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れている[35]。電波物理研究会の発足によって陸・海・逓の電離層観測研究を一本化でき、日本が当該分野を世界でリードできたのは長岡の功績と言ってよい。戦後に廃止された陸・海軍の観測データを、電波物理研究所が受け継ぎ、敗戦によっても研究に後退をきたさず今日まで発展できたのも、組織が一本化されていたお陰であった。その長岡は、戦後の電波物理研究所においても参与として運営に関わった(図33)。1950年(昭和25年)6月13日に国分寺で開催された中央電波観測所の開所式に出席した際の揮毫が残っている(図34)。亡くなる半年前のことであった。現在のNICT本部には、旧第5陸軍技術研究所の本館(図35)の脇に植えられ、本館前で撮影された田中舘愛橘や長岡半太郎らの集合写真の脇にもあった1本の八重桜が残っており(図36)、今も毎年春に花を咲かせている。おわりに本稿では、1988年に始まった宇宙天気予報業務の30年余りの歴史については、時期尚早と考え、詳しくは触れなかった。近い将来に、もう少し歴史として熟した頃に、業務に携わった研究者らによって、まとめられることを期待している。宇宙天気予報業務は、その前身の電波予報・電波警報業務と同じく、正確な観測データの積み上げによって、予報の正確さを期すことができる。電離層観測研究の歴史は、観測拠点の増設、観測頻度の増加、観測手法の進歩、観測データの精度向上の歴史であり、時代によっては文字どおり命がけで観測データを取得し、伝えてきた歴史である。今日では大量の観測データを自動的に取得・共有できるようになり、予報業務にも機械学習などAI的手法が取り入れられて、飛躍的に精度が上がってきているが、結局は正確なデータの蓄積があってこその結果である。自然現象を相手にしている限り、観測データの重要性が変わることはない。前田憲一(図37)は、自らの京都大学の退官記念集で、6図33電波物理研究所(国分寺)を訪問した長岡半太郎(中央)左隣は前田憲一、右隣は上田弘之(1946年夏~初秋)図34 長岡半太郎の揮毫1950年6月13日、中央電波観測所の開所式にて図35戦後の電波物理研究所(後に中央電波観測所を経て電波研究所)本館の正面玄関と八重桜(1952年春)図36本館の跡地に建ったNICT本部2号館と八重桜(2021年4月6日)228   情報通信研究機構研究報告 Vol.67 No.1 (2021)5 定常業務

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