ための現場試験をもその責任下に置いて多量生産に必要な資料の提供を求めることに、研究所の運営の重点が置かれた。そして自由研究や理論研究が主ではなく、組織された命令研究や監督制度の下に行われる実用化研究が主体でなければならないと主張した[20]。その電気通信研究所において、方式実用化部等の中で、実用化が直接の目標にならない電離層観測と、それに伴う電波伝搬研究に対する風当たりが、次第に強くなっていき、旧電波物理研究所の職員たちの不満が募っていった。GHQにも業績と必要性が認識されて生き残った電離層観測研究が、電信電話事業の実用化研究の中で、二度目の存続の危機に立たされることになった。電気通信省が発足して間もない、1949年(昭和24年)7月のある夜中に、網島毅電波庁長官(電波庁は電気通信省の外局)の自宅に、上田弘之、青野雄一郎ら4人が突然押しかけ、吉田所長の方針への反対論を訴えた[21]。網島は4人の意見を聞き、これは通研の中では解決できない大きな問題であり、放置すれば稚内から山川に至る全国の電波観測所の職員の処遇のみならず、我が国の世界に誇る電波伝搬の研究機能は崩壊するかもしれないと危機感を抱いた。そのため網島は、旧電波物理研究所及び旧電気試験所平磯出張所で電離層観測と電波伝搬研究に従事していた200名以上の人員と施設を、通研から電波庁に移管する決断をし、調整を始めた。庁議で意見をまとめ、省議で各局の賛成を得て、最後には大臣の決裁を得なければならず、多数の職員を本庁に引き取ることは、研究費や庁費の手当の困難さが見込まれ、庁内の反対が予想された。しかし電気通信省の事業部門はいずれ公社組織になり、純政府機関から外れることになっていたため、電波行政上必要な研究部門は電波庁に移すこともやむを得ないという意見が大勢を占めた結果、同年8月29日の省議で決定に至り、大臣決裁を経て、同年11月1日付(組織規程改正の省令は11月5日付)で電波庁電波部に新設された3課(電離層課、対流圏課、電波資料課)として新たに発足した。吉田五郎通研所長も、この移管にあっさり同意した[9]。通研の基礎研究部長になっていた前田憲一は、立場上、行動を共にはできず通研に残ったため、上田弘之が電波庁電波部付としてこの新設3課をまとめる役割を担うことになった。組織の移管に当たり、上田が地方電波観測所長を集めて語った心構えが興味深いので、ここに再録する[11]。(中略)…通研では電波といえば我らの専売特許でありましたが、電波庁では専売特許どころかクズかごまでも電波でありますから、つまらぬ電波であれば容赦なく焼却されるおそれがありますから、よくよく考えてください。(中略)…通研では一つの波を貰ってその質を量的に良くするのが主眼であるが、電波庁では、その波を与えること、出力その他を指定すること、発射された波を監督する等個々の波の賦与の責任、存在の監督は勿論でありますが、波と波の限界を明らかにし、波の限度を知ることが主眼であります。従って電波庁では、全周波数バンドの端から端まで、その性能、性質の隅から隅までを知って最も合理的な運用を期さなければなりません。かかる意味から電離層の観測も、対流圏のルーチンも、電波予報も警報も責任と義務とにおいて必要欠くべからざるものでありまして、決して体面や興味からではないのであります。電気通信研究所は、五反田本部(旧電気試験所本部、現NTT東日本関東病院敷地)や神代分室(旧国際電気通信株式会社技術研究所、現NTT中央研修センタ敷地)など各地に分散していた拠点を、1950年(昭和25年)12月に武蔵野市(東京都)に集約させた(図24)。もし旧電波物理研究所が電波庁電波部に移管されずに通研の一部署のままであったならば、現在のNICT本部である国分寺分室も撤退し、電離層観測研究は縮小されていたかもしれない。電離層観測研究の電波庁への引き取りを決断した網島長官は、我が国の標準電波の図24通研が1950年12月に武蔵野市に集約された際に建てられた吉田五郎揮毫の記念碑(NTT武蔵野研究開発センタ、筆者撮影) 碑文「知の泉を汲んで研究し 実用化により世に恵を具体的に提供しよう」「実用化」は吉田五郎の造語と言われている。図23 電気通信研究所 初代所長 吉田五郎写真は逓信省電気試験所第二部技師当時。電気試験所創立五十周年記念式典写真帖(昭和16年11月、NICT所蔵)より2235-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~
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