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現代の情報技術の基礎となっているデジタル情報{0, 1}は、外界からの操作がなければ0は未来永劫0であり、1は未来永劫1でなければなりません。ところが、原子スケールの世界では、0でもあり1でもあるような情報を作ることができます。20世紀の終わりには、人間の手が原子スケールの現象を直接制御できるようになり、さらに光を媒介にして、数10kmも離れた地点であたかも分子のそれぞれの片方の原子を共有しているような状態さえ手に入れることが可能になって来ました。これまで、パラドックスのように見えていた量子力学的現象が、直接実験で検証され、さらに情報技術において従来には類似のない転送技術や暗号技術、信号処理技術へ応用できることが分かってきました。いまや量子力学は、情報の中心概念と深く関わるものとなったのです。

 0でもあり1でもあるような情報、数10kmにもわたって広がった分子のような状態に乗った情報、このようなお伽話の世界でしかないような情報をきちんと扱うための理論を開拓し、光の量子状態を操る技術を使って夢のような情報を現実の世界へ具現化し役立てるのが我々の目標です。

通信技術の主要課題

通信技術の主要課題は次の2つにまとめられます。

(1)いかに正確に多くの情報を効率よく伝送するか、
(2)いかに安全に盗聴されることなく情報を伝送するか。

(1) の問題を扱う理論体系は、通信の数学理論として1948年に シャノン(C. E. Shannon)によって開拓されました。(2) の問題は、有史以来、軍事などで利用されながら暗号学として発展してきました。この2つの問題は、携帯電話やインターネットの普及とともに我々にとってもますます身近で切迫した課題となっています。

 例えば、インターネットの基幹回線では、波長多重による大容量化が進み光ファイバー1芯あたり1W程度のエネルギーが流れるようになっています。数10µmというファイバー直径のエネルギー密度はすでにレーザー溶接機のレベルを超えており、何かの衝撃で溶融が起こる事態までになっています。現在の技術の延長線上では、これ以上の高密度化には遅からず限界が来ます。一方、現在一般に使われている公開鍵暗号は、盗聴しようとしても暗号の解読に膨大な時間がかかることを利用していますが、将来新しい解読法が発見されたり、コンピュータの能力が飛躍的に向上すると解読される危険性を常にはらんでいます。
 
 量子情報通信は、通信理論や暗号理論を実装する原理を、従来の電磁気学と光学だけではなく、さらに量子力学まで含めて拡張した新しい通信技術です。これは上述の2つの基本問題に対する究極的な解答を与える技術でもあります。

量子情報通信のテーマ構成

量子力学は2つの基本原理があります。1つは不確定性原理で、粒子の位置と速度を同時に正確に決定することは出来ないというものです。言い換えると対象に外乱を与えずに正確な測定をすることは不可能です。もう1つは、重ね合わせの原理で、粒子が異なる複数の状態を同時にとることができるというものです。

量子計算

まず、重ね合わせの原理を情報技術の世界に持ち込むと、0でもあり同時に1でもある情報ビット、いわゆるキュービット(Quantum bitの略)という概念を構成することが出来ます。量子レジスタを3つ用意すると、同時に000でもあり001でもあり010でもあり100でもあり 011でもあり101でもあり110でもあり111でもある状態を作ることができます。3キュービットで8通りの可能性を同時に処理できることになります。これをさらに拡張すると、複数の可能性を同時並行で探索できる超並列処理が可能になります。これが量子計算です。1994年には、アメリカの物理数学者、ピーター・ショアによって、量子計算を実行する量子コンピュータが実現すると、素因数分解など膨大な計算量を要する問題を簡単に解けることが理論的に示されました。これは、素因数分解の困難さに安全性の根拠を置く現代の主要な暗号方式も簡単に破られてしまうことを意味します。現代のセキュリティを揺るがす大きな脅威が現れたわけです。

量子暗号

しかし、幸運にももう一つの原理、不確定性原理がこの危機を救ってくれます。この原理を拡張することで、盗聴の完全な検知が可能になり、量子計算でも破ることが出来ない無条件安全な量子暗号という技術が可能になります。1982年にアメリカのチャールズ・ベネットとカナダのジル・ブラサールによって提案され、現在、実用化に最も近い量子情報通信技術として研究開発が進んでいます。

量子符号化

 一方、測定に原理的限界があるとする不確定性原理は、大容量化に最終的な伝送限界を課すことになります。そして、その量子限界まで通信性能を高めるためには、実は量子計算に基づく新しい符号化技術、すなわち量子符号化が必須の手段になるということが分って来ました。
このように従来の情報操作のルールを量子力学の法則に変更した新しい情報通信は、量子情報通信と呼ばれ、これまでにない革新的なパラダイムを拓くと期待されています。量子情報通信の研究は、重ね合せの原理と不確定性原理を基礎にして、大容量化を目指す研究とセキュリティの確立を目指す研究の2つの大きな柱からなります(図1を参照)。
 
基本原理とテーマ構成
< 図1 >

量子情報通信に基づく将来の情報ネットワーク像

量子情報

 現在我々が使っている情報の単位0と1を担うのは多くの電子、あるいは光子の集合体であり、雑音や損失が小さい理想極限では完全に識別でき、複製や増幅も可能である。このような仮定のもとで扱われる従来の情報記号のことを「古典情報」と呼びます。しかし、0と1の重ね合わせまで許すキュービットでは、状態を変えることなく複製や増幅を行うことは不可能です(クローニング禁止定理)。
 このような重ね合わせ状態によって運ばれる情報のことを「量子情報」と呼びます。量子情報はわずかな外乱や損失によって簡単に壊れてしまいます。また中身を知ろうと思って測定すると壊れてしまいます。量子コンピュータのメモリには、最終的解に至るまでのいろいろな可能性の重ね合わせ状態が保存されます。これらは一般に我々には未知の状態です。量子コンピュータを結ぶインターネットが実現すれば、 このような未知の重ね合わせ状態そのものを新たに伝送の対象としなければなりません。

量子テレポーテーション

 未知の量子状態を未知のまま遠隔地に転送する手段が量子テレポーテーションです。送受信者間であらかじめ量子もつれ状態と呼ばれる特殊な光のビーム対を共有し、送信者は手元にある光子と送りたい量子状態を一括して測定し、その結果を古典通信で受信者に伝えます。受信者は双子の光子対のもう片方に測定結果に応じた適切な変換操作を施せば、未知の量子状態が未知のまま受信者に再生されるというものです(詳細は書籍「量子情報通信」などを参考に願います)。また、量子テレポーテーションを多段に使うことで、壊れやすい量子状態をより遠くまで伝することが可能となります。これは増幅が不可能な量子情報の中継技術として重要になります。さらに、量子テレポーテーションそのものを使って量子計算を実現できることも分かって来ました。大容量化を目指す量子符号化では、光信号に対する量子計算が必要になりますが、量子テレポーテーションはまさにそのための回路構成要素として重要な意味を持ってくるのです。

量子ネットワーク

 このように量子テレポーテーションは、従来には全く類似の無い新しいネットワークや光回路の実現を可能にします。そこでは小規模の量子計算機を繋いだ量子分散処理や、量子もつれ状態を使った秘密証拠供託、個人情報を保護しながら投票や決済を行う量子認証などが可能となると期待されています。ただし、その規模は外乱や損失に弱い量子状態の劣化と言う自然の摂理で常に制限されています。量子状態を壊さずに伝送できる通信圏は技術の進歩ともに広がって行くでしょうが、実現のコストまで考えるとおのずと限界があり、むしろ限定された圏内での量子LAN(ローカルエリアネットワーク)が現実的形態と考えるべきです。
 したがって、量子情報通信がどんなに進歩しても、これまで構築されてきた通信技術に全て取って代ったり、全く独立して量子通信ネットワークとして存在することは絶対にありえません。情報ネットワークは、図2に示すように、将来的には量子LANや量子暗号ネットワークとそれらを結ぶ従来の光ファイバネットワークの基幹回線から構成されることになるでしょう。基幹回線を行きかうのは、やはり外乱や損失に耐えうる、ある程度の強度を持った、少なくとも100個程度の光子からなる巨視的で古典的な信号です。

将来の情報ネットワークのイメージ図
< 図2 >

量子ノード

 巨視的数の電子や光子の集合体に対しても、重ね合わせ状態は原理的には成り立つ話です。ただ、その緩和は構成粒子数に対して指数関数的に急激に起こるため現実の日常では目に触れないだけです。もし、そのような状態が実現できれば、我々の世界観にも大きな変革を迫るでしょう。巨視的系の重ね合わせ状態は、そのパラドキシカルな性質を「生きた猫と死んだ猫の重ね合わせ状態」 に繋げて論じたシュレーディンガー(E. Schrödinger)にちなんでシュレーディンガーの猫状態と呼ばれます。

 さて、量子情報理論の最新の成果によると、基幹回線で究極の伝送容量を実現するためには、受信側で信号パルス間に量子計算を施しながら復号を行う必要があります。これは復号回路の中にシュレーディンガーの猫状態を自在に生成し、制御しながら測定を行うことを意味します。そのためには外乱や損失を電子や光子レベルで制御できる極限環境が必要になります。シュレーディンガーの猫状態を人間の手が及ばない長距離伝送路を伝播させることは叶わぬ夢ですが、制御された極限環境下では生き延びることが可能でしょう(現在はまだそのような技術はできていない)。将来の情報ネットワークの主要なノードでは、このような極限環境の下で基幹回線を行きかう準巨視的な光信号に最適な量子制御を施せるいわゆる「量子ノード技術」が必要になります(図1を参照)。
  現在の光通信は、どんなに波長多重や多値変調を行っても、いずれショット雑音限界によって毎秒1018(エクサ)ビットの伝送レートの手前で限界が来るだろうといわれています。エクサビット/秒の壁を越えてゆく鍵が量子ノード技術であり、量子情報通信のひとつの究極のゴールです。

研究テーマの構成

 我々の研究室では「量子情報通信のための原理実証とデバイス化」ということを第1の使命と考えて研究に取り組んでいます。目指す方向は、大きく2つ、通信の基本原理の追求と計測・標準技術の開拓です。その指針を与えるのが量子情報理論です。量子力学が許す情報操作の定量化とその性能限界の解明、さらには、実際のデバイス化の方法を与えるのが目的です。
 一方で、量子情報通信の研究には、現在の技術はあまりに未熟で、未踏技術の開拓が必要になります。現在、2つの方向からアプローチしています。一つは、原子光学系を用いた量子情報処理の研究です。これは、原理実証を進める上で、最も単純でクリーンな系を提供してくれます。実用性からは、固体相における新規デバイスの開拓が望まれます。まずは、光子数を識別できる高感度の光検出器が緊急の課題です。次に、光の量子状態制御を目指して、基礎物理過程の探索を進めています。特に、光との結合に優れた電荷励起として半導体量子ドットに形成される励起子に注目し、光-励起子間コヒーレント相互作用に関する実験的研究を進めています。このような相補的な研究から、光の量子状態制御の鍵見つけ出し、量子情報通信の実現へ役立ててゆこうと思っています。

研究テーマの構成