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平磯電波観測所が三鷹の東京天文台構内に200 MHz帯の受信装置を設置したのが、我が国の太陽電波観測の始まりであった。中央電波観測所時代の1951年(昭和26年)5月から、JJYの電波警報に加えて、週間電波じょう乱予報が始まり、ハガキにより利用者へ1週間分の予報が週1回郵送されるようになった(図28)。ハガキによる予報も、月刊電波予報の終刊と時期を同じくして廃止され、代わりに1986年(昭和61年)4月から、テレホンサービスによる音声アナウンス式の予報が始まった。電波警報は、国内諸機関のみならず、世界中の関係観測研究機関によって取得された日々の観測データを参照して、精度を高める必要がある。そのため、「ウルシグラム放送」という短波無線によって、世界的に観測データを交換する仕組みが構築された。ウルシグラム放送は、1919年に結成された国際電波科学連合(URSI)の勧告により、1928年にフランスで始まったもので、日本でも1932年に日本無線電信株式会社(現・KDDI)小山送信所によって始まり、戦争による中断を経て、1951年12月に中央電波観測所によりコールサインJJDで再開された[7][24][25]。図25の右上に「世界各地へ観測資料送出」と描かれているのがJJDである。その後、観測データの交換手段として、テレックスや計算機ネットワーク等が発達したことにより、JJDは1995年6月末をもって終了した[26]。電波警報業務が軌道に乗った時期の1957~58年に実施された国際地球観測年(IGY)は、電離層定時観測の強化すなわち従来の1時間ごとを現在と同じ15分ごとに頻度を増やしたこと等を始め、電離層観測研究に大きな変革をもたらした。南極地域の観測事業が始まったほか、観測資料の分散保管と国際的な交換のために、世界資料センターが設けられて、電波研究所は世界に4つ置かれたセンターの一つ(C2センター)になった。また、太陽フレアや地磁気嵐を予知して連絡を取り合う組織が創設され、米国ボルダーに置かれた本部のほか、電波研究所に西太平洋地域警報センターが置かれた。本組織は、1962年に前述のウルシグラム交換組織と統合されて、国際ウルシグラム世界日警報業務機関(IUWDS)になった。1963年(昭和38年)9月に初めて日本で開催されたURSIの総会では、参加者のエクスカーションとして、国分寺の電波研究所本所や、当時は小金井市緑町にあった標準課、茨城県鹿島町に建設中の30mパラボラアンテナ及び平磯電波観測所に、前述のBayley氏を含め著名な研究者が多数訪れた(図29)。IUWDSは1996年に国際宇宙環境サービス機関(ISES)に衣替えして、現在に至っている[27]。一方、人類初の人工衛星が打ち上げられて宇宙時代の幕が開き、後述するとおり電離層観測研究にロケットあるいは人工衛星が活用される時代になった。さらに、太陽活動が活発な時期で、期間中に多くの現象を観測でき、地球上の超高層に生ずる諸現象はその原因のほとんどが太陽現象に起因していることから、電波警報が通信障害の予知という実用面のみでなく、太陽図28 週間電波じょう乱予報ハガキの例(1966年)図29(a) 鹿島に建設中の30 mパラボラアンテナを見学した一行 (1963年9月14日)図29(b) 終戦直後に電離層観測研究を救った3人が電波研究所本所に勢揃いした。左から中田美明、青野雄一郎、Bayley (1963年9月18日)図29 1963年URSI総会のエクスカーションで電波研究所を訪れた参加者図27平磯電波観測所の200 MHz太陽電波観測アンテナ(1952年設置)2255-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~

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