はじめに人間が健康で快適な生活を送るためには、環境の変化や、疲労、発達、加齢といった身体の変化に適応し、運動を正確に制御する能力を維持する必要がある[1][2]。脳は、運動エラー(実際の運動と計画した運動の差)の情報を利用し、様々なタイムスケールで運動を常に調整している[3]。新しい道具を使用するときや、新しいスポーツ動作を学習するときは、最初は意図した動作を実現できず、比較的大きな運動エラーを経験する。このような運動誤差は意識に上りやすく、しばしば認知システムの助けを借りながら、動作は素早く修正・改善される[4]。一方、疲労、発達、加齢に伴う運動誤差は比較的小さい。このような小さな誤差は、認知システムに頼らず、運動システムによって無意識のうちに処理されることが多い。このような動作の修正は、比較的長いタイムスケールの運動適応として実現される[5]。複雑なスポーツ動作や職人技のような高度な 運動技術の習得は別にして、日常生活を送るうえで、我々はいともたやすく運動適応を実現しているように感じる。しかし、我々が病気や怪我によって脳に障害を抱えたとき、快適な日常生活のみならず、生存にとっても運動適応機能がいかに重要であるかを実感する。例えば、小脳変性症、ハンチントン病は運動適応に重大な障害をもたらす[6]–[8]。我々の研究室では、運動適応の脳内情報処理の理解を通じて、運動疾患メカニズムの解明、疾患や老化による運動機能の低下を改善するための技術開発の開発を目指して研究を行っている。本稿ではこれらの研究の一環として行った運動適応に関する最新の研究[9]を紹介する。失敗を素早く修正するための階層的運動 学習機構失敗や罰を避け、成功や報酬を求めるための行動選択は人間の生存にとって必須である。我々は、失敗の有無に依存して運動適応の仕方が異なることを経験的に知っている。例えば、あなたがゴルフの練習場でグリーンにボールを乗せる練習をしている状況を例にあ12人間が健康で快適な生活を送るためには、環境の変化や、疲労、発達、加齢といった身体の変化に柔軟に適応し、運動を正確に制御する能力を維持する必要がある。このような運動適応の基盤となる脳情報処理を理解することは、運動疾患メカニズムの解明、疾患や老化による運動機能の低下を改善するための技術開発の開発に不可欠である。本稿では、運動適応に関する我々の最新の研究を紹介し、動作の失敗の後に素早く動作を改善することを可能とする脳情報処理について議論する。我々の研究結果は、脳が階層的な情報処理構造を利用して、動作の効率を犠牲にしてでも、課題の成功を優先するように動作を修正していることを示した。Our ability to maintain accurate control of movements is essential to our health and comfort in our lives. We achieve this ability through motor adaptation to changes in our surrounding environ-ment and our bodies due to fatigue, development, and aging. Understanding the brain information processing that underlies such motor adaptation is essential for elucidating motor disease mecha-nisms and developing technologies to ease the decline in motor function caused by disease or ag-ing. In this study, we present our recent findings on motor adaptation and discuss how the brain improves movement after movement failure. We show that the hierarchical information processing structure of the brain modifies behavior to prioritize task success at the expense of motor efficiency.4-3 人間の運動機能の維持・向上を支える脳情報処理の理解4-3Understanding of Brain Information Processing that Underlies the Maintenance and Improvement of Human Motor Function池上 剛IKEGAMI Tsuyoshi594 いつまでも健康で幸せな生活のために:ヒトの脳機能を補助・拡張するための研究・技術開発
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