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ほとんどの原子周波数標準は、いまだに実験室レベルの高度な装置に留まりますが、多くの研究者たちの継続的な努力により、私たちの日常生活にも利用可能な小型、かつ、低コスト、低消費電力な原子周波数標準も提供されつつあります。

progression from laboratory-sized frequency standards to miniaturized modules and future chip-level-integrated systems
原子周波数標準のサイズおよびコストの抑制は、年々、進捗しており、今まで想像しなかったようなアプリケーションの創出を期待させます。 そこで、私たちは、CLIFS(Chip-Level-Integrated Frequency Standard)の開発プロジェクトを立ち上げ、最新の集積回路とMEMS技術とを駆使して、格段に小さい原子周波数標準の作製に取り組んでいます。

1967 年以降、SI単位系において、マイクロ波原子時計が秒を定義してきました。そして、国際標準時間は、世界中のごく限られた計量機関に設置された一次周波数標準器を用いて、この秒の定義から逸脱しないように、精緻に管理・運用されています。ただし、これらの一次周波数標準器を用いてでさえ、皆様に標準時刻を提供する工程では、市販のラックマウントサイズのセシウム時計の力を借りなければなりません。ラックマウントサイズのセシウム時計は、複数台の並列動作により可換性と、平均処理により提供時刻の安定性と精度の向上において、なくてはならない存在です。

ラックマウントサイズの原子時計の登場は、衛星への原子時計の搭載も可能にし、全地球測位システム (GPS) の普及に重要な役割を果たしました。また、通信システムの基地局にも活用され、高帯域幅ネットワークに必要な正確なタイミングを提供します。しかし、原子時計は原子時計を汎用的に活用するには、まだまだ巨大かつ高額であり、無線機器にてバッテリー駆動するには消費電力も過大であるため、携帯電話に代表されるような民生デバイスに搭載することは非現実的です。

原子時計はすでにグローバルな通信ネットワーク網にて使用されていますが、そのコストとサイズにより、一般的なユーザーデバイスでのアプリケーションには適していません。

私たちは、原子周波数標準の開発におけるこの最後の「険しい崖(クリフ)」を克服し、マイクロチップのような電子部品として活用可能な原子時計の提供を目指します。

5G以降、通信ネットワークが単なる携帯電話網から、自動車、ロボット、空中ドローンなどの多様なアプリケーションを含むように進化するに伴い、エンドポイントでの正確なタイミング の提供は、GPS信号が利用できない場面でも、認証された時間と位置を提供することを可能にし、将来の様々なアプリケーションに必要な効率、セキュリティ、および安定性の向上の大きく寄与します。

要素部品の小型化・微細化

小型原子時計の構成例

CLIFSの開発には、原子時計を構成する複数のコンポーネントを大量生産に適合する手法で微細化する必要があります。 原子時計を構成するコンポーネントには以下の機能が必要とされます。

  • 特定の原子種(アルカリ金属)からの選択的な原子共鳴の取得
  • 原子共鳴に必要な原子種の封入
  • 原子共鳴を安定的に取得するための高周波数源

レーザー光源

垂直共振器面発光レーザー (VCSEL) は、電力効率の高い有用な光源です。 VCSELは、GaAs基板上に半導体プロセスも用いてバッチ生産が可能であり、コストメリットにも優れます。 放射されたレーザー光に対する原子応答は、一般に、原子の封入容器を挟んで対向する光検出器で直接測定されます。

最も正確な原子時計では、光原子共鳴を直接検出しますが、そのためにはレーザーの高度な安定化と狭線化が必要であり、小型化は容易ではありません。 私たちが開発を進めている原子時計は、光源の高安定化の代わりに、レーザーにGHzの高周波数変調を施します。適切な周波数の変調を行うことで、コヒーレント ポピュレーション トラップ (CPT) 共鳴として知られる狭線化された共鳴が取得でき、レーザの安定化を必要としない、小型化に適した装置構成が提供されます。

ただし、安定化の機構を不要としても、レーザーの波長は、原子と相互作用する波長の近傍に維持されなくてはなりません。 従来は、熱源を使用して波長制御を行いますが、この手法は消費電力の観点から、常時の制御に適していません。 そこで、我々は、レーザー共振器の間隔を静電的に制御する手法を検討しています。 より具体的には、微小電気機械システム (MEMS)構造 を活用して、共鳴器の間隔を制御して、波長を必要とする値にロックする手法です。

VCSEL components
MEMS波長制御機構を有したVCSELの構成例
VCSEL SEM image
MEMS波長制御機構を有したVCSELのSEMイメージ(東北大学提供)

ガスセル

レーザーと干渉する原子種は、シリコンとガラスとで構成される小型ガスセルに封入されます。 コンパクトなパッケージを提供するために、レーザーと光検出器とがセルの片側に集積されることが望ましく、我々が提案する手法では、2 つのミラーがガスセル内に集積化されています。 ここでは、ルビジウムがセル内に封入されており、セル内壁とルビジウム原子との衝突を緩和するためのバッファーガスとして窒素とアルゴンが封入されています。

photograph and schematic of the compact gas cells
(左:)ミラーが組み込まれたガスセルの写真:実験のため、様々な光路長のガスセルが同時作成されている。 (右:) セル構造と原子時計への組込イメージ。 (東北大学提供)

高周波発振器

CLIFS用に独自開発している超小型高周波発振器は、薄膜バルク音響共振器 (FBAR) を活用します。 これは、両面を金属膜で挟まれた圧電自立膜からなる弾性波素子です。 水晶発振器とは異なり、FBAR は半導体プロセスで製造されるため、サイズがわずか数マイクロメートルの精密な構造を製造できます。 また、薄膜の共振器のため、GHz帯での共振を得ることが容易であり、ルビジウムまたはセシウムのCPT共鳴を得るのに必要な変調周波数( 3.4 GHz または 4.6 GHz )に適合させることも容易です。この特徴は、CMOS技術で構成される発振回路を大幅に単純化することに繋がり、低コスト化、小型化、低消費電力化に大きく寄与します。


FBARおよびCMOS発振回路の実装
FBARおよびCMOS発振回路の実装

我々が開発した素子では、 CMOS 回路に 発振周波数を制御する機能は集積化されており、CPT共鳴が得られるようにレーザーの変調を制御します。FBARはCMOS回路と同じ生産工程を利用できるため、将来的には高周波発振器をワンチップ化することも検討しています。

今後の展開

高安定でドリフトのない原子時計チップが最新のマイクロプロセッサに相当するサイズとコストで利用可能になると、GPS信号にのみ依存してきたタイミングがロバストに、冗長性をもって活用できるようになります。これは、いままで安全性とセキュリティの観点から、GPSの活用を避けてきた様々なアプリケーションに高度な位置情報と時刻同期を提供することが可能になります. これらは、Beyond 5G および 6G ネットワークの通信プロトコルをも革新していくでしょう。

参考文献

CLIFSの概要

1) M. Hara, Perspective スマホに載る原子時計 実現へのシナリオ, 日経BP日経エレクトロニクス 1219, 85 (2020)

2) M. Hara, Perspective 原子時計のチップ化が導く 超高精度デジタルツイン, 日経BP日経エレクトロニクス 1217, 81 (2020)

レーザー光源

3) Z. Zhao, M. Toda, T. Ono, M. Hara, S. Shinada, H. Nakagawa and K. Kikuchi, 800 nm band MEMS-tunable VCSEL for microfabricated atomic clock, in Proc. Smart System Integration (SSI), 26-28 April 2022, Grenoble, to be published in IEEE Xplore (2022)

ガスセル

4) H. Nishino, Y. Yano, M. Hara, M. Toda, M. Kajita, T. Ido and T. Ono, Reflection-type vapor cell for micro atomic clocks using local anodic bonding of 45° mirrors, Optics Letters 46(1), 2272-2275 (2021)

5) H. Nishino, M. Hara, Y. Yano, M. Toda, Y. Kanamori, M. Kajita, T. Ido and T. Ono, A reflection-type vapor cell using anisotropic etching of silicon for micro atomic clocks, Applied Physics Express 12(7), 072012 (2019)

高周波発振器

6) M. Hara, Y. Yano, Y. Takahashi, T. Nishizawa, S. Hara, A. Kasamatsu, M. Ueda, H. Ito and T. Ido, Super-high-frequency-band injection-locked two-divider oscillator using thin-film bulk acoustic resonator, Electronics Letters 57(3), 132-134 (2021)

7) M. Hara, Y. Yano, M. Kajita, H. Nishino, Y. Ibata, M. Toda, S. Hara, A. Kasamatsu, H. Ito, T. Ono and T. Ido, Microwave oscillator using piezoelectric thin-film resonator aiming for ultraminiaturization of atomic clock Review of Scientific Instruments 89(10), 105002 (2018)