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電波警報の時代4.1電波警報の構想 ―短波無線障害予報大戦末期に、デリンジャー現象や地磁気じょう乱現象によって突発的に発生する短波無線通信の障害を予報し、それを事前に陸海軍などの所要機関に通報する業務が、計画された。この計画が、戦後の電波警報業務、そして今日の宇宙天気予報業務につながる、初めての構想となる。計画では、文部省学術研究会議第1部第25班を、短波無線障害予知班として組織し、電波物理研究所のほか、東大、東京天文台、地磁気観測所、中央気象台などの関係者を班員とした。使用資料や予報方法の手順、連絡方法などが定められ、業務開始時期を1945年(昭和20年)9月以降と定めたが、同年8月の終戦により、未実施に終わった[11]。4.2終戦に伴う電離層観測研究の危機 [9][11]1945年8月15日の終戦により、電波物理研究所は電離層定常観測を中断した。前田憲一所長代理らは、文部省の指令により、機密書類の焼却を始めることになった。5月24~25日の空襲にも無事だった電離層観測データや研究報告も、焼却の対象となったが、青野雄一郎(図29(b))は指令に背き、密かに大八車に積んで約12km離れた自宅の防空壕に隠したほか、中田美明(図29(b))も電離層データ整理室の資料を自宅に運び隠した。組織の生い立ちの経緯からすれば当然のことだったが、電波物理研究所は軍に協力してきた機関であったため、敗戦に伴い、解体されるものと誰もが考えていた。1945年10月2日、連合国軍総司令部(General Head-quarters : GHQ)通信部のD. K .Bailey少佐が、電波物理研究所に臨検のため来訪した。後にCCIRのSG6の議長を長く務めた電波伝搬分野の専門家である少佐[17]は、観測資料を焼却しなかったことを称賛し、今後週1回の頻度で来訪して資料を詳しく調査することになった。戦勝国による臨検官という態度は全くなく、あくまでも科学者同士の話し合いという少佐の態度に応えるべく、電波物理研究所側は調査に積極的に協力することになった。Bailey少佐は、電波物理研究所が電離層の研究を継続する意思の有無を尋ね、前田所長代理は二つ返事で継続を希望したことから、日本における電離層観測及び関係研究の継続を認めるGHQの覚書(図14)が、同年10月10日付AG676,3号にて、日本政府に渡されることになった。覚書による正式許可に先立ち、上野毛における電離層定常観測が、同年10月5日に再開されている(図15)大蔵省は、電波物理研究所を予算面において廃止することにしてあったのを、この覚書を受けて予備費を支出し、存続させることになった。またこの覚書で、北海道、東北地方、南九州に観測所を置くことになったことから、翌1946年(昭和21年)に、稚内(北海道)、4図14(c) Bayley少佐から前田所長代理宛に送られた覚書の封書図14 日本の電離層観測研究を救ったGHQ覚書AG676,3号(1945年10月10日付)図14(a) 英語手書き草稿図14(b) 日本語訳草稿2195-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~

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