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バイオコミュニケーション技術の研究開発

大岩 和弘 (おおいわ かずひろ) - 基礎先端部門 関西先端研究センター 生体物性グループ グループリーダー

1988年、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了(理学博士)。1993年、通信総合研究所(現NICT)に入所。 以来タンパク質モーターの単一分子計測とその応用研究に従事。兵庫県立大学客員教授。2005年、第23回大阪科学賞受賞

「いきもの」は技術と知識の宝箱

「ビーナスの花籠」と呼ばれる大変美しいガラス海綿があります。細胞が作り出すガラス繊維でできた籠状の海綿です。 和名を「偕老同穴」(カイロウドウケツ)といい、この中に一対のエビが生息し一生をこの中で暮らすことから仲のよい 夫婦のたとえとして良く知られています。このガラス繊維の横断面を見ると、「ケイ酸でできた中央のコアをクラッドが 囲む」という、光ファイバーと同じ構造を持っていることがわかりました(Sundar et al., Nature424、899(2003 ))。 単一モードあるいはマルチモードの光ガイドとしての特性を持っているのです。有機物で接着した層構造を持つために クラックに強く、さらに細胞が常温で作り出すこの繊維には光特性を変えるための不純物の添加が容易に行なえる可能性が あり、生物に学ぶ合成法として注目されています。また、ある種のハエは、わずか0.5mmしか離れていない2つの耳(鼓膜)を 使って、仰角2度以内という極めて高い精度で音源の位置を探しあてる能力を持っています。音が左右の鼓膜に到達する 時間の差はわずか50nsec。この時間差を受容体電位の位相差情報として蓄積して、極めて高い精度の位置検出を可能と しているのです(Mason et al., Nature 410, 686-690 (2001) )。これはマイクロ・ナノセンサーを作るときに役立つ 情報処理技術です。これだけではありません。「いきもの」にはすばらしい能力がまだたくさん隠されています。 「いきもの」の機能や活動を研究対象にしたいとは思いませんか?

材料としてのタンパク質

私たちのグループは、タンパク質を研究対象としています。「タンパク質」といえば、多くの方は栄養素を想像し、 その印象は「やわらかい」、「ぐにゃぐにゃしている」、「腐る」というものでしょう。タンパク質は本当にやわらかくて、 脆弱なのでしょうか? クモの糸はタンパク質でできています。太さ5-10 ミクロンと大変細い繊維です。このくもの糸の 引張り強度はスチールワイヤーと同じです。 クモの糸が直径1mmもあれば、人一人が楽にぶら下がることができるのです。 これだけの強度があるにもかかわらず、クモの糸はしなやかです。多くの生体素材は、強さとしなやかさを兼ね備えています。 また、私たちの筋肉の中にたくさんある球状のタンパク質・アクチンのヤング率は2.3GPaです。これは、硬質のプラスチック、 ポリプロピレンと同じです。意外に硬いのです。タンパク質は、大きさ数十ナノメートル、構成している原子数10万から 100万の不均一の物質です。その一つ一つが生命活動に関わる機能を持っています。ナノ素材として大変興味深い研究対象です。

「いきもの」のからくり

「いきもの」はタンパク質を使った大変優れたからくりを、沢山持っています。人工機械ではいまだ、まねのすることの できない優れたからくりです。生物の個体から、細胞レベル、そして生体分子にわたるあらゆる階層で見出される、 自己複製機能、自己組織化機能、柔軟性、可塑性、そして、生体の示す高いエネルギー変換効率などは、人工的に利用する ことができれば人類に恩恵をもたらす能力ばかりです。生命に新しい技術を学ばない手はありません。

私たちの体の中に存在する「繊毛」と呼ばれる細胞小器官は、髪の毛の太さの千分の1、およそ200ナノメートルの太さ、 長さ20ミクロンほどの細長い鞭のような装置です。大変たくさんの繊毛が数十Hzで波うち運動をして、全体で波を伝播させて 小さな粒子や液体を輸送します。この繊毛の動きを作り出しているのが、ダイニンというタンパク質です。私たちは、 ダイニンが独自の周期でその形を変化させることを明らかにしてきました。繊毛の中では、形成された曲がりが、減衰する ことなく、次第に繊毛の先端に向かって伝播します。これは、ダイニンの運動活性の高い領域が秩序だって規則的に繊毛の 中を移動していくことを示しています。ダイニン同士には電気的な連絡はなく、中央で集中的に運動が制御されているの でもありません。力という情報の担い手によってもたらされた情報によって個々のダイニンがその運動を自律的に変化させ、 システム(繊毛)全体の統合された運動を作り出しているのです。コンピュータの中で働くシリコンでできた素子の場合、 このような素子同士の相互干渉は起こりません。もし起こればそれは故障です。「いきもの」は、弱い相互作用を利用して 生体素子を自律的・自己組織的に機能させているのです。ダイニンの分子ひとつの単純な構造変化が統合され、隣同士の ダイニンが情報の受け渡しを行ってネットワークを形成し、そして繊毛の波打ち運動という高い次元の、複雑な、統合された 運動を自律的に形成するのです。これは、素子機能のネットワーク化と階層性を具現化している優れた生体システムです。 情報通信技術へ役立てるためのネットワークアルゴリズムの抽出にとって、まさに最適な研究対象です。

分子通信

生体物性グループは、上述の分子や力を情報の担体とした生体分子や細胞間の相互作用、干渉作用を上手に利用して、 自律的で柔軟なナノメートルスケールのネットワークを作る分子通信技術開発を始めています。この技術開発には、 情報科学の最先端にあるカリフォルニア大学アーバイン校の須田教授のグループとの共同研究が含まれています。これは、 バイオ・ナノ・情報科学の融合領域研究として、いま、世界的に注目を集めつつある研究分野です。

生体において、物質の移動は情報の移動を意味します。ホルモンによる恒常性の維持、細胞内での情報伝達など、物質の 移動とこれによって誘起される生体分子による一連の生化学反応は生体の持つ分子通信の一例です。生体分子、細胞の 特異性の高さはシステムの感度の向上に寄与し、弱い相互作用は環境情報に対する柔軟性を確保します。また細胞や生体分子の 持つ自律性や自己組織性を直接利用することや、アルゴリズムの抽出を行なうことは、生物学や情報科学へ挑戦的課題を 提案することにつながり、新しい知の創出へつながることが期待できます。

おわりに

今から約100年前、ライト兄弟が初めて動力飛行を行ないました。当時の人々のどれだけの人が、百年後の空にジャンボ ジェット機が舞う姿を想像したでしょうか。シリコンと人類の出会いは、石器時代の火打石にさかのぼります。元素としての ケイ素の同定は80年前、単結晶ができたのは40年前です。知識の蓄積が今日のシリコン技術の繁栄を支えています。かたや、 最初のタンパク質結晶が構造解析されたのは1960年。いまもタンパク質構造や機能の解析は精力的に行なわれ、タンパク質 科学は精密科学として急速に発展してきています。機能材料としてタンパク質を捉えて利用していくための研究を始めるのは、 まさに今なのだと思います。

追記:
先日、第23回大阪科学賞を受賞いたしました。これは、研究室の優秀な同僚達と、情報通信研究機構が与えてくれた すばらしい研究環境のおかげであると感謝しております。

Q. ヤング率とはなんですか。また、アクチンは2.3GPとありますが、これはどのくらいの値なのでしょうか?
A. ヤング率は、イギリスの物理学者トーマス・ヤング(1773〜1829年)が定義した、"硬さの値"のことです。物を引っ張った 際の、伸びと力の関係から求められる値で、物質に固有のものです。"金属"を例に取ると、鋼鉄は206GPa、銅は130GPa、 金は78GPaといわれています。なおGPaは、ギガ・パスカルと読みます。
Q. ダイニンとはどのようなものですか。
A. ダイニンは、生物の運動を作り出す"タンパク質モータ"の一つで、鞭毛や繊毛などを動かすモータとしてよく知られています。 そのほか、細胞内のさまざまな物質の輸送を行う機能を持つものもあります。なおタンパク質モータにはダイニンほか、 骨格筋収縮などを行う"ミオシン"、細胞内の物質輸送に関与する"キネシン"というものもあります。

タンパク質は、超小型の情報処理・機械装置になる
これまでの研究成果としては、ダイニン1分子の観察のほか、基板上に作成したパターンを使ったタンパク質モータの動きの 制御(コントロール)などがあります。いろいろなタンパク質分子を組み合わせることで、重さ0.000000000000000001g (マイナス17乗分の1g)の"分子自動車"を作ることができ、その車に情報を載せたり降ろしたりして、通信に利用することが 可能になると考えられています。また、日本全国の陸上交通・物流システムに相当する情報や物質の流通を、1cm四方に 収めてしまうような、高度情報処理・物質分配システムのバイオチップの製作も可能になると考えられています。