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量子情報技術の意義と要素技術の開発

辻野賢治 (つじの けんじ) - 基礎先端部門 量子情報技術グループ 専攻研究員

2004年北海道大学大学院 工学研究科修了。博士(工学)。同年より、情報通信研究機構 専攻研究員として量子光学や 量子情報技術などの研究に従事。趣味: サッカー、ショッピング。


はじめに

「十年一昔」とよく言いますが、10年前にこれほどインターネットが普及すると想像できた人は何人いたでしょうか。 現在、私たちがもっとも恩恵を受けているサービスは電子メールや、「検索(サーチ)エンジン」と呼ばれるWebサイトを 利用して必要な情報を手に入れることでしょう。他にも、書籍の購入や航空券の予約、さらにはお歳暮までインターネットを 利用して送ることができる状況です。

インターネットの普及には上述したサービスを支えるための環境が必要です。身近なところではパソコンの低価格化と 高性能化、通信費用の低下と通信容量の増加などがあげられます。また、インターネットで買い物をする際の安全性の 確保なども重要でしょう。つまり、今以上のインターネットの普及やサービスの向上のためには、それなりの環境を整える 必要があります。例えば通信容量について考えてみましょう。最近「これからはギガ」といった宣伝を目にすることが あります。これは1秒間に10億個のビット(1Gbps)を送ることができる通信容量という意味で、この技術水準であれば インターネットを利用してスポーツ中継や映画を観ることができるそうです。また、現在の技術を用いると光ファイバー 1本で数十Tbps(T[テラ]はギガの1000倍)を達成できると予想されています。では、その先はどうなのでしょうか?

量子情報技術の必要性

これら通信の性能を突き詰めていくと、最終的にぶつかる限界は「量子限界」です。もう一度、通信容量について考えて みましょう。光子や電子といった非常に弱く小さいエネルギーまで考えると、電子回路やレーザー光に内在する絶対に 消すことのできない「量子ゆらぎ」と呼ばれる雑音が問題となってきます。もちろん、情報をのせた信号を正確に伝える ためには、この量子ゆらぎよりも大きな信号を用意しなければなりません。しかし、通信の大容量化のためには、より 多くの情報を1つの信号にのせる通信方式が必要です。つまり、1つの信号にのせる情報が増えるほど、1つの情報にさく ことのできる信号のパワーは小さいものになります。したがって、量子ゆらぎに邪魔されずに、正確に通信が行える 最低の信号のパワーが現在の通信の限界となります。

NICTの量子情報技術グループではその名のとおり、「量子情報技術」と呼ばれる量子力学の原理を積極的に利用した 情報処理技術を用いて、上述した限界に挑戦しています。特に情報処理能力の飛躍的な向上が期待される「量子計算」と 呼ばれる情報処理の手法を用いることが重要となります。現在のコンピューターで行われている計算手法と量子計算の 違いを「あみだクジ」を例に考えてみましょう(図1)。現在のコンピューターは、1人であみだクジをたどっていくような ものです。あたりが出るまでクジを上から下までたどる作業を繰り返す必要があります。一方、量子計算は1人が「分身」 して一度に全てのあみだクジをたどることに対応します。この「分身」が計算を早く処理するカラクリであり、 「量子もつれ合い」として量子力学の創世記に予言されていた原理です。このような量子情報処理を利用し、私たちは 「量子情報源符号化」と「量子通信路符号化」といった、通信において重要な基本的操作の原理実証を行っており(図2)、 高い評価を得ています。これらの量子情報処理を行うためには原子・電子のように、その物理現象が量子力学で記述 されるものを選ばなくてはなりません。私たちは特に「光子」と呼ばれる光の最小単位を用いています。次からは、こ の光子を用いて量子情報処理を行うために必要な要素技術に着目した研究を紹介します。

要素技術確立へのとりくみ

まず、はじめに紹介するのは「1光子状態を発生する装置」の開発についてです。これは通信の盗聴を知ることができる 量子暗号技術に欠かせない技術です。インターネット上の通信で秘密を守りたい場合は、「暗号鍵」と呼ばれるランダムな 0、1の信号列を受信者と送信者で所有する必要があります。一度、鍵を所有してしまうと暗号解読が不可能であることが 数学的に証明されています。問題は「誰にも知られずに鍵を所有する」という点です。現在の通信手段ではいつ、どこで、 誰が盗聴をしているか知ることはできません。しかし量子暗号(正確には量子鍵配布)の技術を用いることで 「盗聴されていることを知ることができ」、安全に鍵を所有することができます。そのためには1光子のみを発生する 装置が必要となります。なぜなら、光子という物理状態は量子力学が支配する領域であり、量子暗号の安全性は量子力学の 原理により保証されているためです。光子発生器に関しては、今までに様々な方法が検討されていますが、私たちが提案 している方法(図3)は、指向性が良い・常温動作可能・高ビットレートに対応可といった利点があります。現在、 共同研究先のグループと連携しながら、実現に向けて研究を行っています。

次に紹介する「光子が何個到着したかを判別する装置」は、光を用いた量子情報処理にとって非常に重要な要素技術と なっています。現在通信で使用されているレーザー光に対する量子情報処理を行う場合、光子数を増やす・減らすといった 操作が必要になります。しかし、このような操作は非常に効率の悪い物理過程でしか現在のところ達成することが できません。そこで、制御したい光に対して別の光を結合したり、分割したりすることで擬似的に光子数を増減し、 最後に光子数を判別できる検出器により必要な部分だけを抜き出す、といった方法が提案されています。このためには 光子を高い効率で検出できる能力と、1光子のような微弱なエネルギーレベルを判別する能力が必要となります。現在、 検出効率を低下させない工夫や、装置に使用する素子の雑音を徹底的に排除する機構の開発を、NICTの光エレクトロニクス グループや特殊技能を所有する企業と連携しながら行っています。

これからの展望

将来の目標は、現在の光通信で使われているコヒーレント光に対して、量子情報処理を行うことです。「量子情報源符号化」 と「量子通信路符号化」に対する原理実証は終えたと書きましたが、残念ながら現実の光通信に応用できる技術水準では ありません。現在の光通信で用いられているコヒーレント光の量子状態を制御するためには、本稿で紹介した要素技術を 利用することで可能であると確信しています。

あらゆる光の量子状態を思いのままに操ることができ、さらなる通信環境の向上が達成されたとき、想像もつかない 通信サービスが展開されていることを「一昔」前の今から楽しみに、研究を行っています。


Q. "量子ゆらぎ"とは何ですか。
A. 量子力学の不確定性原理に起因する、測定時に消すことのできない雑音のこと。例えば、同じ条件で 出射されている微弱なレーザー光のエネルギー(光子の数)を、同じ条件で繰り返し測定しても、同じ結果は得られません。 知ることができるのはエネルギーの平均値と測定値の「ゆらぎ」幅です。量子情報技術グループの目標の一つは、 この量子ゆらぎを制御することや、量子ゆらぎが引き起こす通信限界を克服することです。
Q. "コーヒレント"光とは何ですか。
A. コーヒレント光のコーヒレントとは、「可干渉性の」という意味があります。コーヒレントな光とは、 電波のように周波数や位相が揃っていて、長い距離での干渉が可能な光のことです。ちなみにコーヒレント光通信とは、 干渉性を利用する光通信のことで、送信側で振幅、周波数、位相などの変調を行う際に、受信側はそれに同期させて 検波を行うことで、受信感度を高めることができます。

量子暗号は近い将来実用化が期待
量子情報技術を用いた通信は、平成12年から情報通信研究開発基本計画において、新たに追加された重点研究プロジェクトの 一つです。このように比較的新しい分野なので、本稿の前半で紹介した通信容量に関する研究のように学術的に興味深い 基礎研究もあれば、後半で紹介した量子暗号などは比較的近い将来の実用化が期待されています。また、通信では「光」が 主導権を握っていますが、量子計算に関しては核磁気共鳴、イオントラップ、超伝導、量子ドットを扱う研究者達も実現に 向け、しのぎを削っています。