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脳をリバースエンジニアリングする

はじめに

あらゆる情報通信の究極の対象は、脳です。脳が意図した内容が別の脳に伝われば、その通信は成功です。それが伝わらない、あるいは間違って伝わるならば、その通信は失敗です。そして往々にして、私たちの通信は失敗します。日常生活においても、気心の知れた夫や妻、上司などには90%以上の正確さで意図が伝わっている気がする一方、今年入ってきた新人とは50%も分かり合えていないのではないかと感じている方も多いのではないでしょうか。

脳に至る情報伝達が必ずしも容易ではない原因の1つとして、情報を発信し受容する脳がどのように動いているのかについて、私たちがよく理解していないことが挙げられます。脳はどのようなプロトコルを理解し、どのような内部表現を用いて、どのような情報処理を行なっているのか―これらを定量的に解明することができれば、それはより効果的な情報伝達の実現につながることでしょう。また、それらの知見の蓄積は、将来的には脳活動の読み取りを介した脳と機械の間、あるいは脳と脳の間の直接的な通信を行うための基盤になります。

筆者は前任地におけるものを含む2011年頃からの一連の研究において、モデリングアプローチと呼ばれる手法を用いて、ヒト脳活動を定量的に理解する試みを続けています。このアプローチでは、日常に現れるような自然な条件下における脳活動を、その挙動を予測するいわば人工脳(モデル)を作ることを介して理解することを目指します(図1)。モデリングアプローチを用いた一連の研究により、私たちは脳内における意味空間の定量的同定や、いわゆる“ビッグデータ”の援用による脳活動からの視覚体験のデコーディング(映像化)などに成功しました。本稿では、それらの結果とその含意するもの、今後の展望についてご紹介いたします。

図1 モデリングアプローチの概念図
図1 モデリングアプローチの概念図
任意の自然知覚・認知条件下における脳活動を予測するモデルを構築することを介し、脳機能の定量的理解を目指す。

脳情報表現の定量的解明

モデリングアプローチを用いることで、自然状況下における脳活動から、脳内における情報表現やその皮質分布などを定量的に解明することができます。一例として、自然動画刺激下の脳活動から物体・動作カテゴリの関係を示す意味空間を同定した例を示します(図2)。この空間では、脳内で似たものとして表現されているものは近くに配置され、そうでないものは遠くに配置されます。これにより、たとえばヒトに関係するカテゴリは脳内でクラスタとして表現されていることや、そのクラスタは動物に関係するクラスタと離れていること、しかしその間には体部位を示すクラスタが存在し、集合として意味的な勾配を形成していること、などが判ります(図2A)。またテキスト(文字)は他のカテゴリとは全く別物として表現されていることなども判ります(図2B)。

これらのカテゴリ情報表現は、従来は主に離散的なものとして研究の対象になっていました。図2で示したような各々の関係を連続的に表す意味空間を定義することで、情報の受容が認知的状況や病態、あるいは個体や経験などによってどのように異なるかを、連続的かつ定量的に把握することが可能になります。

図2 脳内意味空間の可視化例
図2 脳内意味空間の可視化例(図をクリックすると大きな図を表示します。)
各点が1つの物体・動作カテゴリ(face、talk、manなど)を示し、点間の距離が脳内における情報表現間の距離を示す。A、Bは3次元意味空間をそれぞれ別の角度から眺めたもの。Aの楕円は代表的クラスタを示す。
(Huth, Nishimoto, Vu, Gallant, Neuron 76:1210-1224(C)2012 Elsevierより許可を得て転載、一部改変)

脳情報デコーディングと“ビッグデータ”

モデリングアプローチをベイズ推定と組み合わせることで、脳情報の効果的な読み取り(デコーディング)を行うことも可能になります。一例として、動画視聴中のヒト脳活動から視覚体験を映像化した例を示します(図3)。まだかなり荒い段階ではありますが、このような技術は視覚的想像の可視化等を通じた未来の脳・機械インターフェースの基盤となると考えられています。

図3 脳活動から視覚体験を映像化した例
図3 脳活動から視覚体験を映像化した例
上段がヒト被験者に見せた映像で、下段が脳活動から推定した視覚体験の映像化例を示す。
(Nishimoto et al. Current Biology 21:1641-1646(C)2011 Elsevierより許可を得て転載、一部改変)

ところで、図3で示したような脳活動デコーディングを行う際には、自然動画に関するプライア(事前分布)を構築する目的で、約1,800万秒分のYouTube動画を用いました。これは比較的穏やかな一例ではありますが、近年、脳神経科学の世界においてもいわゆる“ビッグデータ”を利用する例が増えつつあります。また、現在米国で進められているコネクトームプロジェクトにおいては、マウス脳が産出するデータ量は約60ペタバイト/匹、ヒト脳の場合は約200エクサバイト(200,000ペタバイト)/人と見積もられており、脳神経科学自体が膨大なデータの生成源となりつつあります。これらを高速・効果的に処理・解釈する過程において、脳神経科学と情報・計算機科学は今後も益々密接に関わることになるでしょう。

おわりに

本稿では、モデリングアプローチによる脳機能の定量理解、脳情報デコーディング、およびそれらと“ビッグデータ”との関わりなどの話題をご紹介しました。今後は、同アプローチを感情、想像、言語、記憶、意思決定等のより認知的な領域に応用していくことで、より包括的な脳機能の理解、またそれを基盤としたより一般的な脳情報デコーディングの実現・高度化が期待されます。

西本 伸志 西本 伸志(にしもと しんじ)
脳情報通信融合研究センター 脳情報通信融合研究室 主任研究員

大学院博士課程修了後、カリフォルニア大学バークレー校を経て、2013年、NICTに入所。大脳皮質における時空間情報処理、意味情報処理、脳情報デコーディングなどに関する研究に従事。博士(理学)。
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