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量子暗号特集・巻頭インタビュー
実用化まであと一歩「量子暗号ネットワーク」の研究 現在利用されている暗号化技術に代わる安全性の高い量子暗号ネットワークの実現が目前に 新世代ネットワーク研究センター 量子ICTグループ グループリーダー 佐々木 雅英

NICTは、2010年秋に次世代の暗号化技術である「量子暗号」を利用したネットワークの大々的な実験を行いました。既存の光ファイバを利用した、より高度な安全性を持つ量子暗号とは何か。実用化まであと一歩というところまで来た量子暗号ネットワークについて話を聞きました。

量子暗号はどのようにして誕生したか

量子通信、量子暗号はどのようにして生まれたのでしょうか。

佐々木 1900年初頭に量子力学が生まれ、それから半世紀ほど経って1960年代にレーザーが発明されるとほぼ同時に量子通信の概念も生まれました。それまで通信は電波を利用して行われてきましたが、実はレーザーに使う光の粒子のエネルギーは、温度に換算すると光子1つで1万度くらいに相当するのです。それだけのエネルギーを持っているレーザーを使えば、電波よりももっと情報量の大きな通信が出来るだろうというアイデアがあって、そこから少しずつ量子通信は発展して行きました。ただ、当時はまだ光ファイバが実用化の段階にはなく、物理学の理論的な学問でしかありませんでした。

 1980年代に入って、量子通信は非常に大きな転換点を迎えます。量子通信が具体的な暗号に利用出来ることが分かったり、光子だけでなく原子や分子を操る技術が実現されたことで、量子計算などあらゆる情報通信に量子を利用するというアイデアがどんどん生まれるようになりました。量子暗号が具体化するきっかけは偶然だったそうです。1982年に当時IBMで量子力学を研究していた物理学者のチャールズ・ベネットとモントリオール大学の暗号学者ジル・ブラサールが休暇で来ていたプエルトリコのプールで偶然出会って、何気ない会話から量子暗号の理論が生まれたそうです。このエピソードにちなみ、1984年の国際会議で彼らが発表した最初の量子暗号プロトコルは、BB84と名付けられています。

そこから量子暗号の研究が広がっていったのですね。

佐々木 いいえ、しばらくは「そんな理論もあるね」といった程度で、少しずつ研究はされていましたが、BB84に誰も注目しませんでした。しかし、1994年に米ベル研究所の研究者ピーター・ショアが「量子コンピュータが実現すれば、現在の暗号はすべて破れてしまう」という理論を発表したことで、量子暗号が注目され、研究が一気に広がりました。量子コンピュータの技術は現代社会の基盤を揺るがすことになる。こうなると、学術研究というより国家戦略のレベルになりますね。ちょうど冷戦が終結した頃で、核による抑止力から、情報通信技術でいかに優位に立つかということが国家の存亡を左右する時代になっていましたから、現代の暗号を解読する技術があるとなれば、どの国よりも先に量子コンピュータを持とう、あるいはより安全性の高い量子暗号技術を獲得しようという話になります。アメリカやヨーロッパでは国家戦略として進められたため、この時期から発表される論文の数も爆発的に増えました。

日本での量子暗号研究はどのような状況でしたか。

佐々木 私は1996年に当時の通信総合研究所に博士研究員として採用されたのですが、量子通信の研究が1年であっというまに発展し、すさまじい数の論文が発表されて追いつくだけでも大変でした。しかし日本での量子通信は、まだ細々と研究されている程度でした。

海外に比べると日本は冷めていたのでしょうか。

佐々木 そんなことはありません。携わる研究者は限られていましたが、アメリカと渡り合えるレベルの理論研究が行われていました。日本は、国家レベルのプロジェクトが立ち上がった欧米のような状況ではなく、2000年くらいまでは30名程の研究者が研究会を作って討論を交わすというような状況でした。2000年に科学技術振興事業団、現在の科学技術振興機構が、量子暗号を研究課題のタイトルに謳ったプロジェクトを採択したことが、国家レベルでの量子暗号研究の始まりでしょうか。実は、1998年くらいから当時の郵政省は日本電信電話株式会社(NTT)や主要な大学の研究者にヒアリングをして、量子通信研究の立ち上げを検討していました。99年には調査報告書を作り、2000年には江崎玲於奈博士を議長にした研究会を組織しました。そして、2001年には私がリーダーを命じられた研究グループがNICTに作られ、通信を主体にした量子情報技術の研究が始まったのです。

量子暗号はどのように暗号化しているのでしょうか。

佐々木 量子暗号は、量子鍵配送と鍵を使って暗号化するという2つのステップがあり、量子鍵配送では「0」と「1」のランダムな数列、「鍵」を作り、送受信者以外には絶対傍受されない状況で共有します(図1)。データに鍵を足し算して送信し、受信したデータにもう一度鍵を足せば元のデータに戻るという、極めて単純な方式です。量子暗号では傍受されれば必ず分かりますし、同じ状態での複製が不可能という特性を持っているので、安全な暗号といえるのです。

 現在の暗号化技術でも鍵は使われていますが、単純な足し算ではなく素因数分解を使った複雑な仕組みを使っています。ですからめったに解けるものではないのですが、コンピュータの能力が上がれば解けるようになります。1つの暗号化方式が破られるまでの平均寿命は、約13年と言われています。量子暗号は、理論上こうした問題はありません。

図1● 量子暗号における操作の概要図。量子鍵を共有していなければ、たとえデータを傍受できたとしても元のデータに戻すことはできない。

量子通信とは何か

量子通信を簡単に説明していただけますか。

佐々木 端的に言いますと、光が持っている性質、潜在能力を全部使い切る究極の通信技術と言えます。今の光による通信は、エネルギーの塊としてしか制御されていません。光のパルスを出すか出さないかで、「0」と「1」の信号を表しています。しかし、光を波と考えた場合、波と波がぶつかると波が強くなったり弱くなったりと相互に作用します。このような性質まで使うと、今の光通信よりもはるかに多くの情報量を伝えることが出来るようになります。

 さらに、光は波の性質を持っていると同時に、粒の性質も持っています。光の粒、つまり光子としての性質を利用出来るようになると、どんな盗聴でも検知する暗号を作ることが可能です。光子を盗聴するということは光子を抜き出すということで、抜き取られた部分は光子が抜け落ちたまま受信されるため、盗聴されたことがすぐに分かってしまうのです。

 そして、1つ1つの光子から最大の情報を引き出せるような技術が出来れば、同じエネルギーの信号でも今よりも遙かに多くの情報を伝えることが出来るようになります。つまり、物理法則が許す限りの究極の通信技術が量子通信と言えます。

どのくらいの情報量を通信出来るようになるのでしょうか。

佐々木 通信は、エネルギーを注ぎ込めば注ぎ込むほど、いくらでも情報量を増やすことが出来るのですが、現在の光ファイバには利用出来るエネルギーに上限があります。光ファイバは、髪の毛数十本程度の太さのガラスで作られていて、大気よりも透明度が高く遠くまで光を送ることが出来ますが、せいぜい10ワット程度の光しか流せません。それ以上のエネルギーを使うと、ファイバが溶けてしまうのです。ですから、現在は限られたエネルギーで、どれだけの情報を送り出せるかが、通信における問題点となっています。その他にも、雑音などさまざまな問題がありますが、それらを考慮した上で、今私たちが考えられる技術をすべて駆使すれば、人類が達成し得るだろう通信の容量が理論的に判明しています。今の私たちには、現在と同じ10ワット程度のエネルギーで、どのような光ファイバを使えば、どのくらいの伝送レートで通信出来るかが分かります。ただし、それをどのように実現するかはこれからの課題ですね。

 有限のエネルギーでは、無限の情報量を送ることは出来ませんが、「ここまでは到達出来るはずだ」ということだけは証明されています。おそらく、あと半世紀もすれば新しい材料などが作られて、考えられる上限の情報量まで扱えるようになるでしょう。それ以上に通信の情報量を増やすには、ファイバの本数を増やすしかなくなります。ただ、そのような状況になると、人類のライフスタイル自体が変化せざるを得ないのではないか、という見解もあります。量子通信の理論では議論されていますが、現実には乗り越えなければならない多くの壁がありますね。

量子暗号はすでに利用され始めている

量子通信では理論が先行しているということですね。

佐々木 量子通信に限らず、情報技術は理論が先行してきました。現在、誰でもが使っている携帯電話も、元々の理論は1948年にクロード・シャノンが発表した、「0」と「1」で画像や音声などの情報を送るための「情報理論」が最初でしたが、当時はどうやって実現すればいいのかは全く分からない状態でした。シャノンが予言した通信性能に到達したのは、最近のことです。現実が理論に追いつくためには、約半世紀ほどかかったことになりますね。

量子通信が実現するのはまだ先ということですか。

佐々木 やはりあと半世紀はかかるだろうと思います。ただし、量子通信はまだ実用化されていませんが、量子暗号は使われ始めています。量子通信といっても大きく2つの方向性があって、1つは限りなく大容量という方向、もう1つが絶対安全、セキュリティという方向です。現在はどちらかといえばセキュリティ方向、すなわち量子暗号の実用化が進んでおり、欧米では実際に量子暗号で通信する製品も市販されています。購入しているのは研究機関がほとんどですが、一部は銀行などにも納入されているということです。

日本で量子暗号が実用化されていないのはなぜでしょう。

佐々木 欧米で機器を販売している企業は、少人数のベンチャー企業なのですが、日本ではそうしたベンチャー企業が無いということでしょう。実は、過去に量子暗号を扱いたいというベンチャー企業があったのですが、1980年代のことで国家プロジェクトが立ち上がる前でしたから、タイミングが合わず話は無くなってしまいました。日本では、2001年から日本電気株式会社(NEC)と三菱電機株式会社(三菱電機)、NTTが、NICTからの委託を受けて量子暗号機器の開発を行っていますが、製品としての実用化までには品質保証などの大きな壁があるため、まだ実用化段階には至っていません。

実用化一歩手前まで来た量子暗号通信

NICTではどのような研究を行っているのでしょうか。

佐々木 2010年10月以降、NECと三菱電機、NTTが開発した装置と、私たちが設計した暗号ネットワークを組み合わせて長期運用する実験を行っています(図2)。長期の運用をしてみると、やはりいろいろなトラブルも起きます。たとえば、年末に稼働させたまま正月休み明けに見ると機器が止まっている。原因を調べてみるとプログラムの1つの変数が4日で容量を超えてエラーを起こしていたというような、本来出来て当たり前のところでつまずくこともあります。また、量子暗号に使用する機器は非常に高精度なものなので、これまでの機器では問題が起きなかったような極めて小さい雑音を拾ってしまうという問題も起きています。

図2● 2010年10月に行われた実験。各ノードに配置された量子暗号装置は、既存の光回線で繋がれている。

量子暗号ネットワークが構築されているのですか。

佐々木 実際に道路に敷設されている光ファイバなど、現在利用されているインターネット機器と量子暗号装置を組み合わせた実験環境を構築しています(図3、図4、図5)。小金井~大手町間の45kmの距離を光ファイバで繋ぎ、100kbpsという通信速度で通信を行える暗号鍵の生成と復号が出来る状態です。大容量の高速通信とは言えない速度ですが、量子暗号通信では世界でもトップレベルのパフォーマンスと安全性を持っています。

図3● 量子暗号実験装置少しでも雑音を減らし、余計な光を入れないため、暗幕によって覆われた区画内に装置全体が設置されている。図4● 超伝導光子検出器超伝導光子検出器を使うことで、光子の検出効率を高め雑音を減らせる。長距離かつ高速な量子暗号通信には不可欠な装置。図5● 量子暗号ネットワーク監視装置一般に普及するためには、小型化する必要がある。

 2010年に行った実験では、6カ所の拠点を結んで量子暗号ネットワークを構築し、途中に高度な傍受装置を配置しました。そして、実際に傍受されたことが分かるか、傍受されたら別の経路に迂回させられるか、その間データは途切れることはないか、といった試験を繰り返し行ってきました。

完全に安全なネットワークがすでにあるのですね。

佐々木 人類が知りうる限り最高の暗号化技術ですが、絶対に盗聴されないかどうかはこれからの試験にかかっています。というのも、どんな装置でも理論通りには作れないからで、どこかにミスがあるなど、予想もしなかったような不完全性があるものです。また、サイドチャネル*による盗聴や、実際に盗聴された場合にどうやって盗聴者を排除するかといった、量子暗号の理論とは別の暗号技術全体に関わる問題もあります。

日本で量子暗号が実用化されるのはいつ頃になるでしょうか。

佐々木 今後5年程度かけて、実証実験から実用実験の段階に入ります。この間に日本政府が量子暗号を正式に認めてくれるかどうかが、実用化に向けての勝負になると考えています。ただし、一般のユーザーが量子暗号を利用するようになるためには、伝送距離や伝送速度の課題があるため、まだ10年ほどはかかるかも知れません。

本日はありがとうございました。

用語解説

  • * サイドチャネル
    暗号システムにおいては、平文や暗号文そのものへの攻撃の他、装置からの漏洩電磁波や消費電力の観測などからも情報を盗み取られ、解読に利用される場合がある。このようにプロトコル自体が安全であっても装置の実装が不完全であったり周辺環境によっては、暗号システムに関する情報にアクセスする方法が存在し、それをサイドチャネルと呼ぶ。
佐々木 雅英
佐々木 雅英(ささき まさひで)
新世代ネットワーク研究センター 量子ICTグループ グループリーダー
大学院博士課程修了後、NKK(現JFEホールディングス)勤務を経て1996年に通信総合研究所(現NICT)入所、量子情報通信技術の研究開発に従事。東北大学電気通信研究所、上智大学理工学部客員教授。博士(理学)。
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