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深浦(青森)、新発田(新潟)、山川(鹿児島)の4か所に、電波観測所が設けられ、観測を開始した(図16)。(深浦と新発田の両観測所は、1949年に秋田電波観測所に統合された。)Bayley少佐による9か月間の電波物理研究所における膨大な資料調査の結果は、Report on Japanese Research on Radio Wave Propagation という2冊組の報告書として残っている(図17)。この報告書によって、前述のF2層電子密度の地磁気効果など、日本が世界に先駆けて発見した成果が、初めて世界に公表されることになった。南方で観測業務にあたり、ベトナムで終戦を迎えた上田弘之は、内地への引き揚げ時に、連合国軍の命令により、南方における貴重な電離層観測データを現地で焼却せざるを得なかったが、焼却直前に各観測所の月平均値だけを小さな紙にびっしり転記し、密かに持ち帰ることに成功した。帰国後、直ちに前田憲一の導きで離任直前のBayley少佐に面会し、持ち帰ったデータも上記の報告書の付録に盛り込まれている。上田は、終戦後にベトナムで抑留されていた間に、連合国軍から電離層観測についての報告書の作成を命じられた。同報告書について後年に以下のエピソードを書き残している[10]。戦争には敗れたが、東南アジアにおいて得られた電離層の知識、特に赤道付近の知識は貴重なものであった。さきに述べたイギリス軍に提出した私の報告は東京のGHQにもきていたそうである。私はこの報告で東南アジアにおける電離層観測によって明らかになった電離層の概要と特徴を述べ、もし電離層観測を再開するようなことがあれば、これまでの経験からみて、観測所の配置はかくかくにすべきであるという意見を添えて報告を結んだ。この報告をみた友人に、私はたしなめられた。「どっちが戦争に勝ったんだかわからんような調子だ。相変わらずだな。」と。でも、誰が電離層の観測を再開しようとも、彼にこの貴重な経験は教えてあげたらよい。事実は事実、経験は経験だと思ったのである。戦後の混乱期に、航空機研究をはじめ多くの科学技術研究がストップした中で、電離層観測研究だけが止まらずに継続できたのは、以下の3つの理由があったとされる[7]。(1)占領時の通信政策上欠かせない重要な平和的基盤研究だったこと(2)GHQの特別の理解があったこと(3)我が国のこの方面の研究が特に進んでいたこと(1)については、GHQ自身により観測研究を行う構想もあった。実際、Bayley少佐は10月2日の臨検時に、電波物理研究所が電離層観測を継続する意思が無い場合には、GHQ通信部が稚内、東京、鹿児島の3か所で電離層観測を行うつもりであることを、前田憲一に伝えている。したがって、(2)と(3)が特に効いたものと思われる。青野雄一郎らのとっさの行動によって図15 戦後に定常観測を再開した1945年10月5日のh’-f曲線(上野毛)図16稚内、深浦、新発田、山川の電波観測所の新設にあたり、24時間体制で観測する職員のために、食糧の配給増を農林省に要請する、電波物理研究所長の文書草稿(1946年)図17 Bayley少佐による調査報告書 (NICT図書室所蔵)220   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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