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立ち上げにも深くかかわっており[22]、Bayley少佐と共に、NICTの「第2の恩人」と言うべき人物である。4.4電波監理委員会の発足と電波観測所の改組電離層観測研究業務が、通研を離れて電気通信省電波庁に移って一息ついたのも束の間、僅か半年後に、今度は電波行政自体の機構改革のあおりを受けることになる。逓信省から電信電話事業を継承した電気通信省は、将来の公社化が想定されていた。国として実施する必要がある電波監理行政については、GHQの指導に基づき、電気通信省の手を離れて行政委員会たる電波監理委員会が担うことになった。1950年(昭和25年)6月1日に、電波法、放送法と共に、電波監理委員会設置法が施行され、電波庁は廃止され、同委員会の事務は、総理府に新設された電波監理総局が担うことになった。そして電離層観測研究業務は、同委員会に附属する電波観測所が担うことになった。その結果、国分寺の本部は「中央電波観測所」と称することになり、それと並列に、稚内、秋田、犬吠、平磯、山川の5か所に地方電波観測所を置いた。中央電波観測所の所長には、上田弘之が就任した。電離層観測研究業務は、中央を含む6つの電波観測所として、組織的にようやく安定し、終戦以来途絶えていた定期的な発表会や定期刊行物(中央電波観測所研究報告)の刊行も、再開された。サンフランシスコ平和条約が発効されGHQのくびきが外れると、行政委員会制度の見直しが行われ、電波監理行政は再び省庁が担うことになった。電波監理委員会は2年余りの短命で廃止になり、電気通信省は公社化されるため、同じ逓信省由来の郵政省が電波監理行政を担うことになった。郵政省は、郵政事業(郵便、貯金、保険)に特化した公共事業官庁としてスタートしていたが、1952年(昭和27年)8月1日、郵政省に電波監理局が設置され、同時に電波監理委員会、総理府電波監理総局及び電気通信省が担っていた電離層観測・電波伝搬研究業務、周波数標準・標準電波発射業務、型式検定業務等が統合され、郵政省電波研究所(RRL)が発足した。同日に電気通信省は日本電信電話公社(NTT)に改組された。こうして郵政省は電気通信行政も担う官庁に変わったため、省名を逓信省(注)に戻すことも検討されたが、「逓」が当用漢字(現・常用漢字)に無いこと等が理由で実現せず、英語名だけが、Ministry of Postal Services から、Ministry of Posts and Telecommunications に変わった。(注)逓信とは駅逓(郵便)と電信を一字ずつ組み合わせた造語で、まさにPosts and Telecommunicationsを表す。4.5電波警報の開始と発展 [23]さて、大戦末期に計画されたものの敗戦により実現しなかった電波警報業務は、前述の複雑な組織変遷のさなかに始まった。電波庁の時代の1949年(昭和24年)12月に、電波部電波資料課が電波警報業務を始めることになり、電波予報のような刊行物では速報性が無いため、同じ電波部の標準課が運用していた短波標準電波(呼出符号JJY)に、現在または12時間以内の電波じょう乱を予告する符号W(激しい通信嵐)をモールスコードで載せて、リアルタイムに発表することになった。後にU(不安定状態)とN(平穏状態)が追加され、常にこの3つの符号のいずれかが標準電波に載せられるようになった[7]。電波警報は、図25に示すように、他機関から届く太陽光学観測データや地磁気観測データも駆使して、開始当初の一時期を除き、平磯電波観測所から発令されていた(図26)。太陽については光学観測に加えて、電波観測も1952年から平磯電波観測所において200 MHz帯を対象として、定常的に実施されるようになった(図27)。太陽から放射される電波の存在が発見されたのは意外に遅く、第2次世界大戦中であり、我が国では1949年に、図25 1965年頃の電波警報の情報伝達フロー図26 平磯電波観測所の電波警報発令室224   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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