1113●フロンティアサイエンス分野2.脳内に作られつつある記憶実体“エングラム”を脳内の一個のニューロンから検出脳を形作る個々の神経細胞は、回路を構成する素子であると同時に、経験に従って自身の特性を変化させる性質、即ちメモリーとしての機能を併せ持つ。この性質は情報処理系としての神経系の顕著な特徴であり、生物規範型の情報処理素子等への応用可能性を有する。しかし現状においては、分子・細胞レベルでの記憶形成のメカニズムの十分な理解は得られていない。令和3年度、記憶神経生物学プロジェクトはこの記憶の形成過程を特定のニューロンに着目して解析するため、古典的条件づけに基づく新たな記憶解析系の開発に成功した(図2)。通常、ショウジョウバエは餌となるショ糖液を口器に触れさせると口吻を伸ばして摂食行動を開始する。この実験系では、あらかじめハエの肢に棒をあてがって捕まらせ、その棒を引き離すたび、口器をショ糖液に触れさせることを繰り返す。その結果、ハエは棒を引き離すとショ糖刺激が無くても摂食行動を示すようになる。パブロフの犬における「音」の刺激を機械刺激(棒の引き離し)に置き換えたものと言える。つまり、棒を引き離すとショ糖が得られるという記憶を形成することが可能になったのである。さらに、この実験系と神経活動の光学計測を組み合わせ、記憶形成に随伴した神経活動の変化を初めて捉えることに成功した。これまでに同プロジェクトでは、脳に一対あるフィーディング・ニューロンの活動によって摂食行動が引き起こされることを見出していた。そこで上記の条件付けのさなかこのニューロンの活動を記録したところ、条件付けの前には生じなかったカルシウム上昇が条件付けによって出現した。たった1個の特定されたニューロンで記憶実体が観測されたことは、記憶を支えるシナプスの変化を解明する糸口となる大きな成果である。3.情報を識別する生体機能を支える分子レベルの仕組みの解明生体の働きの基本はDNA(時にRNA)分子に担われた遺伝子情報にコードされている。内外環境もまた様々な分子によって組み立てられており、脳は分子と分子のやりとりを介して環境をセンシングし生体の機能をコントロールする。この分子と分子のやりとりを1つのネットワークとして捉え、環境からの入力信号に始まり生体が適応的にその機能を変化させる出力に至る情報処理過程を定量的に記述することを試みた。この情報処理過程がどのように進化してきたかという点にも焦点を当てた。生体にとって最も根元的な物質環境である温度、光、食物に関する情報が、脳のごく少数のニューロンによって統合され、生殖か生存かを決する過程や、ごく少数のタンパク質(マスター遺伝子fruitlessの作るタンパク質)が脳の特定の細胞の発生運命を決する過程を定量的に調べて、その入出力関係を定式化することに成功した(図3)。また、fruitlessというたった1つの遺伝子に由来するシグナル分子がその機能を定量的に変化させることで、生物に多様性を進化させることが可能であることも明らかになった。図3 新規マーカーを用いた環境応答の定量・評価技術蛍光タンパク質(GFP:緑色)の蛍光測定によって、過酷環境下で生じる生体機能調節(生殖細胞の成熟度の変化)の定量評価が可能になるセンシング·統合生体機能の調節環境情報3.5.1 神戸フロンティア研究センター
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