保存された観測データが、科学を尊ぶ電波物理研究所の姿勢と、研究水準の高さを裏付けるものとなり、その後の組織存続の決め手になったことは疑いない。もし電波物理研究所の電離層観測の実績を理解しない臨検官であったならば、また、もし敗戦時に軍部と歩調を合わせて観測データを焼却していたならば、研究の継続は認められず、すなわち今日のNICTと宇宙天気予報業務は存在しなかったであろう。短波伝搬の研究に関して戦前は各国とも国防上の見地から秘密主義をとったため、連合国軍は戦時中に東南アジアにおける電離層観測資料の不足に苦しんだ。そのため終戦後に直ちに日本から電離層観測資料を探し出すことが、Bayley少佐の調査の主目的であったことを、同氏は後年に告白している[16]。Bayley氏は、日本の電離層観測研究存続の恩人といえ、後年に再来日した際に、郵政大臣から感謝状が贈られた(図18)。1999年8月27日に亡くなったBayley氏の訃報は、当時のCRLニュース(現・NICT NEWS)にも掲載されている[18]。存続が決まった電波物理研究所は、1945年(昭和20年)12月1日に上野毛から小平町に戻った。移転の前後も1日の欠測も無く観測を継続した(図19)。小平町に戻った際、小金井町側の旧第5陸軍技術研究所の敷地・施設の一部を併合し、小平町から小金井町にまたがる細長い敷地を有することとなった(図20)。これが現在のNICT本部敷地となる。旧陸軍技術研究所の残りの敷地は、現在の東京学芸大学とサレジオ学園等に移管された。電波物理研究所の住所表示は戦後に、本館のある小金井町(1958年に市政施行)に変わった。但し電離層観測施設は現在も小平市側に設置されているため、無線図19(a) 上野毛における最後のh’-f曲線1945年11月30日 80 Vまで送電圧降下のため測定不能というメモ書きがあり、終戦直後の電力事情の劣悪さを物語る。図18 Bayley氏に郵政大臣から贈られた感謝状(1978年)図19 上野毛から小平町に移転した前後の観測データ図19(b) 小平町に復帰後の最初のh’-f曲線1945年12月1日図20 戦後に撮影された電波物理研究所の航空写真(左上が北)左上の小平町側の雑木林内に建つ木造2棟が、発足当初の電波物理研究所(図10参照)。白点線内が戦後に右下の小金井町側に拡張された後の電波物理研究所の敷地で、現在のNICT本部の領域。写真中央の正面玄関にロータリーがある建物が、旧第5陸軍技術研究所から引き継いだ本館(図35参照)。2215-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~
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