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脳情報を利用した情報通信技術を目指して −脳の柔軟な言語理解のメカニズムの研究− 未来ICT研究所 脳情報通信研究室 主任研究員 井原 綾

はじめに

「真に欲しい情報が手に入り、伝えたい情報が伝わる」情報通信の質的な技術革新を目指して、脳情報通信研究室では、コミュニケーションにおける人のこころの状態や動きを脳活動から客観的に評価し、脳情報(脳活動から得られる情報)を情報通信技術に利用するための研究開発を進めています。情報を有効に活用するためには、単にたくさんの情報を受け取るだけではなく、情報を理解することが必要です。脳の言語情報の理解は実に柔軟です。例えば、会話をしているとき、相手の話が少しくらい聞き取れなくても、前後の流れから内容を把握することができます。このように、日常触れる言語情報は曖昧さを含んでいることが少なくありませんが、人の脳は、状況に応じて意味を読み取ることができます(図1)。コンピューターでは、「AならばB」のようにプログラム通りに処理を行い、プログラムに書かれていないことはできません。さまざまな状況に適応できる柔軟な情報処理は、まさしく人の脳の特質と言えます。これまでに私たちは、非侵襲的脳活動計測*1によって、脳が文脈を使って柔軟に言語情報を理解するときの脳内処理を解明してきましたのでご紹介します。

図1●人の脳の柔軟な言語理解
図1●人の脳の柔軟な言語理解

意味的に曖昧な言葉の理解

日本語には、“こうえん”のように文字の形態や音韻は同じで、全く異なる意味(公園、講演、後援、公演など)をもつ言葉が多く存在します。このように複数の意味をもつ多義語はそれだけではどの意味を指しているのか確定されず曖昧な情報ですが、「ポチを連れて“こうえん”に散歩に行った」と聞けば、曖昧だと感じる間もなく、すぐに“公園”だとわかります。

私たちは、言葉の意味的な曖昧さがどのように解消されて、意味が1つに確定するのか、その脳内プロセスの研究に取り組んでいます。これまでに、脳磁界計測法(MEG)*2(図2)を用いて、多義語の意味の活性化と意味確定に関わる脳活動をとらえることに成功し、文脈による意味的曖昧性の解消には、左半球の下前頭部という部位が重要な役割を果たすことがわかりました。実験結果から、多義語の意味を確定する際には、次のような脳内プロセスを経ていることが考えられました。多義語を受け取ると、まずは文脈に関係なく単語がもつ複数の候補となる意味が自動的に活性化されます。このボトムアップ処理だけでは、解は1つに定まりません。そこで、多義語を受け取った約0.2秒後から、左前頭部の働きにより、文脈の手がかりを利用した意味処理が開始されます(図3)。これをトップダウン処理と呼びます。トップダウン処理では、文脈と整合性のない意味の活性化が抑制され、多義語を受け取ってから約0.5秒後には、文脈に適した意味に収束します。

この結果は、候補となる複数の意味表象が一旦は並列的に賦活した後、文脈によって意味が1つに収束するという心理学研究で提案された多岐的アクセスモデルを、脳活動レベルで実証したものです。脳が、その有するボキャブラリを並列的に活性化させることは、人間の柔軟な意味理解のキーメカニズムとなっていると考えられます。

最近では、経頭蓋直流刺激法(tDCS)*3(図2)を用いて、左前頭部に対して非侵襲的に刺激を与えることにより、言語理解を促進させる研究も進めています。

図2●脳磁場計測装置(左)と経頭蓋直流刺激装置(右)
図2●脳磁場計測装置(左)と経頭蓋直流刺激装置(右)

図3●意味的な曖昧性と文脈との関連性に関わる脳活動
図3●意味的な曖昧性と文脈との関連性に関わる脳活動
単語呈示約0.2秒後から、曖昧性処理が開始した後(右上図)、やや遅れて、文脈処理が開始します(右下図)。これは、多義語を理解する過程では、文脈と関係なく、一旦は複数の意味の候補が活性化することを示しています。

言葉に込められた感情の理解

相手が話す言葉の意味さえわかれば、うまくコミュニケーションがとれるというわけではありません。円滑なコミュニケーションには、言語情報の理解だけではなく、感情情報の理解も不可欠です。例えば、子どもが明るい声で「ただいま」と帰ってきた時と沈んだ声で「ただいま」と帰ってきた時、同じ「ただいま」という言葉であっても、それを聞いた母親の受け取り方は異なるでしょう。これは、声の調子から感情をくみ取り、言語情報とともに理解しているためです。このように、感情情報が言葉の理解に影響を与えることは経験的には知っていましたが、その神経基盤はわかっていませんでした。そこで私たちは、感情情報に応じて言葉を理解するときの脳内プロセスを調べるために、脳磁場計測実験を行いました。

実験では、感情(嬉しい、悲しい、ニュートラル)を込めて発せられた音声を聞いた後に、単語を黙読した場合の脳活動を計測しました。感情的な音声と無感情な音声を聞いた後とを比較すると、単語を黙読した約0.3秒後に右前頭部の脳活動に違いが現れ、更に、その約0.1秒後には、感情的な音声が嬉しい場合と悲しい場合とで、左前頭部の脳活動に違いが生じました(図4)。このことから、感情情報を利用した言語理解には左右半球の前頭部が重要な働きをすることがわかります。

この研究で、同じ言葉であっても、感情情報の影響によって分離する脳活動パターンをとらえることができました。現在の技術では、人が情報をどのような感情として受け取ったのかを評価することは困難ですが、今後、脳情報の利用によって、より詳細な感情の客観的評価法への発展が期待されます。なお、本研究成果は、日経産業新聞等で取り上げられました。

図4●感情情報を利用して言葉を理解するときの脳内プロセス
図4●感情情報を利用して言葉を理解するときの脳内プロセス
右前頭部では単語呈示約0.3秒後に感情的か否かで脳活動に違いが現れ、更に、その約0.1秒後には、嬉しいか悲しいかで、左前頭部の脳活動に違いが認められました。

今後の展望

言語は人のコミュニケーションの中心的役割を果たしています。脳が言語を理解するメカニズムの研究は、将来的には、情報の理解をサポートし、情報の利活用を促進する技術の開発につながります。脳が柔軟に言語情報を理解するメカニズムを明らかにできれば、さまざまな状況に臨機応変に対応できるコミュニケーションインターフェイスの実現につながると考えています。

用語解説

*1 非侵襲的脳活動計測
 外科的手術が不要で痛みや副作用を伴わずに脳活動を計測する

*2 脳磁界計測法(MEG: Magnetoencephalography)
 高感度の磁気センサーである超伝導量子干渉素子を頭のまわりに多数配置し、神経活動に伴って発生する微弱な磁界を計測する手法です。ミリ秒単位の高い時間分解能で脳活動を調べることができます。

*3 経頭蓋直流刺激法 (tDCS: Transcraminal Direct Current Stimulation)
 頭皮上にパッド電極を置き、微弱な直流電流を通電する手法です。刺激部位の興奮性を一時的に変化させることができます。

井原 綾 井原 綾(いはら あや)
未来ICT研究所 脳情報通信研究室 主任研究員

大学院修了後、大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 生理学研究所 研究員を経て、2005年、NICTに入所。脳の言語理解に関する研究に従事。博士(保健学)。
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