ポイント

  • 脳の記憶の初期段階を調節する分子メカニズムを解明
  • シナプトタグミン7の量を変えることによって、神経伝達の可塑性を調整することに成功
  • ヒトの脳細胞の記憶に、より近づいた新しい人工知能の開発への応用を目指す
国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT、理事長: 徳田 英幸) 未来ICT研究所の吉原 基二郎 総括研究員のグループは、脳の短期記憶の増減のスイッチメカニズムを発見しました。
本実験では、マサチューセッツ工科大学(MIT)において作成されたシナプトタグミン7という分子の突然変異体を利用し、シナプトタグミン7の欠損及び発現調節の実験から、記憶の始まりを担う短期シナプス可塑性であるシナプス促通がシナプトタグミン7の発現量に応じて連続的に増大したり減少したりすることを発見しました。今まで、短期シナプス可塑性の分子機能はほとんど理解されていなかったので、その分子メカニズムが明確に示されたのは今回初めてのことです。
なお、本成果は、2021年2月18日(木)に、英国科学雑誌「Scientific Reports」に掲載されました。

背景

人工知能は脳のように情報処理を行う計算機のことですから、脳の記憶がどのようにしてできるかがまだ解明されていない今、本物の脳の機能を摸したマシンはまだつくれません。そこで、NICT未来ICT研究所 記憶神経生物学プロジェクトでは、脳内情報通信のキーである記憶形成の基本原理を追求し、それを人工知能に応用する研究に取り組んでいます。

今回の成果

図1
図1 シナプトタグミン7の量が、短期可塑性での“増えるか減るか”を決めている
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我々は、今回、脳の神経伝達の増大と減少のスイッチ機構を発見しました。
その方法として、当プロジェクトでは、ショウジョウバエの卵の中の神経と筋肉の間のシナプス伝達を電気記録するという世界でも当プロジェクトのみが使用できる実験技術で、シナプトタグミン7分子を欠損する突然変異体のシナプス伝達を調べました。
神経細胞のつながる部位であるシナプスには、シナプトタグミン1、4、7が局在しています。このうち、シナプトタグミン7の機能は、今までは、ほとんど理解されていませんでした。
シナプス伝達が連発刺激につれて次第に大きくなるシナプス促通(図1上参照)は記憶の初期現象であり、シナプス伝達の後でシナプスに残存するカルシウムによって起こるということが以前から分かっているので、カルシウムに結合する性質を持つシナプトタグミン7は、シナプス促通における役割が期待されます。
シナプトタグミン7が欠損していると、正常より何倍ものシナプス伝達が起こっていることが分かりました(図1下参照)。これは、シナプトタグミン1でも確認されたシナプス伝達のストッパーとしての機能をシナプトタグミン7が持つことを意味します。それに伴って、伝達物質が過剰に放出されて枯渇するため、シナプス促通が見られません。染色体の片方だけがシナプトタグミン7を欠損する突然変異体の場合はシナプトタグミン7の量が半分になるのに伴い、両方ともが欠損したものと正常のちょうど中間程度のシナプス伝達と促通になりました。さらに、シナプトタグミン7を過剰発現させると、正常より更にシナプス伝達は抑えられ、その分、シナプス促通は大きくなります。
つまり、シナプトタグミン7の量が多いほど、シナプス伝達をより抑えることによって、シナプス促通の程度は大きくなる、ということを明らかにしました。

今後の展望

今後は、短期可塑性に続いて長期可塑性へと変換される仕組みを追求していく予定です。
短期記憶から長期記憶へ変化するメカニズムを解明するため、当プロジェクトでは、以前Science誌に提唱した記憶の一般仮説である“ローカルフィードバック仮説”(用語解説 図2参照)をベースとして、記憶の原理を追求しています。この仮説は、短期記憶から長期記憶に移行する仕組みを説明していますが、そこでのシナプトタグミン7の役割も調べていく予定です。

各機関の役割分担

  • 情報通信研究機構: シナプトタグミン7突然変異体からの電気生理学的なシナプス伝達の解析
  • MIT: シナプトタグミン7突然変異体の作成

論文情報

掲載誌: Scientific Reports
DOI: 10.1038/s41598-021-83397-5
論文名: Synaptotagmin 7 switches short-term synaptic plasticity from depression to facilitation by suppressing synaptic transmission
著者: Takaaki Fujii, Akira Sakurai, J. Troy Littleton, Motojiro Yoshihara
 
なお、本研究の一部は、文部科学省科学研究費補助金基盤研究A「“記憶の局所フィードバック仮説”ーその中枢単一同定ニューロンでの検証」(研究者:吉原基二郎;JP19H00998)、文部科学省科学研究費補助金新学術研究(スクラップビルド)(研究者:吉原基二郎;JP19H04767)、文部科学省科学研究費補助金スタート支援(研究者:吉原基二郎;JP26891030)、文部科学省科学研究費補助金若手研究(研究者:櫻井晃;JP16K18375、JP19K16275)、NIHグラント(研究者:J. Troy Littleton;NS40296)の助成を受けて行われました。

用語解説

シナプトタグミン7 synaptotagmin 7
シナプトタグミンファミリーは、膜貫通部位と二つのカルシウム結合部位を持つタンパク質群である。代表的なシナプトタグミン1がシナプス伝達のカルシウムセンサーとして働くことがよく研究されているが、シナプトタグミン7の機能はよく分かっていなかった。
短期シナプス可塑性 short-term synaptic plasticity
神経細胞同士がつながる部位を“シナプス”と呼び、シナプスの変化が記憶をつくると考えられている。約1時間以内の短時間続くシナプス変化を“短期シナプス可塑性”と呼び、これが短期記憶をつくると考えられている。これが固定化されると、永続的な長期記憶を担う長期可塑性となる。
シナプス促通 synaptic facilitation
最も即時的に(約1秒以内に)起こる短期シナプス可塑性で、連発刺激によってシナプス伝達が大きくなる現象。短期記憶の始まりを担うと考えられている。直前のシナプス伝達時に神経終末に流入したカルシウムの残り(残存カルシウム)がこれをつくると考えられているが、詳しい分子細胞メカニズムはまだ分かっていなかった。
ローカルフィードバック仮説 local feedback hypothesis
短期記憶が固定化されて長期記憶へと変化するための細胞機構を説明する一般仮説。シナプスにおいて、両側の細胞がお互いに強め合うことが短期記憶をつくり、それがシナプスの成長を促して長期記憶に変化する、と仮定する。ショウジョウバエの神経と筋肉の間のシナプス可塑性における知見によって提唱されたが(Yoshihara et al., Science, 2005)、NICTにおいて、脳内の記憶での検証が進んでいる。

図2
図2 記憶の一般細胞機構候補としてのローカルフィードバック仮説(Yoshihara et al., Science, 2005)

本件に関する問合せ先

未来ICT研究所
フロンティア創造総合研究室

吉原 基二郎

Tel: 078-969-2236

E-mail: motojiroアットマークnict.go.jp

広報(取材受付)

広報部 報道室

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