量子コンピュータのコンパイラ高速化技術を開発

— 確率的手法により最適なゲートシーケンス探索時間を桁違いに短縮 —
2024年5月9日

国立研究開発法人情報通信研究機構
国立研究開発法人理化学研究所
東京理科大学
東京大学大学院理学系研究科

ポイント

  • 量子コンピュータで実行する最適シーケンスを生成する新しいコンパイル手法を開発
  • 新しい手法は確率的探索手法に基づき、最適シーケンスを探索する時間を桁違いに短縮
  • 量子インターネットを支える量子ノードでの量子情報処理にも貢献が期待
国立研究開発法人情報通信研究機構(NICTエヌアイシーティー、理事長: 徳田 英幸)は、国立研究開発法人理化学研究所(理事長: 五神 真)、東京理科大学(学長: 石川 正俊)、東京大学(総長: 藤井 輝夫)と共同で、量子コンピュータに最適な量子ゲートシーケンス確率的探索手法を用いて迅速に探索する技術の開発に初めて成功しました。
量子コンピュータにタスクを実行させるには、コンパイラを使い、プログラミング言語で書かれた命令を量子ビットへのゲート操作で構成されるシーケンスに変換する必要があります。私たちは、最適制御理論GRAPEアルゴリズム)を網羅的探索に応用して、理論的に最適なものを特定する手法を開発しましたが、量子ビット数が増えるに従い、可能な組合せの数が爆発的に増えるため、網羅的探索が不可能となります。例えば、6量子ビットで構成される任意の量子状態を生成するタスクに対して、もし、網羅的な探索を行って最適なゲートシーケンスを見つけようとすると、現在最速の古典コンピュータを使っても、宇宙の年齢よりも長い時間がかかります。
そこで、今回私たちは、確率的アプローチによる最適な量子ゲートシーケンスを探索する手法の開発を試み、成功しました。新しい確率的探索手法を使用すると、上記の問題に対する最適な量子ゲートシーケンスの探索が数時間ででき、桁違いに簡単になることが、スーパーコンピュータ「富岳」を使い、確認・実証されました。
この新しい手法は、量子コンピュータのコンパイラを高速化し、実用的な量子コンピュータの有用なツールとなることや量子コンピューティングデバイスの性能向上につながることが期待されます。また、量子中継のノードにおける量子情報処理の最適化にも応用できるため、量子インターネットの実現や環境負荷の低減に貢献することが期待されます。なお、本成果は、2024年5月6日(月)に、米国の科学雑誌「Physical Review A」に掲載されました。

背景

図1  n個の量子ビットの状態準備をゲート配置ごとにGRAPEを用いて忠実度Fを最適化する探索を全配置について行った場合の推定計算時間
青線は宇宙の始まりから現在までの時間(137億年)を示す。
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量子コンピュータは開発途上ですが、社会に大きな影響を与えることが期待されています。応用先としては、量子インターネットの実現やエネルギー的側面からの環境負荷低減への貢献、さらには医療用の新しい化学物質や、よりクリーンな環境のための材料探索の加速などが挙げられます。
量子コンピュータにとって大きな問題の一つは、量子状態がノイズに非常に敏感でコヒーレントな量子状態を長時間維持することが難しいことです。最高のパフォーマンスを得るには、量子状態をコヒーレントに維持できる時間内で演算を進める必要がありますが、量子ビット数が増えた場合にも有効な、最適なゲートシーケンスを見いだせる方法は知られていませんでした。大規模な量子計算の場合でも、ゲートシーケンスの組合せが爆発的に増加する困難を回避して、従来のコンピュータで実行可能な時間と計算リソースの範囲内で効率的な最適ゲートシーケンスの探索を可能とする解決策が求められていました。

今回の成果

図2 スーパーコンピュータ「富岳」を用いて計算したF=1の最適ゲートシーケンスの出現率
Nは状態準備に使う2量子ビットゲート数(図4の緑の縦の線分の数)を表す。量子ビット数(n)が8個の場合。F=1が得られる理論的下限 N=124を少し超えたNでのF=1の出現率は急激に増加する。
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本研究チームは、確率的探索手法を導入して、実行可能な時間と計算リソースの範囲内で、最適な量子ゲートシーケンスを効率的に探索できる系統的な手法を開発しました。
コンピュータが情報を保存及び処理する際、全ての情報は0又は1の値を持つビットの文字列に変換されます。人間が理解できる言語で記述されたコンピュータプログラムを、量子コンピュータが情報処理できるように変換したものが量子ゲートシーケンスです(用語解説 図4参照)。量子ゲートシーケンスは1量子ビットゲートと2量子ビットゲートから成りますが、最も少ないゲート数で、高いパフォーマンスを発揮するシーケンスが最適なシーケンスです。
図1は、n個の量子ビットの状態準備を最適制御理論アルゴリズムであるGRAPEを使用して、ゲート配置ごとに現在使える最速の古典計算機で忠実度Fを最適化する探索を全配置について網羅的に行った場合の推定計算時間です。青線は宇宙の始まりから現在までの時間いわゆる宇宙年齢(137億年)です。量子ビット数が増えるに従い、可能な組合せの数が爆発的に増えるため、n=6で総計算時間は宇宙の年齢を超えてしまいます。
全ての可能なシーケンスを量子ビット数が少ない場合について分析した結果、多くの最適な量子ゲートシーケンスが存在することが明らかになりました(補足資料 図5参照)。これは、確率的探索手法を使えば、網羅的な全数探索をしなくても、最適な量子ゲートシーケンスを短時間で見つけられる可能性を示唆します。
図2は、スーパーコンピュータ「富岳」を用いて調べたn=8個の量子ビットで構成される状態準備で最適化に用いるゲート配置ごとの忠実度F=1のシーケンス出現率を、状態準備に使う2量子ビットゲート数(N)の関数として表したものです。理論的なNの下限(N=124)(補足資料 表1参照)を超えるとF=1の出現率は急激に上昇するため、確率的探索手法が非常に有効になります。例えば、N=124を少し超えたN=129でのF=1の出現率は50%を超えており、ゲート配置ごとの探索を2回行えば、平均1回以上F=1の最適量子シーケンスが得られます。このように、確率的手法を用いれば、網羅的方法で探索する場合に比べて、桁違いに短い時間でF=1の最適量子シーケンスを探索できることが判明しました。

今後の展望

図3 量子コンピュータパフォーマンスの改善
(概念図)
量子コンピュータのコヒーレンスは時間の経過と共に低下する。 コヒーレンスが低くなり過ぎると、量子コンピュータの情報が無意味になる。量子コンピュータの動作を最適化することで、量子コヒーレンスが有用性のしきい値を下回る前に、より多くの情報を処理できるようになる。
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今回開発した、量子コンピュータに最適な量子ゲートシーケンスを提供する系統的で確率的探索手法は、量子コンピュータのコンパイラの高速化など実用的な量子コンピュータの有用なツールとして、近い将来、量子コンピューティングデバイスのパフォーマンスを向上させ(図3参照)、量子インターネットの量子ノードや環境負担低減への貢献が期待されます。
今後、本研究チームは、今回得られた成果に機械学習のアプローチを統合して最適量子ゲートシーケンスのデータベース化を目指すなど、量子コンパイラ処理の高速化を目指し、量子コンピュータのパフォーマンスの最適化に応用していきます。

各機関の役割分担

  • 情報通信研究機構: 研究の構想、確率的探索手法とGRAPEアルゴリズムを用いた解析の遂行、論文執筆
  • 理化学研究所: 研究の構想、スーパーコンピュータ「富岳」用プログラムコードの作成・解析の遂行、論文推敲
  • 東京理科大学: 研究の構想、解析結果と解釈に関する議論、論文推敲
  • 東京大学: 研究の構想、解析結果と解釈に関する議論、論文推敲

論文情報

掲載誌: Physical Review A
DOI: 10.1103/PhysRevA.109.052605
URL: https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevA.109.052605
論文名: Quantum circuit synthesis via a random combinatorial search
著者: Sahel Ashhab, Fumiki Yoshihara, Miwako Tsuji, Mitsuhisa Sato, and Kouichi Semba


なお、本研究の一部は、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)「知的量子設計による量子ソフトウェア研究開発と応用」(JPMXS0120319794)及びJST共創の場形成支援プログラム「サスティナブル量子AI研究拠点(SQAI)」(JPMJPF2221)の助成を受けたものです。また、本研究成果の一部は、理化学研究所のスーパーコンピュータ 「富岳」を利用して得られたものです。

補足資料

今回開発した確率的探索手法の有効性について

これまでのアプローチでは、基本的な量子ゲートの全ての可能なシーケンスを分析し、最適制御理論アルゴリズムであるGRAPEを使用して、各量子ゲートシーケンスに必要な最適なパラメータを見つけます。図5には、今回の研究を構想する原点となったデータを示します。このタスクの場合、使用する2量子ビットゲート数Nが6未満の場合には、忠実度F=1を達成できるシーケンスは存在せず、F=1に漸近するにつれて近似解の存在割合は減少します。N=6の場合には、忠実度F=1を達成できるシーケンスが初めて出現し、その割合は、全ての可能な量子ゲートシーケンスの20%も存在することが明らかになりました(図5 右端 1-F=10-12のピーク)。
図5 量子もつれゲートとして2量子ビットのCNOTゲートを使用した4量子ビットでの量子状態準備問題に対して生成された状態の忠実度F値のヒストグラム
x軸は対数表示を使い、F=1に近い領域を拡大して、この領域のヒストグラムを識別しやすくしている。点線(青)、破線(緑)、実線(赤)は、それぞれ2量子ビットゲート数N=4、5、6に対応する。1−F=10-12のピークには、1−F<10-12を与えた結果が全て含まれており、N=6の条件下で可能な全ての結果に対して20%も存在することが明らかになった。


表1には、今回の研究で探索したn量子ビット系での量子状態を生成するタスクについて、量子回路のサイズ、可能なゲート配置総数及びゲート配置ごとの計算時間の推定値の比較を示します。

表1 量子回路のサイズ、可能なゲート配置総数及びゲート配置ごとの計算時間の推定値の比較
計算時間は、私たちの計算環境に固有な値である。各計算は、n=4までは一つのCPUコアで実行され、n≥5の場合は約10 CPUコアで実行された。n≤7までの計算はワークステーションで実行され、n=8の計算はスーパーコンピュータ「富岳」で実行された。表中で「CNOTゲート数」の意味は、忠実度F=1を得るために最低限必要なCNOTゲート数の意味である。

用語解説

量子ゲートシーケンス

複数の量子ビットに対して実行されるゲート操作の手順を指定した命令のセット。水平方向の6本の青線は6つの量子ビットを表し、左側が入力、右側が出力を表す。左から順に実行される。赤い四角は1量子ビットゲート、2本の青線をつなぐ緑の縦の線分は2量子ビットゲートを表す。量子ゲートシーケンスは、1量子ビットゲートと2量子ビットゲートから成るが、最も少ないゲート数(赤い四角の数、緑の縦の線分の数が最少)で、高いパフォーマンスを発揮するシーケンスが最適なシーケンスである。

図4 量子ゲートシーケンス(概念図)

確率的探索手法

解の候補をランダムに選び、解であるか否かを判定することで解を得る手法。多数の解が存在する場合、全ての解の候補を分析する方法よりも、確率論的方法の方が優れたパフォーマンスを発揮する可能性がある。


ゲート

1ビット又は2ビットの情報に対して実行される単純な操作。近年の幾つかの研究では、さまざまな量子タスクを実行する量子ゲートシーケンスを構築するための改善された方法(レシピ)が提案されている。しかし、これらのレシピでは、必ずしも最短の量子ゲートシーケンスが得られるわけではない。


GRAPE

GRadient Ascent Pulse Engineeringの略称。最適制御理論の原理を使用して、指定された方法で量子システムを制御するための最適なパルスを見つける数値アルゴリズム。


最適制御理論(GRAPEアルゴリズム)を網羅的探索に応用して、理論的に最適なものを特定する手法を開発

2022年9月1日付け報道発表
量子コンピュータに最適な量子演算シーケンスをシステマティックに見つける手法を開発
https://www.nict.go.jp/press/2022/09/01-1.html


忠実度F(Fidelity)

2つの量子状態の「近さ」の尺度。ある量子状態が他の量子状態として識別されるテストに合格する確率を表す。2つの量子状態が同一である場合、それらの間の忠実度は1に等しい(F=1)。2つのユニタリー演算子の「近さ」の尺度として使用するためにも一般化され使われている。


F=1が得られる2量子ビットゲート数の理論的下限
忠実度F=1を得るために、量子ゲートシーケンスに最低限必要なCNOTゲート数。量子ビット数(n)が増加するとともに、表現可能な状態のパラメータ数が増えるため、補足資料 表1の「CNOTゲート数」欄のように増大する。CNOTゲートは、2量子ビットゲートの一種。最初の量子ビット(制御量子ビット)が |1⟩である場合に限り、2番目の量子ビット(ターゲット量子ビット)状態を反転させる働きをする。


量子コヒーレンス

デバイスのノイズやその他の欠陥によって情報がどの程度劣化したかを表す0から1までの数値。情報が最初に作成されたとき、量子コヒーレンスは1に等しい。量子コヒーレンスが0に等しい場合は、元の情報が完全に失われていることを意味する。
最近、数百量子ビットを含む中規模の量子コンピュータが構築された。これらの量子コンピュータは、量子力学の原理を使用して既存のスーパーコンピュータの能力をも超越することが実証されたが、コンピュータ内部のノイズの影響で、コヒーレントな量子状態を維持できず必要な情報が徐々に失われていく。この問題にいかに対処するかが重要な課題である。

本件に関する問合せ先

国立研究開発法人情報通信研究機構
未来ICT研究所
小金井フロンティア研究センター
量子ICT研究室

アシュハブ サヘル


理化学研究所 計算科学研究センター
量子HPCソフトウェア環境開発ユニット

辻 美和子


東京理科大学
理学部第一部物理学科

吉原 文樹


東京大学
大学院理学系研究科
附属フォトンサイエンス研究機構

仙場 浩一

広報(取材受付)

国立研究開発法人情報通信研究機構
広報部 報道室


国立研究開発法人理化学研究所
広報室 報道担当


東京理科大学
広報課


東京大学大学院理学系研究科・理学部
広報室