2016年度の施設の閉鎖まで、観測が続けられた。コンピュータネットワークについても初年度に、デジタルデータの取得を開始したのを皮切りに、SERDINと命名されたネットワークが整備されていき、Ethernet LANによってセンター内の太陽電波強度データ、地磁気データ、太陽画像データ等のシステムがつながれていった。観測技術の発達によって使用可能な各種宇宙環境データが増大する中で、宇宙環境じょう乱の予警報を発令するためには、発令者が観測データを効率的に相互参照して総合的に解析できる必要があり、そのためにデータベースをネットワークに接続しワンストップで相互参照できるような仕組みが不可欠になっていた。ちょうど世界的にコンピュータネットワークが急発達を始めた時期であり、国内外の諸機関ともネットワーク接続され、平磯宇宙環境センター(旧平磯支所)は通信総合研究所(旧電波研究所)のネットワークに関する外部との接続点になっていった。1994年初めには分散型宇宙環境データベースSERDIN/WWWとして、国内機関としては早い時期にWebサーバの運用を始めている[33]。電波警報業務の近代化に重要な役割を果たした宇宙天気予報業務は、2002年に平磯から国分寺に移り、電離層観測・電波伝搬研究の発祥の地である平磯宇宙環境センターは、無人の太陽観測施設を経て、2016年度をもって満102年の長い歴史を閉じた(図30)。 補遺 田中舘愛橘と長岡半太郎のかかわり 田中舘愛橘(安政3年~昭和27年)と長岡半太郎(慶応元年~昭和25年)は、日本史の教科書にも登場する、明治期の物理学界の二大巨頭である。この2人は、現在のNICTに連なる組織の歴史に深くかかわった学者で、亡くなる直前に、現在のNICT本部を訪れたことがある。田中舘愛橘は、地磁気の研究で著名であるが、無線工学に関しても造詣が深く、1898年(明治31年)に逓信省電気試験所の松代松之助技師が、我が国初の無線電信実験に関する学会発表を行った際に、松代を相手に質疑をした議事録が残っている[34]。松代が無線電信の研究に着手したとされる1896年(1897年の説もあり)は、NICTの組織史の始まりに位置づけられている。無線通信の始まりから戦後の飛躍的発展まで見続けてきた田中舘は、1951年(昭和26年)5月21日に、中央電波観測所(国分寺)で開催された日本地球電気磁気学会に参加し、その時の写真(図31)と揮き毫ごう(図32)が残っている。亡くなる1年前のことであった。長岡半太郎は田中舘の弟子にあたり、Hertzの電波実験(1888年)をいち早く日本に紹介し、我が国の電波物理学分野を主導した。前述のURSIに日本が加盟した翌年の1928年総会において、長岡が副会長に選出さ5図30 平磯太陽観測施設の閉所式(2016年12月9日)図31 中央電波観測所を訪れた田中舘愛橘(中央)左端は上田弘之、右端は長谷川万吉(日本地球電気磁気学会初代委員長)、右から2人目は永田武(後の第1次南極地域観測隊長)。左端の装置は、4型自動式電離層観測機[4]図32 田中舘愛橘の揮き毫ごう田中舘は、日本式ローマ字の普及にも尽力した。2275-5 我が国における宇宙天気予報の前史 ~電離層観測の黎明期を中心に~
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