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局免許状の設置場所は、小平市になっている。敷地は小金井市と小平市にまたがり、国分寺市にはかかっていないが、研究所宛の郵便物は国分寺郵便局から配達されていた(図21、図14(c))。そのため、地球電磁気学の業界では、NICT本部及び電離層観測地点を指す地名として「国分寺」の呼称が、習慣的に現在も使われている。戦後、陸軍と海軍は廃止されたが、電離層観測研究は前述のとおり戦時中から文部省の研究機関に統一されていたため、その後身のNICTが、陸軍と海軍の時代の観測データも一緒に保管している。4.3電信電話事業の実用化研究強化に伴う電離層観測研究の危機終戦直後の荒廃した日本において、頻発する停電と通じない電話の状況を憂慮したGHQ民間通信局(CCS)の指導により、逓信省電気試験所において明治以来一緒に行われてきた電力と電気通信の試験研究を分離して、それぞれの技術復興を加速することになった。特に電気通信の研究は、米国ベル電話研究所が手本とされた。そのための改組の準備として、電波物理研究所は、戦前の対外通信設備の建設と保守を担っていた国策会社の国際電気通信株式会社(KDTK)の技術研究所(所長:難波捷吾)と共に、電気試験所に吸収されることになった。元は逓信省が所掌していた電力行政は、戦時体制を経て商工省(通商産業省を経て現在の経済産業省)に移管されていたため、電気試験所から分離する電力部門を商工省に移す必要が生じ、商工省の外局として新設されることになった工業技術庁(工業技術院を経て現在の産業技術総合研究所)の中に(新)電気試験所として移管することになった(後の電子技術総合研究所)。一方、逓信省電気試験所は、電気通信部門だけを残して、1948年(昭和23年)8月1日に、「電気通信研究所」(通研)に改組された。電離層観測研究は、もともと電気通信の研究者や無線技術者によって行われていた。ところが、次第に地球物理学上の重要な分野としてクローズアップされてきた。そのため戦後には、電離層観測データは短波通信の運用に利用されるだけでなく、地球物理学分野の研究資料としても利用されるようになってきた。そのような状況の中で、文部省電波物理研究所は、我が国を代表する電離層・電波伝搬の学術研究拠点としての性格を帯びてきた。前田憲一所長は、そのような学術的及び行政的性格の強い観測・研究業務は、電気通信の実用化研究を行う通研にはそぐわないとして、吸収に強く抵抗した。しかし、学術研究会議(現・日本学術会議)主催の数回の討議における、長岡半太郎、八木秀次、仁科芳雄らの諸大家を含む多くの物理・電気の学者の総合意見は、通研への吸収に賛成するものであったため[11]、前田所長としても最終的には受け入れざるを得なかった。電波物理研究所は、電気通信研究所の電波部となり、前田所長は電波部長になった。そして小金井の本部は「国分寺分室」になった(図22)。CCSは、逓信省の改革促進を更に強く迫り、明治以来、逓信省が実施していた郵便事業と電信電話事業を分離する「郵電分離」が断行されることとなった。1949年(昭和24年)6月1日に、逓信省は郵政省と電気通信省に分割され、電気通信研究所は、電気通信省の内局になった。電波物理研究所及び電気試験所平磯出張所に由来する電離層観測研究業務は、方式実用化部の電波課と基礎研究部の物理科に移された[9][11][19]。前田憲一は基礎研究部の部長になった。電気通信研究所は、吉田五郎所長(図23)の強いリーダーシップにより、電信電話事業に資する実用化研究所に急速に変貌していった。吉田所長は、電気試験所時代の電気通信の研究は、工学的研究に終始し学問的にのみ考究して直接経済活動に貢献する部分が少なく、企業経営体からの遊離に欠陥があったと断じた。そのため電気通信研究所は、研究者に仕様書、実施法の草案を作らせるまでの責任を負わせ、それを完璧にする図21 1960年代に使用されていた電波研究所のレターヘッド住所(小金井市)の代わりにKOKUBUNJI P.O.(国分寺郵便局)と刷り込まれており、「国分寺の電波研究所」として周知されていたことを表す。図22 電気通信研究所 国分寺分室時代の旧電波物理研究所[11]正門は現在の上水南町交差点の位置になる。現在のサレジオ通りは正門から東西に伸びる構内道路であった。222   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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