944年(昭和19年)12月に、陸軍の都合により明け渡さなければならなくなったため、海軍の斡旋により、戦時徴用された東京都世田谷区玉川上野毛町336の多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の校地に再移転し、電離層観測を継続した。当時は、手動で少しずつ周波数を変化させながらパルス変調電波を送信機から垂直上空に発射し、受信機で同調をとりつつブラウン管あるいは電磁オシロスコープに現れる電離層からのエコーを受信し、手書きでh’-f曲線にプロットしていく、原始的な方法で観測していた(図12)[7]。1945年(昭和20年)5月24~25日の夜間大空襲により、庁舎の3分の2が焼失し、観測装置は被害を受けて1か月間の欠測となったが、電離層データ資料室は焼け残ったため、過去の観測データは無事だった[11]。3.4電波予報のはじまり電波物理研究所は1942年(昭和17年)に、赤道地帯を対象とし、季節と2地点間距離ごとに電界強度の等高線をプロットした図を作成した(図13)[15]。これは、電離層特性の地理的分布を示す図であり[7]、電波予報の先駆けとなるものである[1]。当時の電波予報は、赤道地帯に展開された南方戦線における軍事作戦への寄与が目的であった。電波物理研究所研究官と陸軍技師を兼務し、南方で観測業務にあたっていた上田弘之は、当時の電離層観測データの軍事的な重要性について、シンガポールで観測していた頃のエピソードを、次のように書き残している[10] [16]。南方ではF2層の最大電子密度が日出前に急激な低下をするという赤道地方特有の現象がある。だから戦争末期、太陽黒点活動度の最小期には赤道地方での日出前の通信連絡は困難をきわめた。この現象が印緬(インド・ビルマ)国境での悲劇となって現れた。数十機のわが爆撃編隊は未明、基地を飛び立って印緬国境に向かった。同地方が天候不良のためただちに帰還命令を発したが、連絡のつかないままに時は流れた。無事任務を終えた編隊は帰途突如として現れた敵戦闘機の要撃を受けて全滅した。軍人には遠方まで届く電波ならば近くでは当然届くはずではないかという手合も少なくない。実は電波ではこれとまったく反対で、空間波は近距離には届かないが遠方へは届くのが電波の常識である。おそらくこの場合にも基地からの帰還電報は友軍の飛行機には達しないで、敵への出撃通知電報となったのであろう。(第十海軍通信隊司令から)ペナンからアフリカの南をまわってドイツまで往復する潜水艦の通信時間を教えてくれてという注文である。潜水艦は夜中にちょっと浮上して、符号をトントンとたたいてはまたすぐにもぐる(数秒間)。そうしないとすぐにやられてしまうとのこと。持参の電離層伝搬データと首っ引きで、徹夜のようにして2~3日かかって全航路に対する最適時間の表を作った。それから2か月ぐらいしてからのことである。司令と将校がウィスキーをさげてひょっこりお礼にみえた。教えられたとおり、少しの狂いもなく、全航路すぐに通じたとのことであった。自分ではしばらく信じられなかったが、ドイツまで往復されたご本人が目の前に立っていた。こうして戦時中に始まった電波予報は、終戦から約2年の中断の後、1947年(昭和22年)に東京上空を反射点とするMUFの予報図が作成され[7]、3か月後の予報が月刊で公刊されるようになった。電波予報は、通信回線の対象を時代の要請に応じて増やしていき、例えば南極観測が始まったのに伴い、南極観測船の航路上や昭和基地との通信回線に関する電波予報を追加し、あるいは海運業界の発達に合わせて、商船・漁船の主要海域に対する海上移動業務用周波数の通信可能時間の予報を追加した。こうして、太陽活動の3周期に渡って電離層観測データが蓄積され、その間の観測技術・処理技術の発達(人工衛星による観測も含む)により、太陽活動指数(相対黒点数)だけを与えれば、日本と中心とした世界各地との短波通信に使用可能な周波数帯を簡単に求められるようになった。その結果、1986年に「日本中心の短波伝搬曲線集」[1]が刊行されて、月刊電波予報は終刊した。図13電波物理研究所研究報告第6号(1942年)に掲載された、赤道地帯における春季または秋季の2,000km離れた地点間無線通信の場合の予想電界強度の図。横軸は地方時、縦軸は周波数、色は予想電界強度で、濃いほど強い。太陽黒点の最少期を中心とする2~3年間に有効な図とされた[15]。218 情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務
元のページ ../index.html#224